十五、
章子は昼食を済ますと、渚から譲り受けた黒いショルダーバッグに図書カードと読み終えた本を入れ、馴染み深い近所の図書館へ向かった。
衣擦れの音さえ目立つ館内の静謐さに、章子は思わず息を殺し、足音を立てないように慎重に歩いた。カウンターまで行き、借りていた本を返却すると、そのままの足取りで目当ての本が置いてありそうな棚へと移動した。教育学に関する本が並んでいる棚で足を止めると、ある本の背表紙のタイトル名に視線を釘付けにした。
『世界のシリアルキラーたち』
章子はその本を手に取ると、自習スペースの空いている椅子へと腰を下ろした。
血痕が飛び散るおどろおどろしい表紙をした厚みのある本を開き、文章を視線でなぞりながら読み始める。そこで見つけた、あらゆる犯罪者達を押し退け、一際闇の中で輝くおぞましい魅力を持った人物。
フレディ・ジョンソン
テレビで知ったあの男だ。
本を読んで、フレディも章子と同様に、家や学校で居場所がなく常に孤独であったことを再度確認し、改めて好意を抱いた。その他にも、気質や嗜好、家庭環境などの共通点が、章子がフレディを特別視してゆく他ならない要因となったのは事実だ。
フレディに対する気持ちは、小金井に抱くような恋愛感情とは似て非なるものだった。それは、言うなれば憧れの感情に似ているかもしれない。胸の内にある、あらゆる感情が詰まった箱の中には、憧れの他に、同情心もたっぷり溢れるくらいに詰め込まれていた。
フレディは風変わりで知性的、そしてとてもハンサムだった。風変わりは個性だ、という風潮が日本にも流れついてはいるものの、未だに偏見は多く、変わり者達は普遍的な生きづらさを背負っている。
変わり者がふつうの人間となって、他者から受け入れられ生きてゆくのは難しい。他者にはないような欠点があるからといった理由で疎外されるのでは、行き場がない。それにより、社会や他者に強く恨みを残し、奇矯な振る舞いに打ってでる者が現れてもおかしくないだろう。
愛情知らずの孤独が生み出す、絶え間なく噴水のように吹き出るフラストレーション。
他者から粗末に扱われやすい人間が、他者に対して優しくあり続けたいとは思いにくいものだ。ぞんざいに扱われ続ければ続けるほど、人間の心を失い、暴力や殺人を正当化するような犯罪者へと変貌してゆく。
章子は、フレディに影響を受け、歴史に名を刻むシリアルキラーになりたいと思う反面、白馬に乗った王子様が悪夢のような現実世界から救いだしてくれる日を夢見た。
思考の海に沈むのにもいよいよ飽き始めてきた頃、章子はすぐに本を閉じ、サイレントモードに設定してあるスマホを弄り出した。
昨夜のニュース番組で援助交際をする未成年女子が特集で取り上げられていたのを思い出す。性行為と引き換えに高額な小遣いを相手の男性からもらうと言う。
章子のスマホを持つ両手が、怯えから若干震えを帯びる。興奮が押し寄せる中、液晶画面が端から見えないよう注意を払う。今まで踏ん切りのつかなかったことをなそうと、スマホの画面をタップし、他の人達の投稿文を見よう見まねで文字を打ち込んでゆく。
『金欠で困っています。誰か都内でサポしてくださる方いませんか? めい』
送信ボタンを押すと、自分の打ち込んだ文章が掲示板の投稿の一番先頭に来るのが分かる。
章子は緊張しいな心を期待と共に震わせながら本を読んで、顔も知らない“誰か”からの返信を待った。だが、三十分以上経っても誰からも連絡は来ない。
本の内容も頭に入らなくなってしびれを切らし始めた時、片仮名で“タダシ”という人物から一通のメールが送られて来た。件名に『掲示板見ました』とある。普通であれば、ようやく自分の体を買ってくれる人が現れた、と跳ねて喜ぶところだが、章子は送信者の名前を見て、左右の眼球がこぼれ落ちそうになった。一瞬記憶喪失にでもなったかのように思考が飛び、茫然自失した。
章子の父親の名前は正。それは、このメールの送り主と同じ読み仮名だった。まさか、正が出会い系をやっているとはーー。いやいや、そんな筈はない。性格的にけち臭く生活費さえ部分的にしか払わない正が援助交際などに手を出すだろうか。それ以前に、実の父親にそんな漁色な本性があるとは、章子は自分自身のことは差し置いて、そういったことは想像したくなかった。
突如浮上した可能性を章子はかぶりを振って否定し、唾を飲み込んで恐る恐るメールを開き内容を確認した。
『掲示板見ました。俺だったら、めいさえ良ければ、いつでもサポできるよ。条件教えて』
章子は困惑した様子で首を捻ったのち、再度参考のために、あげられている他の投稿文に目を遣った。
『都内でホ別ゴムありいちごでサポしてくれる男性いませんか?』
『家事何でもできます。一日だけで良いので家に泊めてくれる優しいお兄さんいませんか?』
『大学生です。学費が払えなくて困っています。顔は可愛いとよく褒められます。愛人契約を結んでくれる方を探してます。』
若い女性達が打ち込んだと見られる文字が、スクロールするとひっきりなしに並べられている。
章子は緊張により鋭利さを増してゆく意識の中で、あれこれ考えあぐねた末、
『ホ別いちごでお願いします』
頭に浮かび上がった文字を、メール本文に入力し送信した。
すぐに返信が来る。
『良いよ。その前に、一枚だけで良いから、めいの顔写真送ってくれない?』
タダシの要求を理解した途端、章子は急に呼吸がしづらくなり、激しい動揺を引き起こした。章子はひどく狼狽し、これ以上スマホの液晶画面を見てはいられない、とテーブルの上にスマホを伏せて置いた。
メールで親睦を深めてからならばいざ知らず、すぐに顔写真を要求してくるタダシを信用できない、と章子の脳裏で警報器が激しい音を鳴らして、警戒するよう煽動してくる。
これ以上は、危険だ。
普通に考えれば、すぐさまタダシとのメールのやり取りを中断するところだが、章子は何故か再び両手でスマホを握り締め直した。これから普通ではない常識外れの行為をしようという時に、少しくらいの異常ささえ目を瞑れずにどうする、という気持ちが理性を揺さぶってくる。
正気を失いつつある章子は意を決して椅子から立ち上がると、図書館を出て、中庭で自撮りを開始した。初めての自撮り写真は恐怖と興奮で手が震え、心霊写真のようにぼやけた。スマホの角度や日差しの向きを変え、納得のいくまで何度も何度も自分を被写体に写真を撮り続けた。そして、館内に戻って自習室の椅子に座り、写真を吟味して究極の一枚を選び出した。
『私の写真です。よろしくお願いします。』
一番写りの良い写真をメールに添付し送信した後は、年齢を聞かれ、女子高校生であること、まだ性経験がないことを告げると、
『可愛いね。チップを弾んでも良いかな』
と、タダシから返信があり、章子は無邪気に喜んだ。