僕と幼馴染と地獄 ひめありす
使用お題:「目薬」「地獄」「嫌なツンデレ」
休みの日の朝、するべき事は決まっている。
朝六時に起きて、資格試験に向けて勉強をして。
朝七時半に一休み、キッチンでお茶を飲んで用を済ませて、その流れで目薬を差す。
眼精疲労に効く濃い紫色の容器からポロン、と液体が零れて。
「ぎゃああああああああああああああああああーーーーーーーーー!」
目が、目が、目が焼ける―――!
洗面所で何度も何度も目を洗う。水が滑った皮膚さえもひりひりする。
ようやくぼやけながらも視界が復活したその時だった。
するん、と何かが視界を覆った。再び世界が不明瞭になる。
「ふふふ、我が仁藤家に先祖代々伝わるのお味はいかがかしら?」
声の主は月齢三か月の頃からの幼馴染、のものだった。
目が見えなくてもわかる、センターパートのさらさらの髪、顔の真ん中にぎゅっとパーツの集まった系の顔立ち。
それにしても。
火鍋―――?
なんてことを!
粘膜系は鍛えようったって鍛えられないんだぞ!
むんず、と手を掴まれて引っ張られる。
「さ、行きましょう」
「行きましょうって、何処へ?」
僕が問いかけると見えなくても咲莉はにっこりと笑い。
「地獄さ行こう♪」
がしゃん、ばたん、かちゃっ、ぶおん。
音と振動と胸元を締め付ける感覚から、車に乗せられたことがわかる。
カーステレオから流れるのは、彼女のお気に入りのバンドミュージック。
「少女風 少女風 少女風に君が笑うから」
小声で咲莉が口ずさむ。
けれど、それが次第に言葉少なくなり
うっひ、ひゃ、はわわっ、はぁーっ、と悲鳴すれすれの声が漏れだす。
ねえ、咲莉さん今何処走ってるんですか?
「静かにして頂戴。これから最大関門の合流なんだから」
思わず身じろいだ僕の口にむごっと何かが押し込まれた。
「いもむしパンよ」
「―――!」
口を閉じる事も出来ないままびっくりする。珍味を食べるかこのまま窒息死するかをしばし逡巡し、えいやっと噛み切る。
意外なことに、それはほのかに甘い蒸しパンだった。
「呼び名が長いから「薩摩」は省略させていただいたわ」
いや、むしろそっちを残してほしかったよ!
正体が知れたそれはお腹を満たすのに程よい大きさで。
後は僕はもう両手を組み合わせて流れてくる曲の数を数えることに専念した。
果たして、二十を数える前に
「ふわっはっやめておおきいの来ないでバック無理よ―――!」
と叫びながら車が緩やかに停車する。
ふうっと大きすぎる溜め息が一つ。
「もう目を開けても大丈夫よ」
何事もなかったように咲莉は言い放ち。
しゅるり、と目元を覆っていた布が取り外される。
目に飛び込んできたのは関越道の文字。
そして。
咲莉の小母さんが街乗りに乗っているちまっとした軽自動車に燦然と輝く若葉マーク。
え、若葉マークで、軽自動車で、関越自動車道、走ってきたの?
思わず咲莉を振り返ると、彼女はさらさらのセンターパートを自慢げに翻し
「青春のよすがに先月合宿免許で取ってきたのよ」
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い―――!
「あら、一度も落第しなかったのよ。優秀でしょ?」
いや、合宿免許ってよっぽどのことがない限り落ちないっていうからね?落としたらその分赤字になるからだからね?
高校生の時に地元の教習所でMT車の免許を散々落ちながら取った僕は半ば泣きそうな気持でその後の安全を祈った。
そんなこんなで休憩を終え再び小さな車で高速道路をひた走り。渋川のインターチェンジで降りた。やがて混雑してきた一般道を進む。草津で降りるのかと思ったら、さらに先へ進むようだ。碧は信じられないほど濃くなってきて、幾重にもグラデーションを描いている。
すとん、と肩の力が抜けたのを自覚する。隣の咲莉も幾分落ち着いた様子で運転している。
観光地特有の狭い駐車場を僕の指令で命からがら駐車して。(咲莉は分かってるわよ!と只管に迷惑顔だった)
「大人二人です!」
更に引っ張られて国民休暇村の入場料を支払って。
そして連れてこられたのが。
「―――ここが、地獄」
むわっと立ち込める硫黄の香り。
「穴地獄っていうのよ。昔は狐とか兔とか、そういうのが落ちて死んじゃったり、よくあったんですって。それであそこに生えているのはチャツボミゴケって言って、酸性の水の中でも生きてられる珍しい植物なのよ」
苔むした川床は普通の町中で見かける河川と違う荒々しさや鋭さを持ち、その間を清流が飛沫をあげて流れていく。
激しさと流麗さ。
二つの相反する存在をまろやかに包み込むのがチャツボミゴケのこんもりとした緑のフォルム。
「すごい……すごい、きれいだ」
どれほどそうして、目の前の景色を見つめていたのだろう。どう?と問われて思わず呟いた僕に、咲莉が微笑む。
「少しはリラックスできた?」
色素の薄い妖精の瞳が、緑の輝きを吸い込みながら僕を見上げる。
「小母さんも心配してたよ。伸也は何でも根を詰めすぎるからって。折角休暇で家に帰ってきても、勉強ばかりだって」
同じように幼稚園から高校まで過ごした僕らだけれど、その後僕は就職。咲莉は大学へ進み、たまにしか顔を合わせなくなった。
互いの事はそれぞれの母親にたまに聞くくらいだったけれど。
うん、と僕は頷いた。
「ありがとう、咲莉」
彼女はにっこりと笑って、僕の手を取った。
「満足するまでここを見たら、草津に戻って温泉にしましょ?足湯があるんですって。それから美味しいものを食べ歩きしたいし、近くにいい酒蔵もあるんですって」
跳ねるような足取りに苦笑して、ゆるく手を引き戻した。
「わかったから、わかったから。だからもう少しここに居させて?」
早起きした休日は、まだ始まったばかりなのだから。
その後の話。
足湯につかって温泉街を散々食べ歩き、更にはちゃっかり酒蔵で試飲を堪能した咲莉はとうに運転を放棄していて、帰りの車中は僕が運転することになった。(小母さんに確認したら保険はちゃんと二十歳以上に切り替えてあった)
買ったお酒を抱えて幸せそうに微睡む咲莉のさらさらの髪をそっと梳きやる。
「まったく、嫌なツンデレだ」
僕に隠したかったものはおそらく沢山あって。
例えば取り立ての若葉マーク。
例えばその両手のばんそうこう。
例えばトランクに隠されたガイドブック。
けれどとても困ったことに、そんな嫌なツンデレが、僕は余り嫌いではないのだ。




