十二、
章子が薄暗い部屋の中で目を開けると、深く底無しの海の中に頭を漬け込まれているかのような状態で、世界はぐるぐると不規則に回転していた。体を横たえているのに奇妙奇天烈な浮遊感がある。
昨晩、薬と酒を同時に飲み、二階の万年床に入ったことまでは覚えていた。だが、どうやらその後、いつの間にか眠ってしまったようだ。
分厚く重い雲が頭を覆って、取り憑いているかのように意識が朦朧としている。視界は霞んではっきりとせず、合わない度の強い眼鏡をかけた時のようにぼやけている。
天井と床の位置が反転している感覚がする。感覚は不安定で鈍く曖昧で、けれど、深く閉じ込められた空間の中で猛烈な尿意だけを強く感じた。きっとそのために、章子は目を覚ましたのだろう。
用を足そうと鉛のように重い体を持ち上げ起き上がると、のしかかるような重力に泣いて思わずよろめいた。しかし、そのよろめいた記憶さえも半瞬すると忘却の彼方へと葬り去られてゆく。
足を一歩ずつ出して歩き始めるが、“歩いている”という感覚がまるでない。章子は亡霊にでもなったかのように極薄な意識の中、部屋を出た。わずかな距離の廊下を歩き、年老いた老婆にでもなったかのように命懸けで手すりに掴まって、慎重に階段を下りた。しかし、今、確実に取った全ての行動を鮮やかに忘れてゆく。
ガラス引き戸を開け、一階の居間に入り、闇を照らすために照明器具にぶら下がっている紐を下に引っ張って明かりつけた。視覚が鋭敏になりすぎて、まるで光源を眼球に押し付けられているかのように、異常なほどまぶしい。章子は目を糸にして、利き腕で光から守るように目元を覆った。
俯いて、光を直視するのを避け、居間を抜けて、トイレの木製の扉を開き、パジャマのズボンと下着をいっぺんに下ろして便器に座った。しかし、猛烈な尿意がある割に、肝心の尿が引っ込んでしまって一向に出てこない。“座っている”という感覚さえ極めて虚ろに感じる。まるで、幽体離脱をして魂だけになり、そのまま浮遊し、宙から本体の後方をぼんやりと眺めているようだ。身体と精神が完全に分裂してしまったかのように、体に起きる症状の一つ一つが他人事のように感じられる。
章子は諦めて、ふくらはぎの辺りで止まっている衣服を上げて身に纏うとトイレから出て、再び鋭い光があふれる居間へと入った。
揺らぐ視界の中に、人間らしき輪郭のおぼろ気なのっぺりした顔が入り込む。それはすぐそこの目前にいて目を尖らせているようだが、章子にははっきりとした怒気を感知できない。
脳の機能が正常に働いていない。オーバードーズは、これまでに感じたことのない身体的・精神的苦痛を章子にもたらした。
「何やってんだよ、お前はぁっ!! こんな時間にっ!!」
深海の中で巨大な岩石を使って頭をぶん殴られたかのような凄まじい衝撃を受け、章子はよろめいて床に尻餅を突き、倒れ伏した。
今、持てる全ての力を振り絞り、懸命に抗議の声を上げようと口を開く。
「ぁーぇ」
やめて、と言ったつもりだった。
だが、発声とともに口から吹き出したのは大量の泡と涎だった。呂律が回らず、言葉にもならず、目の焦点さえも定まっていない。
「いい加減にしなよっ!! 遅くまで起きてんじゃないよっ!! しっかりしろ!!」
人間の怒声が章子の耳を刺した。
その聞き馴染み深い声調から目の前にいるのが渚だということが分かる。章子は身体的にひどい外傷でも負わされたかのように、弱り果てた体を無理やり起こして、すみやかに立ち上がった。渚からの第二波の殴打がくるのを避けるべく、章子はもつれそうになる足を気持ちだけで交互に動かした。居間を出て階段を上がり、二階の部屋に入って万年床に潜り込む。そこから二度と目覚めることのないよう祈りながら、泥のように眠った。