お狐様、米の喜びを知る
その後色々とあったのだが……結局、イナリが折れる形で安野の翌日の同行が決まった。
まあ、ダンジョンの予約も全部やってくれるというのでいいのかもしれない。
あと、イナリが覚えたての電話で秘書室長の青山に電話して苦情を入れたので安野は怒られて泣いていた。帰ったら顛末書を書くらしい。さておいて。
「オフロガワキマシタ」
「む、風呂が沸いたのう」
お風呂の使い方も教わったので、今のイナリは最新の文明機器も使えるスーパーイナリだ。
シャワーだって使える。耳をペタンとして水が入らないようにするが、なんともくすぐったい。
「ふふふ。指先1つで風呂が沸くとは、良い時代になったものじゃ。風呂自体もなんか綺麗で大きいし、こういう時代の変化は歓迎じゃのう」
イナリ自身、ちゃんとした風呂に入ったことはない。必要なかったというのもあるが、人の居た時代はイナリが使うわけにもいかず、人の居ない時代は残された風呂釜にイナリが自分の神通力で水を溜め湯を沸かすしか方法はない。ないが……そこまでして風呂に入る意味も見いだせなかった。
しかしこうして「イナリのもの」として定義されれば話は違う。
何の遠慮もなく、そして心の底から風呂を楽しめるのだ。
「ああ、気分がいいのう……お、そういえば入浴剤とやらもあるんじゃったな。家で地方の名湯を楽しめるとは、今の世は何処まで進歩しておるのか……む? なんじゃこれ……赤……湯が赤く!? なんじゃこれ、血の池地獄をいめえじして作った……? 何処向けの品じゃコレ!?」
ダンジョンが日常になってから出来た非日常系の新製品がイナリの家に置かれていたのは要らない心遣いの一つだが……まあ、なんだかんだ香りは薔薇系で素晴らしいのがクレームの入らない範囲を見極めているのだろうか?
「こっちの緑がすらいむの池で、青いのがるるいえの海、紫が魔女の釜……? 誰が買うんじゃこれ……」
ちなみに結構人気商品ではあるらしい。そういうのを面白がる人は結構多いということなのだろうか? さておいて。
足をのばせる広い湯船につかって……途中危なかったが最終的に気分よく出てきたところで、炊飯器からご飯が炊けたことを知らせる音が聞こえてくる。
「さてさて、米を食うのは何時振りかのー。別に儂は飯食わんでも死なんけど……いや待て。そもそも儂、お供え以外で米食うのも炊き立て食うのも初めてじゃの……?」
ホカホカと炊けている二合飯を見ながら、イナリは「うーん」と唸って。その少し後には、食卓に今夜のメニューが並ぶ。
たっぷりのどんぶり飯に、おかずは塩にぎり。綺麗に三角に握って海苔を巻いたおにぎりは美味しそうだ。米しか並んでいないが。
「いやあ、美味そうじゃ! まずは白飯をかき込んで……うーむ、美味い! 最高じゃー! 炊き立てとは斯様に、斯様にも……!」
涙ぐみながら、おにぎりをハムッと齧る。口の中に広がるしっかりと効いた塩味はイナリに米の喜びを教えてくれる。ほんのり甘い米としょっぱい塩。何故か不思議とこれが合うのだ。そこに海苔の食感を加えることで、もはや完全食に進化したと言ってもいい。栄養バランスとかの話はとりあえず置いておこう。
「……美味い。温かい白飯と塩、そして海苔の調和が儂に幸せを運んでくる……おお瓊瓊杵尊よ、貴方のおかげで儂は今、米の喜びを知っておる……まあ、会ったことないんじゃけど!」
自然とテンションも上がりながら、イナリは米をぺろりと平らげる。正直に言って栄養バランスはとんでもなく悪いが、イナリの場合は人ではないので食べたものは全部体内でエネルギーに変換されるので問題はない。
食器を洗って、歯を磨いて……まあ歯を磨く必要もやっぱりなかったりするのだが、そこはそれ。現代に溶け込む為の習慣作りであったりする。
あとはもう寝るだけだが、イナリが巫女服をポンッと叩くと服は狐の模様がプリントされたパジャマに変化する。
そう、この服も普通の服などではない。イナリの意のままに変化する神器の類であり、しかし今まで特にその機能を利用する意味もなかったものではある。
別に巫女服のままでシワになるわけでもなく、この変化もただのイナリの気分だ。
もっと言えば、特に意味のないこと。それでも、そういう利害だのなんだの……そういう実利的なものを超えたところに意味はあった。
「ふふ、ふかふかで綺麗なベッドに寝巻で寝る、か……儂にそんな日がくるとは思わなかったのう」
あのまま、あの朽ちていく廃村と共にいつか消えゆくものと思っていた。
しかしそれが、蓋を開けてみれば自分の家で風呂に入って飯を食べ、今まさに寝巻を着て寝ようとしている。
あの頃の自分に「そうなるのじゃよ」と言ったところで、夢物語だと信じはしないだろう。
けれどこれは、現実だ。ベッドによじのぼって、布団を被って目を閉じて。
イナリは静かに、夢の世界へと旅立っていった。
イナリ「むにゃー……」