お狐様、朝ご飯を作る
朝。恵瑠はなんだか穏やかな気持ちで目を覚ました。何故か……は分からない。分からないが、不思議とスッキリした気分で。そうして、暖かな布団の中でぼうっと天井を見上げてみれば知らない天井であることに気付きハッとする。しかし一瞬後にはイナリの家であることに気付くのだ。
「ビックリした……そっか、此処は……」
イナリの家、イナリの部屋。想像以上に立派なマンションであることにビックリしたが、此処を覚醒者協会が紹介したということにもビックリした。こういうところを紹介しても問題ないと思われているというのは、経済力の何よりの証明でもある。
実際、置いてある家具も相当な高級品だが、これも覚醒者協会が選んでくれたものだという。ハッキリ言って、有り得ないほどの好待遇だ。普通は「勝手に好きなの買ってください」で終わる話をそんな風にするということは、覚醒者協会がイナリにこれ以上ないくらいに気を使っている証拠であり武本から事前に話をされた恵瑠でも「何者なのか」と思ってしまうほどだった。だった、のだが。昨日一日一緒に過ごしてみると、どうにもそうした事実とはあまりにも乖離した性格であることも分かってしまう。
まあ実際のところはお金を使う習慣が身につかないイナリに稼ぎにあった生活をさせたい覚醒者協会側の思惑が働いただけなのだが……さておいて恵瑠からしてみれば「不思議な人」という総合評価になってしまうわけである。
「……あれ?」
そういえば、隣にイナリが居ない。そして漂ってくるのは……お味噌汁の香り、だろうか?
「いけない! すっかり寝坊を……!?」
起き上がってパタパタと台所に走っていくと、そこでは恵瑠の想像通りにイナリがお味噌汁を作っていて、恵瑠を見るとパッと柔らかな笑顔を向けてくる。
「おはよう。もう少し寝ておってもよかったんじゃが」
「いえ、そんな。私もお手伝いします!」
「ほっほっほ。そうかえ? では玉子焼きを作ってくれるかのう。儂はどうにも苦手での」
「お任せください」
軽く手を洗い、丁度出ていた卵を2つ割ってボウルで溶くと、恵瑠はフライパンに薄く油を引いて焼き始める。通常玉子焼きを作ろうと思うのであれば四角い玉子焼き機を使うのが一番いい。しかし丸いフライパンで作れないというわけでもなく、要はコツと経験の問題でもあった。そして幸いにも、恵瑠はその2つを持ち合わせた人間であった。
「おお……凄いのう。ぷろの技、というやつかの?」
「プロではございませんが……経験とコツ、ですね」
「うむうむ、素晴らしいのう。いやあ、見事なもんじゃ」
「そ、そこまででは……ないのです、けども」
「謙遜するでない。儂は心から感心しとる」
キラキラした目で賞賛してくるイナリに恵瑠はくすぐったいような気持ちになるが、不快ではない。それはイナリが本気で言っていると分かるからだ。そうして……そこでハッと気づいてしまう。
(あ、そっか。この人、言ってることに嘘が全くないんだ。全部本気だから、言葉も優しさも全部本心だから……だから、するっと入ってくるんだ……)
それが分かってしまうと、肩の力が少し抜けてきたのを恵瑠は感じていた。イナリのことを、ほんの少し理解できた気がしたのだ。そう、イナリはまるで記憶の彼方にある、母のようだ。
「ふふっ」
「む? どうかしたかの?」
「いえ。なんだか、嬉しいなって」
綺麗に焼けた玉子焼きをまな板に乗せると、イナリも「うむ」と頷く。ちなみにイナリの視線は玉子焼きに釘付けだ。何を考えているかも、今の恵瑠には何となく分かる気がした。
「確かにこれほど美しく焼けると……幸せな気持ちになるじゃろうのう」
「はい、そうですよね」
やっぱりそうだった、と。心の中で嬉しい気持ちになりながらも恵瑠は頷く。玉子焼きなんて、もう作り慣れて感動など恵瑠には無かったが……こうしてイナリに喜んでもらえると、恵瑠までなんだか嬉しくなってくる。
「いやはや、恵瑠は凄いのう」
「えへへ……ありがとうございます」
なんだかほわほわした気持ちで恵瑠は玉子焼きを切り分け、そうしている間にもイナリはおにぎりを握っていた。ニコニコしながらおにぎりを握っているその姿は、もう本当にニッコニコで……恵瑠が見ていて分かる程度には幸せそうだ。
(好きなんだなあ、おにぎり……)
正確にはおにぎりではなくお米が好きなのだが、まああまり変わらない。そうしているうちにお湯が沸いて、イナリが「おお」と声をあげる。
「恵瑠や、すまんがお茶を淹れてくれるかのう」
「あ、はい」
湯呑みを棚から出して……急須の場所が分からなくて、恵瑠は近くの棚を開けて。しかし見つからなくて首を傾げてしまう。こうなると、聞いた方が早い。だから恵瑠は、急須のことで頭をいっぱいにしながらその問いを投げかける。
「お母さん。急須、は」
振り返ってそう言いかけて。恵瑠はハッとしたような表情になる。その顔はみるみるうちに真っ赤になって。顔を隠すようにしながら「……間違えました」と蚊の鳴くような小さな声で呟く。その場に蹲ってしまう恵瑠に、イナリは慈愛の目を向けながら「急須は此処じゃよ」とカウンターの上を指し示す。そんな肯定も否定もしないイナリに、恵瑠は。
「あの。忘れてください……」
「うむうむ。儂は何も聞かんかったよ」
恵瑠は食事の間中、ずっと蚊の鳴くような声だったが……まあ、それはそれ。ほんの少し、イナリと恵瑠の心の距離が近くなった要因となったのである。





