お狐様、伊東温泉を楽しむ
最上階、露天風呂付スイート和洋室。イナリに用意されたのは、そんな分類の部屋だった。
畳の部屋にはちゃぶ台と座椅子に座布団。洋室にはベッドが2つ置いてあり、ベランダ側に壺風呂とでも呼ぶべき露天風呂が存在している。ベランダからも露天風呂からも相模湾を眺めることができるため、かなり眺望もいい。
問題は所々設備が古いところくらいだろうが……イナリは気にしてもいない。元々型落ちの家電が揃えられた家で何の不足もなかったのだ。このぐらい揃っていれば何の問題もない。むしろ……。
「贅沢な部屋じゃのう。6階からの眺めというのは中々に素晴らしい……こういうのは初めての体験じゃ」
廃村は勿論、最初の家も今の低層マンションも、眺望という点ではそこまで良いものではない。しかし、此処は6階で海の側だ。イナリからしてみれば、中々に心洗われる光景だ。風が強いせいで波が少々荒れてはいるが、それもまた風情と言い切れる。
「しかし……こうして見ると美しい海ではあるが。今となっては怪異の蠢く……」
言いかけて、イナリは「む?」と首を傾げる。
「海は危険という意味では、そう変わらんかもしれんの?」
まあ、自然の脅威に襲われるかモンスターに襲われるかという違い……脅威が増えた分物騒ではあるが、確かに海は危険という点においてはそう変わらないのかもしれない。さておき、市長の到着までは大分時間がある。ではどうするか? 答えは温泉に入る、である。源泉かけ流しの風呂にはもう並々と湯が注がれ溢れている。鼻歌など歌いながらイナリは脱衣所を通って露天風呂に向かい……ゆっくりとその身体を沈める。ついでにアツアゲも入ってきて沈んでいくので、イナリがひょいと引き上げると湯船の縁に引っかかって楽しんでいる。
「ほあああああ……やはり温泉は良いのう」
熱海と同様に無色透明の温泉はイナリの身体と心に癒しを与えてくれる。まあ、常にすこぶる健康なので癒されるような何かがあるかは不明なのだが、こういうのは「そういう気分」というものであり、それは非常に大切なものだ。
まあ、露天風呂などと名はついているがプライバシー保護とかそういうアレのために露天風呂から見えるのは空くらいなのだが。それでも温泉の熱気と外気が混ざり合い、非常に良い塩梅となっているのは露天風呂の良いところだろう。
「やはり温泉地に住むかのう。熱海も良いが伊東も良い。こうなれば全国の……」
言いかけて、イナリはふと思い出す。前回の秋葉原、そして新宿。どちらの臨時ダンジョンも、イナリでなければクリアが難しいような代物だった。しかし日本は東京だけではない。この伊東や熱海のある静岡、いや本州だけではなく九州、四国に北海道……かなり広いのだ。それだというのに、イナリを必要とするダンジョンが東京に現れる。他の地域でそういったものが現れたという話はイナリは聞いていないし呼ばれていない。まるで、イナリに合わせて現れたかのようでもある。
それだけではない。強力な覚醒者が東京に集まり、それでも日本全体の平和が維持されている。それもまた、同じと言えるのではないだろうか?
「……それでも、もんすたあ災害は起きた。そもそも『しすてむ』が人の子の完全な味方であれば、そもそも『もんすたあ』などというものを呼び込みはすまい。ならば敵かといえば、それは無いと言い切れる。はてさて、謎は深まるばかり、か」
言いながらイナリは湯舟に身体を深く沈めていく。謎を解く鍵は、未だ足りていない。たぶん「システム」は味方であり、「ダンジョン」もまたシステムが関係している。そして「神の如きもの」は、「システム」とは仲間ではないらしい。今分かっているのはそこまでだ。
「お主のことも謎じゃがのう、アツアゲ」
イナリがアツアゲにそう声をかけるが、アツアゲは聞いてるのか聞いてないのか振り返りもしない。そう、アツアゲは「積み木ゴーレム」というモンスターだ。ペットという形になっていようと戦闘力は健在であり、レベルも上がったりする。ならばモンスターとは「完全なる人類の敵」というわけでもないということだ。しかしそれに関してはイナリにとっては理解できる部分もある。
「妖怪変化も人を害することもあるが利することもある。そういう関係と考えることも出来る……かの?」
菅原道真公が勉学の神に雷神、祟神と複数の側面を持っていることに言及するまでもなく、人ならざるものとは人を呪いも助けもする。まあ、どちらかといえば呪うことが多いが……さておいて。人間とモンスターの関係もそういうものである、と考えることも出来るだろうとイナリは思う。
「はてさて。そうなると、さながら神代にでも戻ったかのようじゃが。よもやイザナギとイザナミが天沼矛を再び突き立てたわけでもあるまいに」
まあ、どっちも会ったことないんじゃけど、と言いながらイナリはカラカラと笑う。どうであるにせよ、どうやら世界はまだまだ大きく変わっていく途中にある。もしかすると、その先にイナリの求める真実があるのかもしれないが……そんな難しい考えも、温泉の気持ちよさの前では溶けて消えていくのだった。