劣等
僕がご飯を食べさせてもらうのはいつも最後。
大好きな先生はまるで家族みたいに僕を扱ってくれるけど、一緒なのは出稽古に連れて行ってもらった帰り道で、おそばをごちそうになるときだけ。
不満に思ったことなんてなかった。
「なんだい、手が反対じゃないか」
――カランッ
左手を軽くたたかれて、持っていたはしを落とした。
どうして叱られたのかわからなくて、僕は先生のお母さん……道場のおかみさんを見上げた。
「ご、ごめんなさい……」
それでも反射的に、僕は謝った。
「箸を持つ手は右と決まっているんだよ」
僕は急いで右の手ではしを拾ったけれどうまく持てなくて、また落としてしまった。
「これだから親なし子は。どういう躾をされたんだか」
優しい父さまと、姉さまの顔を思い出した。
僕がしっかりしていないから、ふたりとも、悪く言われてしまうんだ。
「よっソージ! 何してんだお前」
イジワルそうな声で僕の名前を勝手に縮めるのは歳三さんといって、近藤勇先生の親友だ。
家伝の薬の売って歩きながら剣術の修行をしていたらしいけれど、最近はよく、ここ試衛館にも稽古に来ていた。
僕は洗濯たらいにうずくまって、右手ではしを持つ特訓をしていたけど、どうしても難しくてぎゅっと握ってしまう。
「あっちいってください! キライ!」
僕の手元をのぞいてくるのを振り払った。
「箸ィ? 練習かよ」
ふっと吹き出して歳三さんは笑った。
なんでもできる器用なあなたには、僕の気持ちはずっとわかんない。
「ヤだ! あっちいって!」
「教えてやるって。おとなしくしな坊や」
「ボーヤじゃない!」
僕の右手を取って握るのを、また払った。
なんでこんなにイジワルなんだろう。
ズルイよ……先生はあなたといると、とても楽しそうだし。
「どうせまた苛められたんだろ? とっとと覚えて見返してやろうぜ」
いじめられた?
違う。
僕はいじめられてなんかいない。
かわいそうなんかじゃない。
「……泣くなって。バカだな」
「ッ泣いてません! 歳三さんのバカ!」
「バカって言う奴がバカなんだ」
先に言ったのはあなたでしょう?
歳三さんは、はしを持って見せてくれて、パチパチと動かした。
「ほらよ。やってみな」
「いいです! 自分でできます!」
ズルイ、大嫌い。
それなのにどうして、僕に優しくするんだ。
……優しくしてくれてるんだということは、わかってる。
だから、どうしようもなく悔しい。
大きな手からはしを奪って、お腹に抱えた。
「かわいくねぇなぁ」
そう言いながら、歳三さんはまだ笑っている。
別に僕、あなたにかわいがられなくてもいい。
たった一人に、見ていてもらえればいい。
「おおい、また喧嘩しているのか?」
「先生!」
僕は先生の足元にかけ寄って隠れた。
「……歳、大人げないぞ」
歳三さんは悪くない。
けどいつも先生にいさめられると黙って、言い訳もしないでそっぽを向く。
悪くないのに、他の人に同情されるのは我慢できないくらいにイヤなのに、先生の前では被害者の様子をつくって、どうにか関心を引こうとするんだ。
僕の頭をなでてくれる、このあたたかい手から離れたくない。
「箸の持ち方、練習してたみたいだぜ」
その一言だけで、すべてが伝わってしまう。
ため息をついてから、僕に目線を合わせてしゃがんでくれた。
「そうか、一緒に練習するか!」
僕は将来きっと、先生の為に働く。
どんなことでもする、この人の為になるなら。
この胸に残り続ける劣等感を隠したまま、例え癒えることがなくても。
了