お狐様、海を見に行く
ところで……海沿いの町といえば海鮮。そんなイメージを持つ者は多い。それは別に間違っているわけではないが、モンスター災害後の海は地上より遥かに危険な場所へと様変わりした。
太平洋のダンジョンゲートから湧き出るモンスターのせいで、海での死因に「モンスターによる殺害」が加わってしまったからだ。たとえば地引網漁や定置網漁でマーマンがついてくるといったような事例も珍しくはないし、それによる死傷事故も多発している。たてなわ釣りのような漁でも何かしらのモンスターを呼び寄せる可能性があるし、東京湾での事件は「護衛の覚醒者がいても死ぬ」という事実を漁師に再確認させていた。
つまり、それがどういう事態を引き起こすかといえば……。
「おお、干物か。旨そうじゃのう」
「申し訳ありません。ここ数日、漁師のストライキが発生しているようでして新鮮な魚が手に入らず……」
当然、食卓に影響する。命の危機を改めて感じた漁師による安全対策の強化や賃金交渉等々……そういった理由によるストライキが発生し、魚の入荷が無くなったのだ。結果として折角熱海の旅館に居るイナリの夕食にもお刺身の類は一切並んでいないのだが。
「別に気にせんよ? 干物、美味いしのう。ご飯に合うのじゃ」
そんなものは、ご飯大好きなイナリには特に問題のない出来事である。お刺身だろうと干物だろうと、普段のイナリが食べないものだしご飯に合うのであれば何も文句はない。たとえ海苔とご飯しかなくてもイナリはニコニコと食べるだろう。
「しかし、すとらいきとは……仕事をせんことで抗議する手法じゃったよな? ここ数日で、となると東京湾の件が原因とも思えんが」
「私どもも又聞きなのでなんとも……ではありますが、マーマンが出たとかデーモンフィッシュが出たとか、そういう話が出ているらしく……」
「ふうむ」
【深き水底にありしもの】の干渉力をイナリが一時的に排除したのは、ついこの間のことだ。すでにそれが回復して【深き水底にありしもの】がまた何かを企んでいると考えることも出来る。出来るが……少し違う気もする。
単純に水棲モンスターの群れが寄ってきただけという可能性もあるが、そこは調べてみなければ何とも言えない話ではあるだろう。
食事を食べ終わり、多くの人が寝るだろう午後10時頃になって、イナリは砂浜までやってくる。
熱海サンビーチと呼ばれる、かつては海遊びの拠点だったが……今では海遊びはかなりスリリングな度胸試しのようなものだ。この時間になれば誰も海岸には居ない。
そんな場所でイナリが何をしているかというと……白く輝きながらイナリの近くでクルクルと浮遊回転している狐月を眺めていた。
「祢々切丸が飛んでいかん……ということは、怪しげな企みをしておる者は居らん、ということか」
イナリは【秘剣・祢々切丸】を解除すると狐月をその手に取る。【秘剣・祢々切丸】は広範囲に何らかの力による影響を感知した場合、その根源へと飛んでいく……そんな力を持つ、イナリの技の1つだ。だからこそ、祢々切丸が反応しないのであれば先程聞いた件は、何者かによる企みではない可能性が高まったということになる。
しかしそうであれば本当に偶然ということなのだろうか?
流石にイナリでも水棲モンスターの気持ちは分からないのでそれに答えが出ることは無いが……そこでふとイナリは従業員の話を思い出す。
「……そういえば死者が出たとは聞いとらんかったの」
水棲モンスターが出たとは聞いたが、それで誰かがどうにかなったという話は聞いていない。となれば、護衛の覚醒者でどうにかなる範囲だということになる。原因となるものがないのであれば「はぐれもの」のような可能性だってあるだろう。そうなると、イナリが今ここでひと暴れしてどうこうという話ではなさそうだ。もっと確実な「安心」が欲しいはずだ。それは理屈ではなく感情の話だ。
(となれば、ひとまず儂の出番ではない、か)
やってほしいと言われればやるが、頼まれもしてないのにやっても不安の払しょくにはならない。だからこそイナリは身を翻して宿へと戻っていく。今このタイミングでイナリにできることは何もないからだ。
そうなれば、イナリが集中すべきは明日の静岡第1ダンジョンの攻略だ。その為にもそろそろ寝なければならないだろう。
「余計な気を回しすぎたかの。さて、寝るとしようか」
実際イナリの予想通りに、この件は「はぐれモンスター」によるものだ。ダンジョンから溢れ出たモンスターは己が本能のままにあちこちに散っていくため、何体かのモンスターがたまたま偶然何処かに現れる「はぐれ」現象が発生する。
その規模は「はぐれ」ごとに様々だが、滅多なことでは大規模の群れにはならない。特に水棲モンスターの場合、海は広い……1つの場所にモンスターが集まるなど、普通は無い。
だからこそ、この件は本当にイナリの気の回しすぎであるのかもしれない。
しれないが……そうであるかどうかは、現時点では誰にも分からないのだ。