真夜中の 鶯
使用お題:「地獄」「目薬」
がくん、と首が前に落ちた衝撃で、渡部ははっと目を開けた。慌てて周りを見回すが、誰もいない。整然と片付けられた、あるいは雑然と物が散らかった机の行列だけが、深夜の作業に勤しむ渡部を見守っていた。時計を見上げると、短い針は11の数字にかかろうとしている。渡部は慌てて、週明けに必要な教材の修正を始めた。
しかし、パソコンに向かうこと数分、渡部はまたしても船を漕ぎだしていた。かくりかくりと揺れる額が、今度はパソコンの画面に激突する。
思わず口から洩れた呻き声に反応するものは誰もいない。むしろ無人でよかったと思いつつ、全く作業が進まないことに辟易して、渡部はひとつ背伸びをした。猛烈に眠い。しかし、何としても今日中に終わらせなければならない。こんなときは、と渡部はスーツのポケットを探る。
しかし、そこに仕舞ってあったはずの目薬は、どれだけポケットをまさぐっても指先に触れなかった。さては、授業の時に教室に落としてきたに違いない。面倒だな、と思ったが、いや待てよ、むしろ歩いたほうが目覚ましになるのではないかと思い立ち、渡部は職員室を出て教室へと向かった。
渡部が担任を務める二年二組の教室、その教卓のすぐ後ろに、目薬は落ちていた。あっけなく見つかったそれに安堵しつつ、渡部はよいせと屈んでそれを拾い上げた。
しかし、それはよく見ると、どこかおかしい。
ケースは普通の目薬だ。渡部が長年愛用している製品。眼鏡からコンタクトに替えてからというもの、1日たりとも手放せなくなったものだった。銀色と水色のケース。薬液が入っている部分は透明になっていて、中の薬液が見える。といっても、薬液も透明なので、特にそれが目を引くということもない、はずだった。
今、渡部の手の中にある目薬、その薬液が入っている部分は真っ黒で、ところどころに赤い線が走っていた。
見間違いかと思い、渡部は目を擦る。しかし、それでも変わらない景色に、彼は首を傾げた。
もしかして誰か別の人の落とし物だろうかと思ったが、目薬のケースを裏返すと、見覚えのある傷があった。数日前、ハードケースに替えたばかりの名刺入れに思い切り擦ってしまった跡だ。それに気づき、渡部はやはり自分の物のようだと思い直した。しかし、だとしたらこの黒い物体は何なのだろうか。
ふと思いついて、目薬を軽く振ってみる。すると、ちゃぷちゃぷと言う音とともに、薬液はすうっと透明に変化した。なんだ、ただの見間違いかと思い、渡部は目薬を手の中に握りこんだ。
拍子抜けしたからだろうか、一気に襲ってきた眠気に、渡部は手の中の目薬のキャップを開けた。右目、左目と順にさしいれる。ぱちぱちと瞬きをして、教室を見た。
そこは地獄だった。
今度こそ、何が起こったのかよくわからずに、渡部はその場に立ち尽くした。
地獄、とぽんと頭に浮かんだ言葉は、しかしあながち間違いでもないらしい。
目の前に広がるのは、見慣れた教室ではなく、どこまでも深い闇である。どこからか水の流れる音が聞こえる。近くへ遠くへ視線を彷徨わせると、目につくのは痛いほどに赤い曼殊沙華である。遠くでうぞうぞと動く影は、よくわからない形をしていたが、何故か渡部はそれが人間なのだと知っていた。動く影たちの近くには、普通の人間の2.5倍はあろうかという大男がふたり立っている。よく見ると、そのシルエットは人間によく似ているようで決定的に違う。ひとりは牛、ひとりは馬の頭を持っていた。
その光景に気圧されて、一歩下がった渡部の足が、から、と足元の丸石の上を滑る。まるで神社か、河原のように、様々なサイズの石が敷き詰められた足元に、革靴が心許なくきゅっと鳴く。
茫然とただ立って辺りを見ていると、どこからか男の声がした。
「おや、珍しいお客人ですね」
びくりと飛び上がって振り向いた渡部の目に、赤い着物を着た背の高い人の姿が見えた。腰辺りまで伸ばした長髪に女物の真っ赤な着物。しかし、がっしりとした肩幅とぼこりと飛び出した喉仏、そして何より足元から響くような低い声が、その人物が男性であることを物語っていた。
「お客人、まだ地獄の門をくぐるには、些か若すぎるんじゃあありませんか。ほら、よく見て御覧なさい」
そう言って男が示した先には、うぞうぞと動く影たち。よくよく目を凝らすと、その誰もが白い髪で頭部を覆い、枯れ木のような手足でやせ衰えた身体を引きずっていた。
「ここはね、貴方のような方がくるところじゃあないんですよ。少なくとも、今はね。まあ、その調子だと、その辺の小物に何か悪戯でもされたんでしょうけどねえ。駄目ですよ、よくわからないものに手を出しちゃあ」
青年が何のことを言っているのかわからず、渡部はぽかんと口を開けた。それから、ようやく掌に握ったままだった目薬の存在を思い出し、まじまじと見つめる。先ほどまで透明だったはずの薬液は、再び黒く染まり、時折赤い線を煌めかせている。緩やかに弧を描くその赤は、曼殊沙華の花弁なのだと渡部は思った。
「まったく、そんな粗悪品に引っかかって地獄を覗き見するなんて、お客人もうっかりが過ぎるねえ」
きひきひと口の端を釣り上げて笑った男が、赤い袖をひらめかせて渡部の背後を指さす。
「さ、お帰りはあちらだよ。魅入られないうちに、さっさと目を覚ますんだね」
男の言葉に、渡部は背後を振り返った。
渡部は教卓のすぐ後ろに立っていた。
振り返っただけのはずなのに、いつその景色が変わったのかすらわからない。けれど渡部は、目薬をさしたその姿勢のまま、首だけを後ろに向けた格好で真夜中の教室に立ち尽くしていた。
夢を見ていたのだろうかと、渡部はぱちぱちと目を瞬かせる。つい、と目の端から僅かに水滴が落ちた。慌てて手の甲で拭おうとして、手に持った目薬に気づく。
握りこんでいた掌をそっと開く。目薬のケースの中に、一瞬だけ漆黒の地獄が広がり、透明に掻き消えた。