お狐様、会談に挑む
翌日の朝。伊東市役所の市長室には、それなりの人が集まっていた。といっても市長とイナリに安野、何人かの市役所職員、そして地元のローカルテレビの局員たちだった。
メジャーなテレビ局は集まっておらず、その一社だけだ。その状況に安野は「こんなに集まらないものですかね? 告知したはずですし……」と首を傾げていた。実際、イナリの注目度は今高まっているはずなのだが……こんなに集まらないものだろうか?
(おかしいですね。普通、覚醒者協会日本本部の協力となれば念のためでも撮影スタッフを送り込むものなんですが……)
安野は手近な職員に軽く手をあげて合図をすると、首を傾げたので「ちょっと此方へ」と声をかけ市長室の外へと連れ出していく。勿論、呼ばれた職員はよく分からないとでも言いたげな表情をしている。
「何か御用でしょうか?」
「マスコミの件です。地元の局しか来ていないようですが」
「あ、はい。予定していた取材チームが道のトラブルで来れていないそうでして」
「……は?」
「それでは、私はこれで」
市長室に戻っていく職員をぼけっと見送り……安野はハッとしたように覚醒フォンを取り出し本部に電話をかける。
「安野です! 東京から伊東への道のトラブルとは何ですか!?」
『トラブル? そんな報告は来ていませんが』
「……来ていない?」
安野は素早く思考を巡らせる。実際にマスコミが来ていないということは、道のトラブルがあったという職員の報告は正しいはずだ。イナリと地方自治体の長の会談のためにヘリコプターを飛ばすはずもない。しかし、東京から伊東に来る道でトラブルといえば……モンスター関連の可能性が高い。それの連絡が来ていない? おかしい。何かがおかしい。
「想定ケース2の確認をお願いします。市役所職員から『道のトラブル』があったと聞いています。静岡支部から報告は無いのですね?」
想定ケース2。すなわち支部の裏切りを想定したケースである。覚醒者協会は基本一枚岩……と言いたいが、何が起こるか分からない。だからこそ本部ではそうした幾つかのケースを想定し即座に対応出来るような体制を整えている。勿論、誤解の場合も多々ある。だからこそ、本部ではいざというときの確認体制も整えている。しかし……返ってきた返答は。
『静岡支部に特に大きな動き無し。職員の認識違いでは? たとえば、体のいい言い訳にそういうのを使った可能性もあります』
「そう、なんでしょうか……分かりました。一応此方でも警戒を続けます」
『はい、お願いします。此方でも別ルートでの確認を行います』
そう言って電話を切ると、安野はふうと息を吐く。問題はない。そのはずだ。しかし、なんだろう。確認できる状況だけなら何の問題もない。ないはずだ。それなのに嫌な予感がする。早く戻ろう。そう考えたそのとき。安野の肩を誰かが掴む。
「!?」
振り返った先にいたのは……静岡支部から派遣された覚醒者。確か外で警備についていたはずだが、何故此処に。まさか。その考えを振り切れないままに、安野は覚醒者に問いかける。
「……此処で何をしているんです?」
「厄介なことです。貴方には強力な護りがかけられているようですね。ですが何事にも抜け道はあるもの……たとえばそう、貴方たちの言う『呪』ではなく祝福であれば……」
「狐神さっ」
「エル・カタラ」
安野の身体から力が抜け、すやすやと眠りながら床に倒れる。
「安眠の魔法です。起きればスッキリ爽快、疲れも取れる……フフ、やはりこの魔法であれば問題は無いようですね」
覚醒者の顔が石動のものへと変わっていき……そのまま、寝ている安野を見下ろす。人間の覚醒者協会の、本部の所属。適当な者を宿らせてしまいたいが……流石にそこまでやれば中にいるイナリに気付かれる。だから、しばらく安野はその辺りに転がしておくしかない。
……そう。昨日の失敗を元にかなり繊細に結界を組み上げたはずだが、完璧と思っても気付かれることはもう学習した。破壊されたプライドは、同じ相手への勝利で取り戻すしかない。
(狐神イナリ……貴方は必ずや我が王に捧げます。覚悟しなさい)
扉の向こうでそんなことが起こっていても、市長室の中には一切物音が聞こえてこない。イナリは安野が中々戻ってこないことを少し心配するが、もうそろそろ本番の時間だ。様子を見てきてほしいと近くの職員に伝言すると、これからの流れを確認していく。その内容も覚えた。特に問題はない。
「では、映像は此方で後で編集しますので好きにご歓談ください」
そんな適当な放送局員の言葉に苦笑すると、イナリは応接セットに座ったまま市長に向き直る。
「狐神さん、本日は伊東市にお越しいただきまして、本当にありがとうございます」
「此方こそ、儂のような新人に声をかけてくださったこと、感謝しておる」
「ハハハ。ところで私たちの市のことをどのくらいご存じか伺ってもよろしいですか?」
「うむ。良い温泉地だと聞いておる。昨日も温泉に入ったが、これが中々……」
「はい、その通りです。伊東の温泉地としての歴史は古く、決して他に負けるものではないと自負しておりますが……実は他にも最近名物が出来る予定なんです」
「ほう、名物?」
「はい。それは……」
市長の顔が、ニゴリと邪悪な笑みになる。イナリの周囲、全ての人間がイナリに杖を向けて短く何かを唱える。
「偉大なる王の治める国になるということです」
「エル・カタラ」
先程安野を眠らせたものと同じ魔法が、大量かつ同時に発動しイナリへと襲い掛かっていく。