お狐様、卵料理の難しさを知る
卵焼き。あるいは厚焼き玉子。その作り方は結構単純だ。要は卵を巻くことが出来ればいい。
しかし、しかしだ。これが実は結構難しい。卵をくるんと巻くその動作が難しく、普通であれば四角い専用のフライパン……いわゆる卵焼き器を使う者が多いだろう。多い、だろうが。イナリはそんなものの存在を知らない。昔廃村が廃村じゃなかった頃、ご家庭のお母さんが丸いフライパンで綺麗に卵焼きを焼いていたのを見ただけなのだ。
しかし見ていたのだから出来るかもしれない。そう考えたのがイナリの失敗だ。かくして卵焼きになる予定だったものはスクランブルエッグになり、イナリはお皿に盛られたそれを悲しげな顔で見つめていたのだ。
「うーむ……意外に難しいものじゃのう。もっと簡単なものと思っとったが」
もっとも、スクランブルエッグとて美味しい卵料理には違いない。そこに貴賎や上下などあるはずもなく、ただ目的地に辿り着かなかった悲しさなのだ。さておいて。ご飯にふりかけをかけて、お茶を淹れて。そうしてイナリは食卓で「いただきます」と手を合わせる。そうして器用にスクランブルエッグを箸でつまみながら食べていたイナリだが、なんとなくつけたテレビでは丁度ニュースをやっていた。
―此方の映像をご覧ください。ランカーの1人として有名な覚醒者『黒の魔女』が本日、長野県の軽井沢付近を飛行しているのが発見されました―
「飛行? ああ、あのおうぶかの。ほー、よう飛んでおるのう」
視聴者提供と書かれた映像には黒ずくめの女が空を飛ぶ姿が映っていたが、その場に居たと思われる人々の歓声が聞こえてくるのも分かる。
―黒の魔女が飛行しているのをご覧になったとのことですが―
―もうマジ凄かったです! 空とか飛べるんですね!―
―めっちゃカッコよかったです!―
―俺も黒に染まりたいです!―
―このように現地でも未だ興奮冷めやらぬといった空気ですが、黒の魔女側の事務所に問い合わせたところ『更なる闇の深淵に向かい突き進むのみ』とのコメントが……―
よく分からないが楽しんでいるらしい、とイナリは頷く。イナリにとっては使わないものであったから、欲しい人の手に渡ったのであれば良いことだ。スクランブルエッグをおかずにふりかけご飯を食べ終わったイナリはお茶をゆっくりと飲み、台所でお茶碗を洗い始める。その頃テレビではイナリのことをやり始めたようで、何やらイナリの名前が聞こえてくる。
―新宿のダンジョンゲートの件から数日がたちました。未だにダンジョンの詳細についての発表は覚醒者協会からはなされておらず、『相性が重視されるギミックのダンジョンであった』とされるのみです。攻略に関わったクランもいずれもノーコメントを貫いています―
―今回も『イナリちゃん』の愛称で親しまれる狐神イナリさんの単独攻略であったとのことですが―
―はい。狐神さんのジョブが『狐巫女』であることは知られていますが、その詳細は公表されていません。しかし巫女ということから、『エクソシスト』にも似た能力ではないかとされています―
「儂の愛称、そんなことになっとったんか……」
一応音だけは耳に入れながらお茶碗を洗うイナリだが、ちゃん付けされるのはどうにも気恥ずかしい。まあ、嫌だからやめてくれなどと言うほどではないが。親しまれているというのは、良いことだ。そこにイナリが水を差すものではない。そうしてお茶碗を洗い終わり手を拭いていると、覚醒フォンに着信があった……安野だ。赤井を通さず連絡をしてくるとは、いったい何なのだろうか?
「もしもし、儂じゃよ」
『あ、こんにちは。改めまして先日はおつかれさまでした』
「いや、役に立てたなら幸いじゃ。で? 今日はどうしたんじゃ? また何かあったかの?」
『……私、そんなに面倒ごと持ち込むイメージですかね?』
「ほっほっほ。なに、赤井を通しておらんからのう。また急な話かと思うたのじゃが……違ったかの?」
『あー、いえ。覚醒者協会そのものに持ち込まれた案件なので、いつもの話とはまたちょっと方向性が違うといいますか』
「ふむ?」
一体何の話なのか。イナリがそのまま聞く態勢に入ると、電話の向こうで安野も言葉を選ぶような躊躇いを感じさせた。
『実はですね。静岡県の伊東市から是非会談をしたいと要請がありまして』
「怪談? 儂、のっぺらぼうの話みたいなのしか知らんのじゃが」
『そっちじゃないです。話し合いのほうです』
「儂と何を話すんじゃ……?」
首を傾げるイナリに、電話の向こうの安野からも苦笑が漏れていた。実際、そんなに難しい話ではないのだ。
『話の内容はなんでもいいんです。有名な覚醒者と市長とか知事とかが話をした……っていう感じで、支持率を上げるやつっていいますか。狐神さんは新宿の件で今有名だから話が来たんじゃないかなって』
「ああ、うむ。なんとなく分かるのう」
『そういうのなんで、クランではなく協会側の仕事になりまして。もしお受けいただけたら既定の報酬になりますがお支払いできます』
「ふうむ」
別に報酬に興味はない。だからイナリとしては断ってもいいのだが。
「まあ、ええじゃろ」
『あ、ほんとですか!? 助かります! いやあ、別に断ってもいいんですけど、自治体との関係が良いに越したことはありませんしね! では3日後になりますが……迎えを行かせますので!』
別に断る理由もない。そういうのを受けても、別に構わないだろう。イナリはそう思いながら、安野との通話を終えるのだった。