お狐様、海を通して世界を知る
これは別に当時の政府だの各国の覚醒者協会がどうだの、ましてや当時の新世代覚醒者たちがどうという話ではない。ただ、誰もが希望を見ていたのだと当時の人は語る。
広い海の支配権を失い、再び海が何も分からない「恐ろしいもの」に戻った時代に現れた、水中で戦える新世代の覚醒者たち。そんな彼等、彼女等が集まれば僅かでも海の支配権を取り戻せる。当時の人々はそう熱狂したし、新世代覚醒者たちも自分たちこそが救世主だと信じていた。
だからこそ各国の軍隊は置物になりかけていた海洋戦力を投入し、護衛の覚醒者まで募集し万全の態勢を整えた。そうして……その全てを、無惨に失ったのだ。
「今の人類は、もう知ってる。海は取り戻せない。川とか湖を守るのが精いっぱいで、海に出てる漁船もいつか、出れなくなる日が来るかもしれない。そう信じない人は戦ったけど、何も変わってない」
「……」
なるほど、とイナリは思う。この間の伊東の件でもモンスターは海から出てきたが、海の中はすでにモンスターの国と化しているのだろう。人類は地上部分を防衛しているにすぎず、それすらも油断すれば失うような状況下にある。けれど、陸は今のところ防衛出来ていて海はどうしようもない。そんな諦めを日常と受け入れ切ったのが、今の時代なのだろう。
「やはりだんじょんなど破壊した方がいいように思うが」
―ダンジョンの破壊は避けてください―
「ふふ、面白いね」
イナリがシステムメッセージをうるさそうに払いのけていると、紫苑が小さく微笑む。
「ダンジョンを破壊だなんて。そんなことが出来るなら、面白いのにね」
「……ふむ?」
「でも、ダンジョンから手に入るものがないとモンスターに対抗できないし。色々大変だし。やっぱり壊さない方がいいのかもだけど」
確かに、人類はダンジョンから手に入る新物質や武器、防具などによってモンスターに対抗可能な力を手に入れ、魔石という新エネルギーによって文明をも変容させた。今や「魔石発電」は完全クリーンな主要発電であり、公害などという言葉も遠くなったという。
「知ってる? 今は最も豊かで安全で、幸福な時代なんだって。海を今は取り戻せないけど、いつかは取り戻せるかもしれない。少なくとも世界は大きく進歩してて、そこにはモンスター以外の不安はない。そういうことらしいよ」
「なるほどのう……まあ、確かに分からん話ではない」
人間同士の戦争もなくなり、資源問題も解決した。文明も進歩している。少なくともそういった点を見れば、明るい未来しか見えない。
(だんじょんの発生で人の子らは本来有り得ぬ幸福を得た。今たとえば世界からだんじょんが消えたとして……その先は……まあ、暗かろうなあ)
すでにダンジョンは人類文明に大きく食い込み、無くてはならないものになっている。その事実はもはや覆しようもない。様々な問題を解決した今の文明を手放せと言われて是と答える者はほぼ皆無だろう。
「難しい問題じゃな」
「そうだよ」
「……で? お主はどうして戦っておるんじゃ? もっと平和にも生きられよう」
「んー。水の中が好きだから、かな」
「ほ?」
「昔はダイビングっていう遊びがあったんだって。水の中に潜って、魚とか見たりするの。今はそんなの、自殺行為だけど」
まあ、それはそうだろう。海の中に潜るなど、水棲モンスターに出会えば確実な死が待っている。水中適応の覚醒者が死んでいるのに、一般人がそんな遊びを出来るはずもない。
「でも、ボクは出来る。勿論死ぬかもしれないけど、ボクは大好きな水の中に好きなだけ潜れる。だからボクは『そのついで』に戦ってる。お金にもなるしね。それだけ」
「ううむ、さよか。それはなんというか……頑張れとしか言えんのう」
「うん。好きでやってるからね」
イナリは思わず苦笑してしまう。目の前の鈴野紫苑という少女を改めて見ると、独特の感覚……死生観も含め、そういったものを持っている少女だとよく分かった。
だから改めて、イナリは紫苑をしっかりと真正面から見る。
短く切った黒い髪と、ジョブの力なのかマメなケアの賜物なのか、真珠のように白い肌。
何処か眠そうな目は、しかし強い意志を宿している。年齢相応の、しかし均整の取れた身体を包む服はスポーティな印象のあるシャツとジーパンで……。
「しかしよく見ると、大した荷物も持っていないようじゃが。着替えや荷物は何処ぞに置いてきたのかえ?」
「あ、言ってなかったっけ。ボクはそういうの、いらないんだ」
そう言うと、紫苑は軽く空中で手を動かして。
「槍」
『トライデントランサー!』
何やら元気の良い声が何処かから聞こえ、紫苑の手の中に三叉の槍が現れる。
「こういうこと、出来るから」
「おお……何やら凄いのう」
何処かから突然出てきたように見えたが、恐らくイナリの神隠しの穴とは別の仕組みの何かだろう。まあ、あれこれ追求するつもりはイナリにはないが……つまり、武装はそういう風に何処かから出せるということなのだろう。
「だから、ボクの心配はいらないよ」
「うむ。余計な世話だったようじゃ。さて、色々と興味深い話も聞けた。儂はそろそろ……ん?」
立ち上がろうとしたイナリの袖を、紫苑が掴む。一体なんだろうかと疑問符を浮かべるイナリに、紫苑は「ねえ」と声をかけてくる。
「ボク、今日の仕事は全部終わってるんだけど」
「う、うむ?」
「何処かダンジョン行く気なら、ボクも連れてってほしいな」