お狐様、熱海温泉を堪能する
さて、そんなわけでミーティングを終えたイナリが何処に行くかといえば、温泉である。
熱海の温泉は何種類かあるが、一番有名なのは塩化物泉だろう。
いわゆる塩を感じる「熱の湯」とも呼ばれる保温効果の高いとされる湯であるが、実際に入ってみるとそこまでクセの強いものではなく入りやすい泉質である。
海の見える旅館でそういった温泉であるというのはなんとも海を感じるような贅沢さであり、かつての時代にはそうした海との調和を前面に押し出したような風呂も人気だったという。
さておき新海旅館も源泉かけ流しの塩化物泉であり、その無色透明の湯からは湯気が立ち昇り何とも暖かそうな雰囲気がある。
しかしながら、慌ててはいけない。まずはかけ湯をしてから髪と身体を綺麗に洗う。ぶっちゃけた話でいえばイナリの身体は自動的に綺麗になるのだが、マナーというものがある。
汚れていないから身体を洗わないというのは、一般的にはあまり推奨されない行いだ。イナリはその辺をしっかり理解しているので、綺麗に身体を洗う。あとお風呂文化も好きなのでその辺りに妥協しないというのもある。
ちなみに当然のようについてきているアツアゲも真似して身体を洗っている。ちなみにアツアゲの温泉の可否については従業員の人に聞いて許可済である。猫や犬みたいに毛のあるようなものは困るがどう見てもツルツルなアツアゲはオッケーであるらしい。
さて、そうして身体を綺麗にすればイナリはまず内湯に入る。ヒノキ造りの大きな浴槽には誰も入っておらず、イナリの独り占めである。かけ流しであるがゆえか、少し熱めの湯は身体を洗ったばかりでホカホカしているイナリの身体を更に暖め、その中にイナリは僅かな香りを感じ取る。
「はあ……良いのう。温泉という文化はとても良い。そう思わんか? アツアゲ」
イナリの近くで洗面器の中に温泉を入れたミニ温泉に入っていたアツアゲが気だるそうに手を上げる。「そうだね」とでも言っているかのようだが……この洗面器温泉は従業員のアイデアによるものだ。まあ、アツアゲは足がつかないので仕方がない。
そんなアツアゲをそのままに、イナリは「ほふぅ」と息を吐く。湯船に浸かるだけでも良いというのに、温泉に浸かれば幸福度が2倍にも3倍にもなる気がする。ちらりと視線を向けた先には、露天風呂に続く扉だ。露天風呂。良い響きだ。是非入りたい。そう思えば、イナリはすぐに行動を起こす。湯船から上がり、アツアゲの洗面器を抱えて露天風呂へ行く。
「おお……」
当然のように目隠しが施されてはいるが、岩風呂の上の屋根の向こう側に見える青い空。吹き抜ける風がお湯の温度を僅かに下げ、先程と比べると大分入りやすい温度になっている。
温泉大好きな虫さんがお風呂に入ってくることもあるので、この網でそっと救ってあげてくださいね。
そんな注意書きが書かれた板もあり、イナリは思わずクスリと微笑む。「掬う」ではなく「救う」と書いたのは、ちょっとした優しい表現にしたからなのだろう。ちょっと表現を変えるだけで大分可愛らしい文章になるものだ……そうした人の優しさ、というよりはちょっとした気遣いの暖かさがイナリは大好きだ。
「言葉の端々に暖かみというものは出る……いいものじゃなあ」
アツアゲは理解できなかったらしく首を傾げていたが、発する言葉が「ビーム」だけのアツアゲには少し難しい話だったかもしれない。そんなアツアゲを見ながら、イナリは「む……?」と声をあげる。そういえばアツアゲがなんだったか、今更ながらに思い出したのだ。
「……そういえばアツアゲ。お主も確か、ごおれむじゃったな……?」
積み木ゴーレム。ダンジョンボスとしても有名な存在だが、イナリからしてみればアツアゲはアツアゲなのでゴーレムとかいう単語は頭の中からほぼ消えていたのだ。それにアツアゲは、先程赤井が語ったゴーレムの定義からは外れている。
身長は50cmほどだし……まああの時は大きくなったが……それに土や岩でも、ましてや金属でもない。積み木だから木かといえば、どうにも違うように見える。何製かもよく分からない。まあ、赤井が語ったのはあくまで一般的なゴーレムの基準なのでボスモンスター「積み木ゴーレム」はまた別枠というのもあるのだろう。まあ、イナリにしてみれば結構どうでもいいことではある。
「まあ、アツアゲはアツアゲじゃな」
そう言って終わらせると、適当な場所に頭を預けてイナリは「ほふぅ」と今日2度目の気持ちよさそうな声をあげる。涼しい風と、暖かな露天風呂。この組み合わせは実に良い。いつまでも入っていられそうな、そんな錯覚すら感じてしまう。
「ああ……良いのう。温泉、凄く良いのじゃ……こうなると草津も行きたいのう……有馬に湯布院、登別に……ああ、行きたいところだらけじゃなあ。知識で知っとるのとこうして入るのとでは大違いじゃ。儂はずっと狭い世界で生きとったのう……」
振り返れば、あの廃村に居たのは「いつか皆帰ってくるかもしれないから」という希望的観測ですらない感傷でしかなかった。もっと早くあの廃村を出るべきだったのか……いや、それではただの身元不明者だったかもしれない。全てのタイミングがあのとき合わさって、今の「狐神イナリ」がいる。ならばそれは……運命とでも呼ぶべきものなのかもしれない。
「ま、どうでもええことじゃの……ああ、温泉はええなあ……儂、此処に住もうかのう」
それが出来るだけの財力はあるというか旅館ごと買える財力を有しているだけにかなり洒落にならない台詞ではあったが……どうせ風呂から出たら覚えてない程度の呟きなので、何の問題もないのであった。
イナリ「温泉……良い……」