お狐様、しっかり備える
策、此処に成れり。今放った魔法は安眠の魔法。呪いではなく人に利をもたらす祝福であるが故、先日使われた厄払いのような手段では祓えない。それでも万が一ということはある。だからこそ古代魔法を使える神官を今日此処に集まって不思議ではない面々を乗っ取ることで用意した。すなわち、物量勝負だ。1つ2つを耐えたところで意味のない、眠りという「祝福」の嵐。これを耐えうる者などいるはずもない。だから、その場の全員が成功を確信して。
「……ううむ、まだ状況を理解しきれておらんのじゃが」
「は、はああああああああああああ!?」
そこに居たのは眠っているイナリ……ではなく、僅かに困惑の色をにじませた、バッチリ起きているイナリであった。そしてその事実を、その場にいる誰もが理解できなかった。何故、どうして。覚醒者とかいう超人であろうと絶対に眠るような……過剰すぎるほどの眠りの魔法をかけたのだ。どんな人間であろうと絶対に眠るはず。実際、そうであるだろう。その認識に間違いはない。
「何故だ……どんな人間だろうと、眠りに落ちるはず……!」
「ああ、なるほどのう。確かにこれ程の眠りの力。どんな人間じゃろうと眠りに落ちるじゃろうのう」
「なら、貴様は……貴様は、何故!」
市長の震える声に、イナリは微笑みながら返す。そう、それはたった1つの理由によるものだ。
「しかしのう。儂は、人間ではないんじゃよ」
そう、単純な話だ。「人間が生きるために必要な行動」は「イナリが存在するために必要な行動」とイコールではない。その気であれば食べることも、眠ることも必要はない。事実、廃村にいた頃はそうであった。廃村が廃村になる前もそうであった。
イナリが「眠ろう」と思うから眠るという行為を疑似的に行っているのであり、本来の意味での眠りなどというものは存在しない。故に、どれだけ眠りに誘ったところで「そういう機能」はイナリには存在しない。
「つまるところ、眠りのない者に眠りの技は効かん。そういうわけじゃな」
「う、嘘つけ! そんな、そんなものがあるか! 我々ですら眠るというのに! 貴様、それは……それは! すでに生物ですらないぞ!」
「然り。儂を分類すれば『生物』ではなかろうよ。ならば何かと聞かれれば少しばかり困るのじゃが……」
「う、うう……!」
想定を遥かに超える化け物であろうと対応できるようにするための、この作戦だった。しかし、しかしだ。想定不能なレベルの化け物であるなど。そんなもの、誰が想像できるだろうか?
「ところで、面白いことを言うたな。『我々ですら眠る』? まるで人間ではないかのようなことを言う」
「アル・イラ・ロウズ!」
「アル・イラ・ロウズ!」
「アル・イラ・ロウズ!」
市長の詠唱に合わせ、その場の全員が魔法を唱え……同時にイナリを無数の光の輪が締め付けるように拘束していく。1つでも力自慢を押さえつける強靭な拘束魔法をこれだけの数を放った。たとえ眠らない怪物だろうと、そこに存在している以上は対抗する手段は存在する。実際、こうして拘束できている。ならば、これが正解のはずだ……!
「よっと」
「う、うわあああああああああああああああああああああ!」
バキンッとあっさり破壊される光の輪の数々に、その場の全員が悲鳴をあげる。有り得ない。もはや怪物などというレベルですらない。何故こんなものが地上に存在しているのかすら理解できない。
しかしまあ、これは単純に選択ミスである。イナリに魔法戦を挑むのは先程の眠りの魔法くらいに勝算がない話だ。
「来い、狐月」
そうしてイナリの手に刀が現れる。とはいえ……簡単に斬るわけにもいかない。何しろこの場には安野もいない。後で戻ってきたときに「市長たちが襲ってきたから皆殺しにしちゃったのじゃ」と言い訳するのは、少しばかり拙いしイナリもあまりやりたくない。
しかし刀を構えたイナリを警戒して市長たちもじりじりと距離をとっている。少しだけだが考える時間はありそうだ。
(さて、アレが本人に化けた物の怪であるというなら話は楽なんじゃが)
しかし、どうにもそうではない。イナリの直感はアレは人だと感じている。とすると、憑りつかれたか……それとも、もっと別の何かか。となれば、とにかくその「間違い」を正す必要があるだろう。だからこそ、イナリは刀身に指を這わせ滑らせる。
イナリの指の動きに合わせ金の輝きを纏っていく狐月は、荘厳なるその輝きを纏って。
「破邪顕正の理を示せ――秘剣・数珠丸」
黄金の輝きが部屋全体に……いや、壁をも貫通するようにして、その先……伊東そのものを包むかのような光の柱となって立ち昇っていく。
その光の中で、市長たちの中から何かが抜けるようにして消えていく。そして響いたのは、扉の開く音。そこには苦悶の表情を浮かべた石動の姿があった。石動からも何か黒いもやのようなものが漏れ出ていたが、それでも耐えようとしているかのようで。光の柱が消え去ったそのとき、石動はその場に倒れるように膝をつく。その身体からは今ももやが漏れ出ていて、それは止まることがない。
「お、おのれ……これで終わると、思うか?」
「終わらんのかの?」
「当たり前だ! こうなれば最終手段を使うのみ……!」
「それはもしや、海から来るのかの?」
「何⁉」
「前にもそうなんじゃないかと思うとってのう。あのときは何も分からんかったが……念のため、待機して貰っとるんじゃよ」
そう、その通り。この場には居ない、もう1人。
アツアゲが、海を臨む国道に風を受けて立っていた。
「……!」
そして、アツアゲは見た。海の中から現れる、巨像軍団を。それは兵士の群れだろうか?
見上げるようなそれらを前に、アツアゲは腕を天へと突きあげて。
虚空から現れた2つのダイスが、勢いよく回転を始めた。