お狐様、囲まれる
そして、数日後。イナリは赤羽港に来ていた。赤羽港への襲撃時間からそれなりに時間がたったせい……というわけでもなく、物流の拠点である赤羽の人通りは翌日には元通りだったらしい。つまり今日も市場は混んでいるのだが、今日のイナリの目的地はそちらではない。ない、のだが。前回と比べて更に有名かつ人気になってしまったイナリはすぐに囲まれてしまっていた。
「わー、イナリちゃんだかわいいー!」
「狐神さん、写真撮っていいですか!?」
「うわー、ほんとに耳生えてる!」
「すげー!」
「あんなに小っちゃいのにランカーなんだろ?」
「こ、これ! 囲むでない! 他の人に迷惑じゃろ!?」
「生イナリだ!」
「おーい、こっちこっち!」
人が人を呼び、とんでもないことになってきているが……こうなると段々統制が効かなくなってくるのが群衆というものだ。警備の覚醒者たちがとんでくるが、まさかちぎって投げるわけにもいかず拡声器で「解散してください!」と呼びかけても、それで去っていく者は1人か2人いる程度だ。このままでは押し合いで怪我人が出てもおかしくはない。となればそろそろ心を鬼にして……狐だが……とにかく1つ、本気で説教するしかないかとイナリがすう、と息を吸い込んだところで。
「勇者が着物店の近くを歩いてたぞー」
そんな、よく通る声が響き……人々の声が、ぴたっと収まる。そして驚愕と興奮の声が響き始める。
「え、嘘! 蒼空くん来てるの!?」
「マジで勇者!? え、着物店ってどこ!?」
「げ、着物店3つもあるぞ!?」
「とにかく急げ!」
「蒼空くーん!」
ドタバタと色んな方向に走っていく人々が消えた後には警備の覚醒者とイナリが残されたが、警備の覚醒者も一礼して元の配置へ戻っていく。
「やれやれ……どうにか助かったが……先程の声の主には感謝かのう」
「どういたしまして」
聞こえてきた声に振り向けば、そこには建物の間に挟まるようにしてコロッケをモグモグを食べている少女の姿があった。
「ちょっと待って。今は、めんたいこの時間だから」
「う、うむ」
もぐもぐとコロッケを食べ終わると、包み紙を近くのゴミ箱にポイと捨てて。少女は、イナリの目の前までやってくる。
「おわった。おまたせ」
「別にそんなに待ってはおらんが……いいや、それよりも。先程はありがとうのう」
なんだか独特のリズムを持った少女に、イナリは深々と頭を下げる。正直な話、イナリが怒ることで場の空気を変えることはできたかもしれないが、あれだけ人が集まっていると何処かのタイミングで怪我人が出る可能性もあったかもしれない。それを考えるに、少女のとった手段は的確であったといえる。だからこそ、イナリはそれに最大限の感謝をして。少女は、こてんと首を傾げた。
「別にそこまでのことはしてない」
「そうだとしても、儂は助かった。それが全てじゃよ」
「……そっか」
「うむ」
なんだかほんわかとした雰囲気が流れる中、イナリは「おお、そうじゃ」と思い出す。
「自己紹介を忘れとったの。儂は狐神イナリじゃ」
「こがみ、いなり。うん、知ってる。ボクは鈴野紫苑」
「すずの……おお、知っとるぞ。確かとっぷらんかあの」
4位、『潜水艦』鈴野 紫苑。水中戦専門と聞いていたが……此処にいるということは仕事中だったのだろうとイナリは思う。
「うん、そう。4位。でもあんまり顔は知られてない」
「むう? そうなのかの?」
「そう。あんまりアイドルとか、得意じゃないから」
「なるほどのう」
そう、トップランカー5人の中で一番顔が知られていないのが紫苑だ。何処かとイメージキャラクター契約をしているわけでもないので、なおさら顔が知られていない。
「それはそれは……大変じゃったろうに」
「そうでもない。ボクは、すぐ死ぬと思われてたから」
「む?」
「良かったら向こう岸、行こ。ここ、人が多いし」
「ん……うむ」
どうせ、川口のほうに渡る予定だったのだ。イナリは頷き、川口への定期船に紫苑と共に乗る。今日は人が少ない日なのか、イナリと紫苑以外に乗客はいない。川口港について降りると、紫苑はベンチに座って横をポンポンと叩く。座れ、ということなのだろう。イナリもそこにちょこんと座る。
「水中で戦える覚醒者……『新世代覚醒者』って呼ばれてたらしいけど。そうなった人たちは、あまり水に潜りたがらない。どうしてか、分かる?」
「それはまあ……人は元々水の中に生きるものではないからのう。根源的な恐怖もあるのではないかの?」
「それもある。でも一番大きいのは死亡率」
紫苑はそこで、1度言葉を切って。しかし、イナリはなんとなくその先の言葉を察していた。
「新世代覚醒者が現れた当時。日本に78人いた水中適応の覚醒者は、全員死んだ。世界的に見ても死亡率100%。今はそうでもないけど、それは水の中で戦うことをほぼ諦めたから。活躍することを諦めれば、それなりに仕事もあるし」
「なんという……」
「世界的に見ても水中戦を専門にするのは、ボクくらい。そのくらい死ぬ。今でも死ぬと思われてる。だから、ボクに興味がある人は、あんまりいない」