九、
昼休みが終わり、校庭で遊んでいたクラスメイト達が教室へ戻って来ると校内は騒々しく、皆それぞれの掃除の持ち場へと散ってゆく。
掃除場所は、一週間経つごとに変わり、担任お手製の円形掃除当番表に明確に記されている。章子の属している班は五班のため、今日の掃除場所は今週いっぱいまで六年二組の教室だ。
掃除用具が入ったロッカーが開けられ、教室掃除担当の上位や中位のクラスメイト達が、飴に群がる蟻のように、一斉に箒を取ろうと集まってくる。その様子を、章子は若干の恐怖心を抱きながら、他の下位や最下層のクラスメイト達と共に少し離れたところから眺めている。あんなにも急いで箒を取ろうとする理由を章子は分かっているつもりだった。皆、穂先部分の姿形が良いもの、柄竹部分が長いものを優先して手に取る傾向がある。掃除しやすい優秀な箒を欲しがっているのだ。
「まあまあ、そんなに焦らなくても残り物には福があるって言うし、気長に待とう」
章子の近くにいる他班の下位男子が発した言葉のすべてから、彼の穏やかな気性が伝わってくる。章子は自分に言われた訳ではないかもしれないが、一応念のために分かりづらく首を縦に動かして頷いた。
人が引いてロッカーの中を見た時には、案の定、既に優秀な箒は一本もなく、あるのは穂先が欠けたり曲がったりした不良品のような箒のみだった。章子は穂先が変な方向へ曲がっている箒を手に取ると、ふと、廊下へ目を向けた。そこには、小金井と軽薄そうな雰囲気の下位男子が二人で立ち話をしていた。章子は興味津々で、悟られない程度に二人へ近付くと耳を澄ました。
「俺、小金井とだったらセックスできるわ」
「おい、やめろよ。気持ち悪い」
「この学校で一番イケメンなの絶対小金井だよ。どの角度から見ても」
「まあ、そう言ってくれるのは嬉しいけど。お前、そっちの気でもあんの?」
「いや、ないけど。可愛い女子しか眼中にない」
「らしいね」
章子はそれだけ聞くと、何事もなかったかのように速やかに机と椅子を教室の後方へと移動させる掃除準備に入った。その間、章子の頭の中は小金井の甘やかな声とセックスという単語で満ち満ちていた。
不思議なことに、章子は小金井のことを性的な目で見たことが一度もなかった。そんな不純な想いで見てはならない気がしたし、生理的にも想像が出来なかった。それでも、抗って想像しようとすると、途端に思考に邪が入り、嫌悪を感じる。まるで、小金井が章子の想像の中に登場するのさえ嫌だと拒絶しているかのようだった。
章子は気分一新のため軽く頭を振ると、掃除準備へ集中した。あと残り半分で教室前方に物がなくなる。
机と椅子を両方持ってゆっくり運ぶ者もいれば、別々に持ってすばやく運んでゆく者まで様々だった。章子は後者で、この方が体力のない自分には向いていると感じていた。そして、自分が小学三年生の時まで、机や椅子の脚に鼻の穴を指でほじって出した鼻くそをつけていたことを思い出し、決して脚にだけは触らなかった。
箒で塵や埃を一ヶ所に集め、それをちり取り係がすべて取りきる。それが済むと、各々は箒を教室の壁に邪魔にならないように立て掛けて、今度は拭き掃除に入った。
章子が廊下に出ると、もう小金井と下位男子の姿はなかった。章子は蛇口を捻って水道水で雑巾を濡らし、その淡いねずみ色を濃く変色させると、両方の手の平を雑巾の上にのせて腰を屈め、教室内前方の床を行ったり来たりして雑巾掛けに励んだ。
章子が丹念に往復している最中、一部の上位男子達は雑巾の上に足をのせそのまま歩き回ったり、時折雑巾を投げ合って遊んだりしている。
その様子を見た担任が、
「足で拭き掃除した方が力が入るし、腰も痛めないから良いよね」
と、一部の上位男子達へ声を掛けた。
章子は、濡れた雑巾の上で完全に熱を失い冷たくなった自分の両手を見つめた。足を使って雑巾掛けをしている上位男子達なんて、どこからどう見ても手抜きをしているようにしか見えない。それなのに、担任はなぜ足拭き組に優しい声を掛けるのだろう。それならば、手を使って懸命に雑巾掛けをしている章子達、手拭き組の掃除への真摯さを汲み取ってくれてもいいのに、と不満に思う。だが、担任がスクールカーストの上位者達をこのように贔屓して可愛がる姿は、日常茶飯事の光景だった。蓄積された不満は、章子の胸中に積もりに積もって苦悩の山となる。
教室の前半分の掃除がすべて終わり、次は後ろ半分の掃除に取りかかろうという時だった。机と椅子を教室の前方へ移動させていると、長谷川が違う班だが同じ教室掃除担当の中位男子へ目配せすると、
「泣いたら困るから少しだけ、少しだけ。ほどほどにイジメよう」
と声を掛けた。
すると、二人は章子の机と椅子を乱暴に持ち上げて、揺すったり倒したり蹴ったりし始めた。
長谷川は、獲物を捕えようとする野性の獣のように爛々と光る眼差しで章子を観察するように見つめている。
机や椅子を乱暴に扱われたところで、学校の物だし損害を受けることはない。そう、頭の中で言い聞かせてはいても体は正直で、章子は思わず瞳を潤ませた。まるで、自分が机や椅子にでもなったかのように、長谷川と中位男子の手によって散々にいたぶられている気になった。涙がこぼれてしまわないように一旦教室を出て、気持ちを落ち着かせようと深呼吸をした。
章子が再び廊下から教室を覗き見た時には、長谷川と中位男子は既に別の机と椅子を運ぶのに取りかかっていた。
章子は心許なげに教室へ戻ると、箒で床を掃いて頑張って掃除に取り組んだ。目の前の作業に集中することで我を忘れたかった。
「ねえ、丸井さんもあれ見て」
中位女子に藪から棒に声を掛けられ、章子は中位女子が指差す先を見た。
一人の下位男子が、箒を左右に動かし塵芥を掃いている。その背中には、『不燃ごみです』の片割れ『可燃ごみです』の白い紙がごみ箱から剥がされ、貼りつけられていた。
章子は目を大きく見開くと、何かしらの負担に耐えるかのように唇を引き結んだ。
苛められているのか、からかわれているのか、どちらだろう。周囲はそれを見て、さもおかしいといったふうに笑っている。しかし、章子はとても他人事のようには思えなかった。あれは本来私につけられるものなのにーー脳裏から自分の声が聞こえてくるようだった。章子は、これから眠りに就くかのように項垂れるとゆっくり目を閉じた。