お狐様、寝かしつける
そんな越後商会の諸々と比較すると、イナリの家は平和だった。具体的に何をしているのかというと……なんと、シチューを作る準備をしていた。そう、シチューである。ご飯とふりかけがあれば問題はないと本気で思っているイナリが、シチューである。やはりもてなす客がいるという事実は重要なのだろうが、サトウマートで面白いものを見つけたからという理由もあった。
「今の世は素晴らしいのう……これがあればしちゅうが作れるというのじゃから」
「今の世というか……結構昔からありますけども」
「そうじゃったかの……? 言われてみるとそうじゃった気もするが……」
ともかく、便利な時代であることは確かだろう。カレーもシチューも、ビーフストロガノフですらもルウを買えば作れてしまう。まさにお手軽に本格派の最たるものだろう。イナリが持っているルウの箱もそうしたものの1つだ。
栗谷シェフの贅沢クリームシチュー。栗谷おばさんという愛称で知られる有名シェフが監修したという固形ルウは、長らく愛されるベストセラーである。
何しろ炒めた野菜やお肉を水で煮込み、そこにルウを入れて牛乳を加えれば完成するのである。バターで炒めたタマネギに小麦粉を加えてうんぬんかんぬんという手順を踏むよりも遥かに簡単だ。そしてなんと、鶏肉すらもシチュー用として角切りにしたものを売っている。
だから、イナリでも箱の説明通りに作ればシチューが出来てしまうのだ。
「ま、とにかく良い時代になったものじゃ」
―まったく良い時代だ! 今の世は力が全てをねじ伏せる! 貴様もそう思わんか!?―
―ふざけるな! そんなもの……俺たちは認めはしない! 俺と、王国が……ゴッドキングダムが打ち砕く!―
「……儂、打ち砕かれるんかのう」
「ア、アニメの台詞ですから……」
アツアゲが居間でアニメを見始めたようだが、凄いタイミングで凄い台詞が飛びだすものである。
そんなアツアゲをそのままにニンジン、ジャガイモ、タマネギを切って鶏肉も加え、ミックスビーンズも一袋。軽くサラダ油で炒めて、あとは所定の通り。ぐつぐつと煮え始めたシチューがやがて出来上がれば、シチューと炊き立てご飯のセットが完成だ。
いただきます、と手を合わせて食べれば、ほくほくの野菜や鶏肉、そして豆が良いアクセントになっている。
「お豆を入れるのは初めて見ましたね……前に作ったこと、は……ないですよね」
「なんとなく合うんじゃないかと思ってのう。しかし正解だったようじゃ」
家庭料理だからこその自由な発想ではあるが、こういうのは作法はない。やったもの勝ちだ。そうしてシチューを食べて、洗い物をして、お風呂に入って。今日もイナリと恵瑠は一緒のベッドで寝る。というか、恵瑠が普通にベッドに入ってくるしイナリもそれに何も言わない。人恋しいのだろうとニコニコしていて、恵瑠はそんなイナリに「えへへ……」と笑う。
「こういうこと言うと子どもっぽいって言われるかもですけど……こうして誰かと一緒に寝るの、夢だったんです」
「笑わんよ。事情も聞いておる……お主はもっと、愛されていいんじゃ」
「狐神さんのこと、なんだかお母さんとか……会ったことないですけどお祖母ちゃんとか。そういう風に感じるんです」
「うむうむ。なれば今宵は儂がお主の母の代わりとなろう。ほれ、良い子じゃ」
頭をイナリに撫でられて恵瑠は恥ずかしそうにしながらも、嬉しいという気持ちが勝つのを感じていた。
(いいなあ、楽しいなあ。ずっとこういう時間が続けばいいのに……)
恵瑠は、武本には感謝している。父親代わりとして育ててくれたし、本当の家族のように気にかけてくれている。書類上でも、恵瑠は武本の娘だ……もっとも姓は「捨てる必要もなかろう」と、そのままにしてくれているが。勿論、恵瑠が望むなら武本姓にしてもいいと言ってくれている。それを遠慮しているのは恵瑠自身だ。
(……私、幸せだな。1人だけ生き残ったのに。でも、いいのかな……)
「ええんじゃよ」
そんな恵瑠の心情を読み取ったかのように、イナリが恵瑠を抱き寄せて頭を撫でる。
「お主のことを全て分かるなどとは言わんが、そんな身体がこわばるような悩みを抱えてなくてええんじゃ」
「あの、私は」
「儂が赦そう。お主が何か自分の力ではどうにもならんことを、その過去を悩んで罪と思っておるのであれば。それは罪ではないと儂が保証しよう。幸せになることを罪と思うなら、罪ではなく義務だと断定しよう」
その言葉は、不思議と恵瑠の中へと入り込んでくる。本当に、本当に不思議なことだが……イナリの言葉は、他の誰の言葉より恵瑠を導いてくれる気がするのだ。だから、本当に素直な……敬虔とも言える気持ちで恵瑠はイナリに問いかける。
「いいんでしょうか。私は、幸せになっても」
「当然じゃよ。幸せにおなり。それが人の子に唯一課せられた義務じゃ」
瞬間、恵瑠は自分の中から重いものが抜けていくような……そんな気がした。それは気のせいではあるのだろうが、でも本当に枷が外れたような、そんな感覚があったのだ。不思議だ。似たような言葉をどれだけ聞いてきても、枷が増えていくだけのような気がしていたのに。
「さ、もうお休み。夜更かしは良くないからのう」
昨日よりも大分速やかに、そして安らかに眠りについた恵瑠をぽんぽん、と優しく叩いて。イナリもまた、静かに目を閉じた。





