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本の森

作者: 土屋 あとり



「よし……これで全部揃ったかな」


大きめの籠の中に入れた品物を確認する。

籠の中には、保存が効くパンと一週間分の総菜、それと近隣の葡萄農家から卸している葡萄のジュースを何本かを入れている。


俺は町の外れで自然食をテーマにしたレストランを経営している。

ちなみに店の二階は居住スペースとなっている。

俺と妻、そして子供二人の四人暮らしだ。


「じゃあ、行ってきます」


二階に向けて声をかけると、「いってらっしゃーい」と妻の、のんびりとした見送りの言葉が返ってきた。

二人の娘も妻に倣って無邪気に見送りの言葉を投げてくれる。

半月に一度、店休日の日に一人暮らしをしている五歳離れた弟のところへ作った料理を届けるのがルーティンとなっている。

車を三十分ほど走らせて、街中へ入っていく。

煉瓦造りの瀟洒な街並みだ。

近代化遺産もある土地柄なので景観もそこに合わせたのだろう。

その中でも旧市街の方へ向かう。

駅ができたことにより町の中心地が移動するのは、ままあることだ。

旧市街地でも街並みが整えられているが、やはり中心街より休日であるにも関わらず人通りが少なく、寂しい印象を受ける。

そのさらに忘れ去られたような場所に弟の住まいはある。

車を近くのコインパーキングに停車させ、荷物を降ろしていると、黒猫がこっちを見ていることに気づいた。

エメラルドグリーンというのだろうか、宝石のような緑色の瞳が印象的だった。

何故か目をそらすことが出来ず、暫く見つめ合っていたが、黒猫が興味を失ったように視線を外して、壁伝いに弟の住んでいる家の方向へ去っていった。

そちらに飼っているか面倒を見ている家があるのだろう。

荷物をすべて持ち、猫の後を追うように弟の家へ向かう。

パーキングから三分ほど歩くと弟の家である。

この街並みの中では珍しく、小ぶりな平屋の日本家屋である。

今流行り?の古民家と言うモノだろうか。

弟はそれを買い取って、そこに住んでいる。


身内自慢になってしまうが、弟は名の通った小説家である。

しかし、放っておくと職業柄もあるのだろうが、家に引きこもり食事を摂ると言ったような生活に必要なことを一切行わないことが欠点……というより、俺の心配の種だった。

両親は俺が二十二の時に交通事故で揃って他界した。

その頃は店を持つ前で、修行の身ではあったが、働いていたので何とか両親の遺した遺産と給与でやりくりして弟を大学まで行かせようと決意したところで、弟からすでに小説で収入を得ていることを明かされた。

両親にも言っていなかったとのことで、俺も天国に居るはずの両親もさぞかし驚いたことだろう。

遺産は兄弟で等分に分け、それぞれで管理することになった。

弟は未成年だったため未成年後見人をつけたが、成人と共にそれも終了したようだ。

ちなみにその遺産で大学を出たそうだ。

ともあれ、たった一人の血がつながった兄弟なので、どうしても世話を焼きたい兄心を理解してくれている良き弟だ。



この家にはインターホンなどと言う便利なものは無く、引き戸をノックする古風な方法だ。

基本的に家に居るので問題ないはずだが、最初に来た人は驚くことだろう。

家の中に入るともっと驚くことになるのだが……。

ややあって弟の声が聞こえる。

鍵は開けているとのことなので、勝手に開けて入る。

相変わらず大量の本が玄関の廊下まで積まれている。

四部屋あるのだがどの部屋も似たようなものだ。

彼がこの家を買ったことはこれが最大の理由である。

アパートに住んでいたころに大家さんに「床が抜けそう」と苦情を言われたことがあるそうなのだ。

確かに大家さんからすれば気が気でない本の量だ。

だが、俺はとってこの状況は森のような静謐さを醸し出していて嫌いではない。


一番奥の部屋に弟の作業部屋がある。

部屋の扉をノックすると弟が自ら開けてくれた。

前髪で相変わらず目元を隠し、今日も黒いTシャツを着ている。

顔が良いのだから隠す必要がないのに、と身内贔屓かもしれないが思ってしまう。


「いらっしゃい、喜樹(ヨシキ)兄さん」


「今日もお前が好きなものを持ってきたぞ。日持ちがするから冷蔵庫に入れておくな。

あとは契約農家から頂いたぶどうジュース、おいしいから飲んでみてくれ」


そう、矢継ぎ早に説明すると、弟は頷いていつものように台所の方へ連れていかれる。

台所は以前土間だったのだが、さすがにリフォームしたようだ。

新品に近いクリーム色のシステムキッチンが右手に見える。

料理はしないはずなのになぜか立派な設備だ。

偶に使わせてもらうが、使い勝手が良い。

真ん中に広めの二人用のテーブルが置いてある。

台所は比較的本が少ない場所だが、入り口に少し積まれている。


冷蔵庫には飲み物以外何も入っておらず、なんでも入れられる状態だった。


純樹(アツキ)、お昼は食べたか?」


純樹とは弟の名前だ。

ちなみに彼のペンネームに一字使われている。

弟は案の定首を横に振った。

冷蔵庫の中に入っているのはペットボトルに入った水や、コーヒー豆と言ったものばかりで、ここら見て取れるように殆ど食事を摂らない。

だからといって不思議と痩せぎすでもない。

我が弟ながら不思議な人物だった。

もしかしたら仙人の部類なのかも知れないなどと妄想する。

冷静に考えて、今は三十代の前半のはずだが外見が十八のころから変わっていないように思う。

弟は写真を撮られるのを嫌がるので、比べる写真が存在しないので確証はないのだが。


とりあえず、少量ではあるが持ってきたパスタと鶏肉と春キャベツとオリーブオイルを取り出してテーブルに並べる。

弟はこれを昔からよく好んで食べていた。


「それじゃあ、お客さま。お任せでパスタなどいかがでしょうか?」


そうふざけながら言うと少し嬉しそうに頷くのだった。


フライパンにオリーブオイルを熱し、そこにあらかじめ切って来た鶏肉を入れて焼く。

程よく火が通ったら、同じく切って来たキャベツをそこに入れ、水を注ぐ。

コンソメを一粒入れて、パスタを二つに折って入れて七分。

それで出来上がりだ。

インスタントのコーンスープがあったのでそれも一緒に並べる。


小さいころ、共働きだった両親に代わって料理をしていたことが起因となって今の職に就いたのだが、まさか自分の店を持つまでになるとは思わなかった。

どれもこれも、初めて作って失敗したハンバーグをおいしそうに食べてくれたこの弟の喜ぶ顔が忘れられなかったことが支えになっている。

弟はいまでも俺の料理をこのように食べてくれる。

食事は嫌いではないし、今だって俺の料理をおいしく食べてくれているはずなのに、どうして自ら食べようとしないのかが疑問だった。

だが、何となくそのことに触れてはいけない気がして、見て見ぬふりをしていた。


やがて食べ終わり皿を洗っていると、弟が豆を挽いてコーヒーを淹れてくれた。

他のことはほとんど行わないのにコーヒーを淹れるのは、なぜか得意な弟だった。

料理人の俺ですら、彼の腕に敵わない。

コーヒーの香りが部屋を満たしていた。

一緒に食べようと思って持ってきたマフィンをテーブルに並べる。


「……これ、喜樹兄さんの手作り?」


珍しく純樹から質問される。

俺が尋ねれば話してくれるが、自分からは殆ど話さない。


「あ、ああ。今、お店で出しているんだけど、なかなか好評で今度はオペラも作ってみようかなんて思ってるぞ」


「……喜樹兄さんのお店のメニューって、メジャーなものを除いたら殆どボクの好きなものばかりだよね」


図星をつかれて一瞬言葉を失ったが、これだけは言えるのだ。


「俺が料理人という道を選んだのは、お前が動機なんだ。

両親を失う前ではあるが、帰りの遅かった二人に代わって初めてハンバーグを焼いただろ?

正直、アレは焦げていたし、下味もきちんとつけていなかったから、美味しくなかったはずなのにお前が美味しいって喜んで食べてくれたから……あれが嬉しくてな。

ずっと純樹を喜ばせたいって思ってやって来たんだ。

だから、店を持ってお前の好きなものばかりになるのは俺の中で当然の成り行きなんだよ」


「……そう言われると、なんだか照れちゃうな。

喜樹兄さんが昔から僕を大事にしてくれたことは分かっているけど、そこまでだなんて。

義姉さんと姪っ子たちを優先してくれないと、ボクが怒られてしまうよ……」


コーヒーの湯気がふわりとマグカップの中で踊る。

目元を髪の毛で覆っているので見えないが、俺を見て苦笑していることは分かった。


「月に二回のことだし、嫁さんもルーティンだって割り切ってくれているよ。

家族の時間も店を持ってから増えたし。それに今のことは家族みんな知っている。

たった一人の弟だし……って呆れられている気もするけどな」


ぽりぽりと後頭部を掻く。

弟はなんとなく嬉しそうにしている。

二人同時にコーヒーを一口飲む。

そのことに二人で何となく笑ってしまった。

再び純樹は黙ってしまうが、何かを躊躇っているようにも見えた。

そして、台所の柱に設置されている振り子時計を見遣った。


「……十三時前か。喜樹兄さん、時間は大丈夫? ボクは兄さんに話さなければいけないことがある」


「あ、ああ。今日は夕方までは大丈夫だ。どうした? 体を悪くしたのか? 

俺にできることなら何でも言ってくれ」


乗り出すように捲し立てると、弟は首を横に振った。

それから目元を覆っていた前髪を上げる。

……そこには日本人には珍しい緑色……エメラルドグリーンと言った表現の近い色の瞳があった。

ここに来た時に見かけた黒猫が何故か脳裏を過った。

以前は俺と同じように濃い茶色の瞳をしていたはずだ。

「これだけでは説得力に欠けるかな……」


そう意味深なことを言うとテーブル越しに伸び上がって俺の目を手で覆った。

その手を外された次の瞬間、目の前の椅子に純樹ではなく先ほどの黒猫に変わっていた。

戸惑っていると、「こういうことです」なんて茶化すように猫が喋る。

しかも純樹の声で。

どういうこと……?純樹は猫になってしまったのか?

などと戸惑っていると、瞬きしている間に元の姿に戻った。


「端的に言うと……原因が分からないけど人間じゃなくなってしまったんだよ」


なんて言ってのける。

弟の言うことだから信じたいが、目の前で見せられても白昼夢の一種だと感じた。


「えっと……つまり、駐車場で会った黒猫は純樹ということ……なのか?」


弟はこくりと頷く。


「ここまでの僕の主観として……になるけど、経緯を話してもいいかな。

突拍子もないことは重々承知だけど、これは喜樹兄さんの危機を回避するためでもあるんだよ。……最悪、兄弟の縁を切られても仕方がないと思う。

僕は化け物になってしまったようだからさ」


そんなことを無感情に言ってのけるが、俺に話すことをかなり躊躇ったに違いない。

さっきの『変身』だって、本当は見せたくなかったことが分かる。

そこまでの覚悟を持っているのに聞かずに逃げるなんて、とても失礼なことだと思った。

重々しく頷くと、弟は静かに話を始めた。




◆純樹の話



あれはボクがこの家を買って、しばらく経った頃のことだった。

仕事もあるし、やりたい勉強はできるし、両親は死んでしまったけど喜樹兄さんがいて、充実した日々を送っていたはずだった。

だけど、急に人と会ったり話したり……社会とつながりを持つのが嫌になった。

最初は『厭世家』染みているなぁ、なんて悠長に構えていたけど、どんどんその感覚は進んでいく。

大学を卒業するころ、ある異変に気付いた。

元々喜樹兄さんの食事以外食べる気がしなくて、何も口にしなかったけれど、食べなくても平気な体になっていて。

それと、最初は夢だと思っていたけどこの頃から、“人間”のカタチを保てなくなった。

気を抜けば自分の境界が滲んで、猫になっていたり、その他になっていたりすることもあった。

ある時、部屋の隅が歪んでいることに気づいた。

古い家だし床板が沈んでいるのかと思って触ったら、どこだか分からない白い空間に飛ばされてしまった。

上下も左右も分からない、永遠に続くようでかなり窮屈そうな……そういう白い空間だった。

目を擦ると、目の前に頭のてっぺんからつま先まで真っ赤な人物が現れた。

腰まで伸ばした髪も赤だし、塗っている口紅も真っ赤。瞳も赤色だ。着物も帯も、足袋もすべて赤かった。

男なのか女なのか分からない中性的な風貌だった。

ややたれ目ではあるが、相反するように眼光は鋭く、その視線をボクに注いでいた。


「お前、自分が変異しているのに全く動じないんだな。あんなに己が楽しく変えてやっているのに、顔色一つ変えないとは……」


なんてことを嫌味っぽく宣う。


「変異……って……何ですか? 気を抜いたら猫になったりしているアレですか?

夢でもなんでもなく……現実?」


自分なりに悩んでいたのだが、他の人から見ればそうは見えなかったらしい。

昔から感情を表現することが苦手で、それでも喜樹兄さんは察してくれたり分かってくれようとしたりと努力してくれていて、正直仕事ばかりの両親よりも喜樹兄さんの方に親愛を感じている。

その気持ちが伝わっているのか、兄もボクをより大事にしてくれている。

だから、ボクも何を差し置いても喜樹兄さんだけは大事にしたいと思っているんだ。

……などと考えていると赤い人が呆れたように言葉を投げかけてくる。


「まぁ、そういう行き過ぎた気持ちと此岸に対する厭世的な部分が乖離していて面白いと思って、“こちら”に引き込んだんだが、予想以上だったよ」


赤い人はにんまりと笑う。

どうやらこの空間では、ボクの考えを読まれてしまうようだった。

何なら喋る必要もないか、と思い見つめていると赤い人は慌てたように、


「いやいや、それでも話してもらわねば伝わらないものもあるからな?

それに人間と話すのは久方ぶりなんだ。もう少し楽しませろ。

……とは言え、お前もすでに人間ではないんだが、な」


何故かボクが振り回しているような構図ではあるが、内心びくびくしている。

自分の書く人物のように感情豊かに反応して見せた方がいいのだろうか。

しかし、それではこの人を無駄に喜ばせてしまうに違いない。


「ええと、何と呼べば……それに、ボク仕事があるので、“こちら”側に来たとしても続けられると嬉しいんですが」


ふん、と赤い人は鼻を鳴らす。

そしてボクのすぐ隣に腰を下ろしたので、ボクもそれに倣うことにした。


「お前は、なかなかこちらにも此岸にも馴染んでいるようだから、どんな奴よりも自由にやっていけそうだな。

ただし、すでに気づいていると思うが、すでに人間としての機能と言うか、欲求その他は失われているはずだ。睡眠、食欲、エトセトラだ。

……心当たりがないとは言わせない。

それにその体も老いを止め、一生“死ぬ”こともないし、一生“生きている”とも言い難いことになるな。


……己のことは、お前が名付ければいい。

色んな人間が色んな呼び方を付けたが、しっくりこなくてなぁ。

参考までに今までの呼び名としては『かみさま』とか『ニニギノミコト』とかあったぞ。

まったく、それとは程遠いのに何故未知のモノを見たら、そういう人間の杓子定規に当てはまるようにするんだろうなぁ?」


ボクはしばらく考えて、その人を『真朱さん』と呼ぶことにした。

赤色の中でも少し黒味のある色の名前からとったのだが、その人の出で立ちにぴったりな色だと思った。

そのことを説明するとしばらく考えていたようだが、当面は気に入ってくれたようだ。

ついでにボク自身の名前を伝えて、そう呼んでくれるようにお願いした。

しかし、老いることも死ぬこともないということは、ボクにとって好都合なのだろうか。

一日一日を生きることはどこか苦しく、常に溺れているような感覚だった。

そこから逃げる様に本を読み、そこから文筆家という職を得るまでに発展した。

この仕事のいいところは人と殆ど会わずに完結するということだ。

ボクにとって唯一、社会を覗くツールのようなものだった。


「アツキ、お前が居るだけでそれは人間が『異界』とか『彼岸』とかいったものと同義になる。自覚なく接していると、いつかお前の愛する兄も“こちら”に引き込んでしまうぞ。

己はそれでも構わんが、アツキの望むものではないだろう。

長く接さないこと、黄昏時と丑三つ時に周囲に人がいないことを常に心がけろ。

……此岸でもその時間は危ないというだろう?

事実として、『異界』との境界が混じりやすい時間帯なのだ。

あとはお前が“欲しい”と望まなければ、無垢の人々を守ることができるだろう。

まぁ……まれに自らやって来る人間もいるが、そいつらをどうするかはお前次第といったところだろう。

放っておけば、お前のように自我とか欲望が強くないと異界の一部になって、人間に危害を加える存在になる。

見た目は菌類のようなぶよぶよとしたものになる。


……ここでは、自我が強くあればあるほど強固な『空間』を築くことができ、自らがそこの原理原則になる……当世風に言えば『ルール』か?

ただ一つだけ彼岸にルールがあるとすれば、『対価を差し出さなければ戻れない』と言うことくらいだろうな」


長々と真朱さんは説明してくれる。

お陰でなんとなく理解できたが、しかし……。


「真朱さん、どうしてボクにそんなに説明してくれるのでしょう?

普通だったら放り出すのが定石じゃないですか?

知らぬ顔が出来ないのは真朱さんの優しさなのか……?」


素直に疑問を口に出してしまう。

真朱さんならボクの困っている顔を見て喜びそうなものなのに。

馬鹿を言うな、と真朱さんはせせら笑う。


「アツキがすでに『空間』を形成していることに驚いたから、ここのことを教えてもいいかと思って伝えただけだ。

……お前ほど見込みのある奴は見たことがない。

自宅を丸ごと『異界』化するだけでなく、このような空間すら形成してしまうのだからな。

己に次ぐモノになるのやもしれぬ、と思ったのだ」


真朱さんはやはりこの『異界』においての神的な存在であることが窺える。

過去の人々の名づけも間違ったものではなかったのだ。

そうでないと、すでに形成されているボクの『空間』とやらに侵入できないのではないだろうか。

『空間』とは恐らくテリトリーのことなのだろうと自己解釈する。


「さて、己はそろそろここを出るとしよう。

無色すぎて落ち着かぬ。また来るから、その時までにここを精々賑やかにしておくんだな」


しれっと再会の約束をして、ボクが瞬きした瞬間に真朱さんは消え去った。

暫く現実味を感じることが出来ず、ぼんやりしていると気づけば仕事部屋に座っていた。



※※※



「真朱さんから教わったことを心がけつつ生活をしてかれこれ十年ほどが経過した。

毎回来てくれる喜樹兄さんに隠すのは大変だったけど、なんとか巻き込まずに済んだ。

それだけがボクにとっての救いだった。

でも「今日も巻き込まずに済むだろうか」といつも考える。

……今日も大丈夫そうで安心した。


……過ごしている内に黒猫の姿で居ることが一番楽だと気づいた。

外へ出かけるときは基本的にその姿で歩き回り、打ち合わせなどがある時は苦痛ではあるが人の姿で出かけた。

今日はうっかり猫の姿で喜樹兄さんに出会ってしまったけど、打ち明けるには良い機会だと思ったんだ」


純樹はそこまで一頻り話し終わると、冷めつつあるコーヒーを飲み干して、目を瞑った。

開けている窓から入った風が、弟の髪を撫でていた。

部屋の中に居ながらまるで草原にでもいるような雰囲気だった。


正直に言えば純樹の話の半分も理解が出来なかった。

妙に納得したのは、純樹が老いず、食べなくても健康そうであることがその『異界』の作用だからだということだ。

話を通して俺に「ボクは危ないから近づかないで」と言っていることは分かった。

でもここで「はい、そうですか」と遠ざけるのは、弟を余計に孤独にしてしまう気がした。

それだけは周りが止めておけと言っても、俺の中で正解には程遠い回答だった。

意を決して、言葉を振り絞る。


「…俺、よくわかんないけど純樹を一人にはできないよ……

たとえ純樹が一人が好きだとして……、俺が想像できない孤独に苛まれていたとして……、

純樹自身がどれだけ危険だと言われても、俺はお前を見捨てられない。

たった一人の弟だから……

それにお前は絶対守るって思っていたのに、これじゃあ……逆転もいいところだな」


何ともまとまりのない言葉だった。

だが、純樹は理解してくれたようで、静かにうなずいた。


「喜樹兄さんの存在が今でもボクを救っていることは間違いないんだ。

だから、自信を持って……?

このことは感完璧に理解しても不味いんじゃないかと思う。

……それだけ分かってくれれば問題ないよ。

それに、もし、他の“何か”が喜樹兄さんを狙ったとしても、ここに出入りしていれば兄さんのことも、義姉さんも姪っ子たちのことも守ってあげられる。

……来るなって言えないのがボクの欲望なんだろうなぁ。

喜樹兄さんが家族に話すのも止めないし、解釈した部分だけ伝えてくれれば良いよ。

いつまでも年を取らない叔父なんて気味悪いだろうしね……」


最後は困ったように首を傾げた。


「もう……四時近いのか。早くしないと、取り返しのことになるから、喜樹兄さんは帰った方がいいよ。

今日は話を聞いてくれてありがとう。ご飯も大事に食べさせてもらうよ。

また、来てほしい。

……うん、タイミングを合わせて兄さんのお店にも行けたらなって思うよ」


純樹が独白のように呟いた瞬間に玄関先にいつの間にか立っていた。

持ってきた籠も足元に置いてある親切振りだ。

狐に化かされた時はこんな感じなんだろうな、と下を見ると黒猫がお行儀よく座っている。

にゃあ、と一鳴きしたがこれが純樹だということが何となくわかった。

綺麗なエメラルドグリーンの瞳で俺を見上げている。

どうやら駐車場までついて来るようだった。

黒猫に伴われるという人生で初めての経験をしながら、コインパーキングにたどり着く。

純樹を見るといつの間にか口に小銭入れを咥えていた。

……これで支払えと言うことだろう。

言葉に甘えて、そこから機械に表示された金額分の硬化を失敬した。


「純樹、ありがとう。

体に気をつけてな……なんてお前に言う言葉ではないか。

……次は二週間後にまた来るよ」


そう言って車のエンジンをかけた。

少し車内が蒸しているので、窓を開けた。


「それじゃあな」


そう言って運転席に乗り込むと、黒猫の純樹はまた一声鳴いて塀の上に勢いよく登ると、塀沿いにどこかへと消えていった。

空は既に茜色に染まっており、純樹が真朱さんと呼んだ人物はこんな風な色合いをした人物だったのではないかと思った。


猫の去った跡をもう一度見遣って俺は、家路につくのだった。

おとぎ話や都市伝説のような話をどう伝えるか、楽しみつつ悩みながら運転することとした。

俺の子孫が、純樹を一人にしないよう寄り添ってくれることを願いつつ。



終わり


pixivさんに上げたものをまとめたものです。(内容は同じです)

お読みいただきありがとうございました!


私が10代の頃に書いたもののデータを失くしてしまったので、あらすじはほぼ同じだけれど、

別の作品になっております。

所謂セルフリライト作品と言うべきでしょうか。


『その森へ』を書いたからには、こちらも書かねばと思いまして…。


この作品は設定としては五〇年くらい前の話です。

ちなみに純樹は『その森へ』の八純、スミさんと同一人物です。

彼の成り立ちなどを何となく蛇足になっても書きたかったのです…。


誤字等お知らせ、感想お待ちしております。

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