十、
教室内は、シャープペンシルと鉛筆を走らせる音だけであふれている。素朴で軽快な音が静寂の中に違和感なく溶け込んでいる。
章子は既にシャープペンシルを机の上へ置いて、全校遠足の作文を書き終えていた。
空き時間が暇だった。章子は教室内にいる女子を順番に見た。最後列に座っている特権として良いところは、ほとんどのクラスメイト達の姿を見渡せるというところにあった。
そして、この間見た激しいアダルトサイトの動画を思い出しながら、今ここにいるクラスメイトの女子達の性交を想像した。瞳を閉じれば、アダルトサイトの動画がまぶたの裏にくっきりと焼きついていて、それがまざまざと思い浮かんでくるようだった。
「今、皆さんに書いてもらっている全校遠足の作文ですが、次回は一人一人にここに、みんなの前に来てもらって発表してもらおうかなと思っています」
担任が教壇の上で次の国語の授業についての話をしている。途端に、章子の全身は締めつけられるような恐ろしい緊張でこわばった。
大勢の人の前に出て発言をすることができない。過度の緊張により言葉を失う。この症状は章子が小学一年生の頃からずっと続いている。発言を要する際に黙っていればクラスメイト達からは当然冷たい目で見られる訳だが、それが大きなストレスになるからと言って話せる訳ではない。
彼、彼女らの視線は、章子の自己肯定感を根こそぎ奪いにかかってくるのだ。そのため、章子はいつも自信なさげに教室の椅子に背中を丸めた姿勢で座っていた。
担任が話した次回の全校遠足の作文発表の一件が頭から離れなかった。緊張の波が覆い被さり、章子は切羽詰まった様子で、次回の国語の授業のことを思うとひどく憂鬱になった。
普通の人達と同じように、早く声を出せるようになりたいと切望はしているが、容易く解決できる問題ではなかった。普通の人達は、普通のことを普通の顔をしてさらりとやり遂げてしまえるから不思議だ。章子がいくら頑張ったとしても、普通のラインへまで到達できず、声を出そうにもいつも喉の辺りまで来たところで言葉が塞き止められてしまう。劣等感は募る一方だった。
チャイムが鳴ったにも関わらず、つい数分前に告げられた担任の言葉が尾を引いて、緊張のさざ波の音が鳴り止まなかった。
最後の授業は理科だった。今回は実験ではなく座学のみであるため、六年二組の教室で授業が行われる。白衣を着た理科教師が学生達の前に姿を現した時から、章子は既に予兆のような胸騒ぎを感じとっていた。
授業が始まった。理科教師は白色のチョークを使って、水溶液の性質と働きという文字を黒板へ書いてゆく。丸みがあって癖のない文字。それは章子の筆跡とは正反対だった。
「こっち。今、先生黒板見てるから来て」
「オッケー」
理科教師が背を向けているのを良いことに、上位女子達は囁き合いながら勝手に席移動を始めた。物音一つしない教室に囁き声はよく目立つ。やはりこれからまた始まるのかもしれない、と章子は予想した。
「水溶液に溶けているものを取り出す方法は、まず一つ目、水溶液の温度を下げる。二つ目は、水の量をへ……」
「きゃああああーーー!!!」
突然、教室の空気を黄色い叫び声が切り裂いた。
「静かにしなさい」
理科教師が振り返って上位女子達の目を見て注意する。
「なにしてんだよ、ちくしょーーー!!!」
上位女子達は目を合わせず全く意に介さない様子で再び叫んだ。
「可愛いんだよーー!!!」
叫びながら会話をしているようにも思える。
章子の目に映る上位女子達は、自分達が可愛い容姿とスレンダー体型の手本のような四肢を持っていることを熟知し、そのために騒いでも許されるのだと主張しているかのように見えた。彼女らは学校生活を存分に謳歌し、不機嫌に眉根を寄せる時でさえ眩しい輝きを放っているのだ。
「うるせえなあ、静かにしろよ!」
小金井が声を張り上げたが、その声調の中には、上位女子達への甘い気持ちがふんだんに含まれているように章子には聞こえた。
「炭酸水には、気体の二酸化炭素が溶けています」
理科教師は構わず授業内容の解説を続ける。
「先生、かっこいい」
「ねっ」
上位女子達は、理科教師を指差し合って下卑た笑みを浮かべる。
しかし、理科教師は一度注意したのを最後に、二度と上位女子達に対して口を開かなかった。ただひたすら相手にせず、叫び声にも屈せず、黙々と授業を進めてゆく。そんな理科教師の姿を見て、章子は思わぬ庇護欲を掻き立てられざるを得なかった。
黒板に書かれている文字をクラスメイト達はノートへと書き写してゆく。
理科教師は黒髪で白髪の一本もなく、顔の輪郭は卵型で、淡々として落ち着き払っている。
「きゃああああーーーーーー!!!」
発狂したかのように叫び続ける上位女子達に対して、理科教師は腹の中では何を思うのだろう。恐怖、憤激、不安、もしくは性欲や攻撃欲を駆り立てられることもあるのだろうか。傷心していなければ良いが、と章子は表面上に出ることのない理科教師の本心を気にした。
上位女子達は跳ねっ返りが強く、騒ぐ姿からは何のしがらみもないように見える。あったとしてもすぐに相手側が折れてしまう、折らせてしまう、それがスクールカースト上位に属する女子達だ。
上位女子の中には、クラスメイトの上位男子と恋仲になる者までいた。親が不在の隙を見計らって自室で性交に及んだという。上位女子達の赤裸々な会話から盗み聞いた、もう処女ではなく性的快楽を欲しいままに貪っているという言葉は、恐ろしいくらいに興味深く、章子を淫靡な妄想の世界へと連れていった。
また彼女達はお洒落の先駆者でもあった。担任に見つからないように顔に薄化粧をしたり、髪型をお団子ヘアにしたり、どうしたらそういったお洒落を次から次へと思いつくのかと、章子は不思議に思った。渚はお洒落な人からその時の流行りを見て習えと言うが、いくら章子が真似をしたところで逆にちんどん屋のように見えて終わるだけ、と自分自身で決めつけて、結局何もせずに終わった。お洒落も人を選ぶというものだ。
授業が終わり、着席したままでいると理科教師と入れ替わるようにして担任が教室へ入ってきた。
そして、
「この間、回収した国語の宿題のプリントが一枚足りません。誰か出し忘れた人はいませんか?」
と教室中を見渡した。
名乗り出る者は誰もいない。
章子は急に動悸が激しくなり、冷や汗をかいた。頭から氷水をかぶせられたかのように末端まで体を冷たくした。胸中がいやに搔き乱されてゆく。まるで、先の読めない時限爆弾の爆発を恐れるかのように、章子は内心で心底恐れおののいた。
「ん? いないのかな? みんな起立して。名前を呼ばれた人は座ってください」
担任は学生達を立たせ、名前を呼ぶ。
章子はいつものように必要以上にしゃちほこばりながらも震える足で起立した。血の気を失い、顔が青ざめている。
逃げ出したい。しかし、逃げたくても逃げ場がなかった。
心臓が狂ったように拍動を刻み破裂するのではないか、と思うくらいあがっていた。体の芯や内臓に至るまでが凍えるように冷えて、小さく細かく痺れてゆくのを感じた。
そうして、章子を除くすべてのクラスメイト達が名前を呼ばれ着席した。底知れない切迫感が章子の背筋をぞわぞわと走り抜けてゆく。
「丸井さん、また忘れたの?」
担任の問いに章子は静かに首だけを動かして返事をした。抜き差しならない事態にまで発展し、頷くことしかできなかった。心拍数が著しく跳ね上がり、激しい緊張感から体をがんじがらめに縛られた。
「うん、じゃなくて。忘れ物したんですかって聞いてるの!」
担任の鋭い口調が、章子の胸へと痛く刺さる。
室内の空気が異常なほどに澄み渡る。ここには、正常や常識だけを容認しそれ以外を排斥する静寂が充満している。
悪寒を伴う緊張の素が増殖し、胸に散らばって張りつき腐食してゆく。呼吸は浅くなり、まるで生きた心地がしなかった。霜を帯びながら激しく揺れ動く心臓が脆くなって、所によりほぐされてしまいそうだった。
この状況から逃れる術は何もなく思いつきもしない。まさに袋の鼠だ。章子は忘れ物常連だった。
「ん? 宿題はどうしたの? やったの? やってないの?」
担任の詰問は続く。
冷たい緊張という名のマフラーが、章子の首にきつく巻かれ喉を圧迫してくる。首元から鎖骨にかけて息苦しさを強く感じた。
苦しすぎる長い沈黙が流れる。
のべつまくなしに周囲の視線を一身に受けながら、章子だけがただ一人立ち尽くしている。章子が口を開き、声を出し、言葉を紡ぐまで、この地獄は終わらないのかもしれない。
地上にいるのに、電気が流れている冷たい海に浸かって全身が痺れてゆくようなそんな疲労感がある。喉は硬直し、金縛りにでもあったかのように体の動きさえも停止させられていた。
胸が八つ裂きの刑にでも遭ったかのように、正常な呼吸をすることさえ難しい。六年二組の担任とクラスメイト全員の視線を前にして章子は、あまりにも無力だった。
帰りの会の時間が押していた。
「はあ、もう早くして」
「早く帰りてえ」
「丸井とか邪魔でしかない」
あちらこちらからため息が聞こえ始める。自分よりスクールカーストの順位が低い学生に対して、思ったことを平気で口にする学生達は多い。
ある上位女子と中位男子は、章子の弱点は明らかに非難の対象に値する、といった様子で、目に軽蔑の色を滾らせて章子を凝視している。その視線は痛いが、先程まで積極的に授業妨害をしていた上位女子にまで睨まれるとは、章子は無限のような責め苦を受けながら内心複雑な気持ちになってゆくのを押し殺した。
「みんな迷惑してるんだよ。宿題はどうしたんですか? 家にあるの? ないの? ちゃんと喋ってくれないと分からない」
担任は探るような瞳を向けながら冷厳な姿勢を保つ。
章子は声も出せず、全身から恥を浴び、周囲からの嫌悪感をも吸収して、頭がくらくらし眩暈すらし始めた。章子の中で膨らむ恥辱感をないがしろにするかのように、教室にある時計の秒針は焦らしながらゆっくり時を刻む。
「丸井さんが喋ってくれないと先に進まないよ」
章子は話そうと何度も言葉を舌の上にのせるも、口を開き出されたものは声ではなく、ただの吐息だった。章子は自分自身に深く落胆し、再び貝のように口を閉ざした。
長すぎる詰問と静寂は、まるで拷問のように思える。ごまかしきれないほどに肌は粟立ち、顔中の筋肉が強張り、目の周辺はぴくぴくと痙攣した。見えない無数の糸に引き締められ、引き絞られ、体力、気力、共に消耗し疲れ果ててゆく。
正を反面教師にし、しっかりした自分でありたいと思う気持ちと、大人数の前では声を出せなくなるという現実が、章子の胸中でせめぎ合っていた。これ以上、悪目立ちをしたくない。他の同級生達と同じような普通の人間になりたい。けれど、その普通になるためには、喉の詰まりが解消され発声できなくてはならない。結局、章子はあっさりと完敗した。己自身にいとも容易く負けた。話すということを放棄し諦めたのだ。
担任が理解に苦しむといったようにため息を吐く。
「分かりました。次からは忘れ物しないようにね。時間の無駄になるからもう座ってください」
ようやく地獄へ向けて救いの手が差し伸べられる。
章子はわななく体をぎこちなく椅子におさめると、触れ合っている机や椅子も連動して震えの連鎖が起こった。
突然、訪れた予想外の衝撃。今日は発表もなく、日直でもなく、何も緊張することのない平穏な日だと決めつけていた。それを担任に容易く壊されたことへの失意と言ったらない。どんな日であろうと油断できる日などないと思い知らされる羽目になった。
帰りの会の間も、教室内は適温の筈なのに、先程の余韻で章子の体は震え続けていた。こんな自分は格好悪い。正のことを、人のことを言えたものではない。章子は惨めさから、より一層背筋を小さく丸めた。