小田桂子 【side高橋聡】
クラスメイトの小田桂子さんは、背は小さいほうで、細くって、黒く真っ直ぐな髪を肩につかない位置で切りそろえてる。口数は少なく、雰囲気も静か。休み時間にはよく本を読んでいて、時々、やはり同じクラスの斉藤美礼さんとおしゃべりしてる。斉藤さんは元気で目立つタイプだから、二人が仲良いのは意外だ。
自分が小田さんに興味を持ったのは一年前。小田さんと初めてちゃんと会話をした時。中学一年生で、この時も同じクラスだったんだ。多分、小学校も一緒だったはずだけど覚えていない。
春の運動会が終わって間もなくのことだった。猫集会を眺めようと、いつも集会が開かれている公園に行ったんだ。なんかちょっと重いような息苦しいような変な空気を感じてはいた。でも、気のせいだと思ったんだよ。ここで帰っておけばよかったんだ。そうしたら怖い思いをしなくて済んだ。
でも、帰らなかったから彼女と関われた。
暮れはじめの時間で、集会が始まるにはまだ早かった。とは言え、いつもなら早めに一匹二匹は来ているのに、その日は一匹も来ていなかった。それどころか、集会が始まる時間になっても全く姿を現さなかった。これはどうしたことかと、植え込みを覗いてみたりしていると声をかけられたんだ。
もしもし、と。
振り向くと、女の子が立っていた。顔はよく見えなかった。女の子がフードを被っていることもあったし、街灯はまだ灯っておらず、しかし、夕闇はかなり濃くなっていたから。
正直、しまったと思ったんだ。だってそうだろ? 公園には、声をかけてきた顔の見えない女の子と自分しかいない。いつの間にか何の音もしない。しかも、まごう事なき逢魔が刻。
やっちまったと思ったよ。でも、もう遅い。
自分は女の子の声に振り返ってしまったんだから。
一気に吹き出た冷や汗と、体の外にまで聞こえそうな己の心臓の音とを感じながら、自分は女の子と無言で対峙した。女の子は何も言わない自分に、もう一度、もしもし、と声をかけた。
もしもし。
その意味が分かった瞬間、からっからになっていた口の中に唾液が戻った。まだ緊張に縮こまった舌で、自分も女の子に返した。
もしもし。
これは、逢魔が刻のお約束なんだ。相手の正体が分からないとき、同じ単語を繰り返して相手に話す。ヒトデナイモノは、これが出来ないんだって。こんな出来すぎたシチュエーションになったのは初めてだったので、すっかり頭から抜けていた。
かすれた声での返事は、ちゃんと女の子に届いていて。今日の猫の集会は別の場所になったこと、この公園ではもうじき別の集会が始まること、すぐに離れたほうが良いことを教えてくれた。
迷うといけないからと、女の子に手を引かれ、自分は公園から出ることになった。女の子と手を繋ぐ恥ずかしさはあったけど、大人しく手を引かれた。いつものままの公園なら、迷うようなことにはならない。本当ならそんなに広い公園じゃない。
これから始まるらしい集会のせいだろう。公園は、いつの間にかいつもの公園ではなくなっていた。
新宿御苑かって程広くなっていたし、相変わらず何の音もなく、誰もおらず、街灯はいつまでたってもつかないままで、闇がさらに濃くなっていた。漂う空気の重さも息苦しさも増していた。
はっきり言って怖かった。情けない話だけど、自分より小さな女の子の柔らかな手が、とても頼もしかったよ。
公園を出るまでの間、二人でしりとりをした。しりとりをやりだすと不思議と空気が軽くなったし、気がまぎれた。落ち着きだすと、女の子の声に聞き覚えがあることに気づいたんだ。誰だかまでは思い出せなかったけど。
公園を出たところで女の子はフードを取った。公園の中は既に日が落ちきっていたのに、外はまだ夕日が差していた。夕日に照らされたその顔はクラスメイトの小田桂子さんだった。
もう大丈夫、気をつけて帰ってねと、小田さんは手を離して立ち去っていった。
ぼんやりその背を見送っていた自分は、はっと我に返り慌てて小田さんに大声でお礼を言った。その声に、小田さんは振り返って会釈してくれた。
明日、学校でもう一度ちゃんとお礼を言おう。そう思った。
翌日、教室に入って一番に小田さんの席に行き、今度はしっかり頭を下げてお礼を言った。すると、何故か小田さんは驚いた表情をしていた。何か間違えただろうかと焦りが湧き上がりかけた時、小田さんが言った。
よく私だって分かったね、と。
どう言う意味か分からなかった。確かに昨日小田さんは名乗らなかったけど。もしかして自分はクラスメイトの顔を覚えていないと思われたのだろうか。
首をかしげると、小田さんが微笑んだ。そして、自分の心を読んだかのように言ったんだ。
「私、影が薄いから」
この後は、巻き込まれなくて良かったね、ホントありがとう、次あの公園での猫の集会は明後日だって、そうなんだ、なんてやり取りをして終えた。
自分が小田さんに興味を抱いたのはこの日からだった。
小田さんが言った影が薄いの意味はすぐ分かった。小田さんは回りに気づかれないことが本当に多かった。グループを作る時も、係を決める時も、出欠の時さえ。小田さんはかなりの確率で誰にも気づかれない。
例外は斉藤さんだ。斉藤さんが小田さんの存在に気づかなかったことは、自分が見ていた限り一度もない。自分は、今だに小田さんの存在に気づかない時がある……
小田さんはこの常世市においても特異な存在だ。それくらい、小田さんの影が薄いは普通じゃない。小田さんに興味を持って半年が過ぎた頃には十分に思い知っていた。
それと。
……小田さんは可愛いってことも思い知った……