坂
坂
聞こえるのは発車のベルばかりである。
目の前のまあ緩くも長く伸びる学園坂を下り、やがてぶつかる阿夫利神社を東に折れれば源五郎橋駅は目前に控える。控えるというのもあまりに質素な無人駅であり、いまや学生の利用者がそれなりになろうというのにもかかわらず何を強いてか人を置かない。その代りとでも言うのか簡易的な自動改札機が添えられることになったのが三年ほど前だが、空いた袋の口をすぼめるばかりでかえって人の流れを妨げている。地方というのはこういった無益な改修を好む性癖があるのだと、商工会長の山出さんはしばしば宣っている。真実は知れない。ともあれ、源五郎橋駅はたかだか北へ数キロに田野駅、南へ十数キロに南柏蓮台駅を有する特に特徴もない無人駅である。
学園坂という名前は最近に定着したものだ。というのも、阿夫利神社から長く確かな傾斜を持って伸びるこの道の北の先に、今ああやってやや高い夕陽を浴びつつ光っている校舎は築五年の童子である。名は市立北柏蓮台高等学校という。区切り方は市立・北・柏蓮台・高等学校である。生徒やこのあたりの住人からは〈ハッコー〉と呼ばれる。柏蓮台というのはこのあたりの地名であり、台と云うからにはやはり台地になっているのだろう。思うばかりで確かめたことがないので、いずれは母にでも訊いてみようと思う。また思っているだけなのでたぶん訊かない。私がこの土地についてわかるのは、少なくとも南に向かってこの町がやや緩やかな傾斜を保ちつつ伸びていて、阿夫利神社の裏手を西東へと流れる二級河川〈馬酔木川〉を境に北は五本の坂沿いに興る五つの商店街を中心とした商工業者の区域、南はより南部に栄える小都市についてベッドタウンの機能を果たす南柏蓮台という地域だ、ということぐらいだ。真偽のほどは定かではないが、ハッコー以北の区域は一部を除いて貧窮喘ぐ旧い農家がほとんどを占めており、南柏蓮台の南端部は名家隠家抱えの古刹信福寺を中心に富裕層がその絢爛豪華な城を構えるといわれ、各世帯の年間所得は南北でグラデーションを形成するという。だからなんだという話だが、私も同じように思っている。
ともすると、我が家はそこそこ低所得である。学園坂五大商店街のうち中央にあたる中通り商店街、そのシャッターばかりが連ねる軒のうちに場違いに小洒落たカフェを創めてしまったのが私の父であった。父はカフェを創めて間もない冬、生まれ育ち慣れ切っているはずの坂道で氷に足を掬われ、すっ転んで頭を打つやそのまま亡くなった。母と知り合う以前から何か失敗をやらかすと反射的に呵々大笑する癖があったので、死に顔は妙に楽しそうな満面の笑みであった。母はそれ以来、うだつの上がらない立地で見た目だけ妙に洒脱なこの店を切り盛りしていかざるを得なくなった。しかしながら驚くべきことに、父の死は、この店という負債を打ち消すにはいまいちぱっとしない生命保険金以外にも遺すものがあったのである。それは、周囲の人々の同情であった。持ち前の額の広さに比例して、父の顔は広かった。もちろん額が広いので顔も広くなるのは当然のことであろうがそういうことを言いたいのではなく、より慣用句的意味合いである。先に名前の挙がった山出商工会長に始まり、布団屋界隈の最年少店主にして期待の新星毛祝坂青年、あらゆる店舗の中で最も長い歴史を持ち、厳しい闘争の果てに五大商店街唯一の肉屋を不動のものとした古老山臥荘翁。その他有象無象の恩人たち。禿げの父は商店街に潜む数多の職人商人に遍く人の脈を張っており、ひとたび誰かが我が家に協力する旨を商工会会議でぶち上げると、芋づる式で総力的援助が決まった。何が何だかわからないままに連日、我が家には地元の顔なじみから、それに連れられてきた南柏蓮台のマダムやらお姉さんやらが訪れることとなった。父がいなくなってからぎこちない笑顔しか見せなくなっていた母が、このころから随分と明るく笑うようになったと思う。心なしか、なんぞやらかした父の呵々大笑に似るものもあった。
そういった地元の方々の善行もあってか、元々持て余していた広大な空き地に五年前にハッコーの建設が決定。速やかに開始され、一年経ってすっかり出来上がると周囲からぐんぐんと高校生を呼び込み、それに比例して商店街は過去に例を見ない盛況を見せている。顧客はおませなお年頃である。我が家のカフェは、その外面と母特製の可愛らしく洒落たメニューの数々によって、彼らの小遣いを巻き上げに巻き上げている。
聞こえるのは発車のベルばかりであった。それが、しばらく前にカランコロンと入口のベルの小気味良い音が鳴って以来、通りに面したカウンター席で黄昏る私の右耳と左耳に、別々な音声が侵入してくる。
「この世にはさて下り坂と上り坂、どちらが多いように思うかい?」
男性にしては高い声は右耳から。
「それは興味深い難題だね」
女性にしては低い声は左耳から。
「いや、そういうやりとりは私を」
「「それはできません」」
いつも決まったように、このくだりをやる。あるいは二人の間では、決まっているのかもしれない。
学園坂から向かって左手が隠善という男子高校生、中央が私、右手が剣峰という女子高校生である。ちなみに私は高校生ではなく、齢で言えば十八歳であるが立派な社会人である。中卒であり肩身の狭いといわれる社会人ではあるが、いまのところこれといって困ったことは無い。今物理的に肩身が狭くあるが、それは店内のレイアウトに問題があるのだった。
この高校生の二人組は互いにその関係性をカップルと自称してまわっているが、どうも浮かれているらしい風でもなかった。〈まわっている〉と言ったのも昨年からこの二人組は五大商店街のいたるところにくまなく出没しては二人の関係性を主張して歩いているらしく、商工会会議では昼食の段でしばしば話題に挙がった。しかしながら、このカフェと山臥荘翁の営む肉屋〈一期一会〉への来店は偏向的に多いらしく、本日も二人して〈一期一会〉と記された油の染みた紙袋を持っているのを見る限り、ここに来る以前に寄ってきたらしかった。
「今日は何を買ったの?」
なんとはなしに訊ねてみる。どちらの方を向いたらいいかがわからないので、とりあえず剣峰ちゃんに向く。背の低い彼女へはやや見下ろす感じになる。銀縁の丸メガネの下に涼やかな目元が垣間見える、長い黒髪の清潔そうな乙女である。しかしながら食べ物を食い散らかす癖があり、いまこの時も口の周りはパフェのホイップクリームで羊雲を散らしたようになっている。床にとどかない脚をぷらぷらやっておるので、高校生というよりは中学生に見える。
「ハムカツですよ。ハムカツしかありませんとも鞠先輩」
丸メガネのレンズは通さずに、口はもぐもぐやりながら上目遣いにこちらを見た。長い睫毛がその仕草にふんだんなる愛嬌を与えている。ちなみに鞠というのは私の名前だ。先輩でもなんでもないのだが、先輩と呼ばれている。
「剣峰さんはなにもわかっていないです、先輩」
「なんだとぉ」
「やはり肉屋の揚げ物といえばメンチカツさ。そうに違いない」
自信満々に言いながらコーヒーゼリーを頬張っている隠善くんは、せっかく綺麗にドーム状だった黒褐色の塊をスプーンでもってぐずぐずの何かに変貌させていた。これまでの様子を見る限り彼は何かを食するとき、それを一切の混沌にせねばすまない性分を持っているらしかった。性分なのでやはり本人でも堪えが効かないことらしい。ビュッフェに行って、なんだかわからないごちゃごちゃしたものを、制限時間いっぱいまで号泣しながら食べ続けたらしいエピソードを剣峰ちゃんから聞いたことがある。なぜ一皿ごとに別なものを盛ろうとかそういう試みをしてみないのかは謎である。このご時世に蜻蛉メガネをかけて、いかにももっともだという顔で頷く相貌はそこそこに整っているが髪は寝癖ばかりで、お世辞にも整っているとは言えない。
二人は口論をしているのに学園坂を凝視するばかりで、いっこうに顔を突き合わせようとしない。あるいはそれでもって対立を示しているのかもしれない。挟まれた私はいい迷惑である。
「ハムカツのハム。あれが良くない。プリプリの歯ごたえと食いごたえのある厚みは認めよう。けど、それそのものの味に深みがなさすぎる。中濃ソースにどれだけ助けられているか知れたものじゃないよ」
「言わせてもらうけれど隠善くん、お肉の味以外の野菜類に初めから頼り切っているメンチカツなんかに私は興味ないのです。そこまで言うのなら肉の味一本でかかって来い」
吐き捨てるように少女は言うと、パフェの空グラスをスプーンで以て明るく鳴らす。
「店長さん!パフェをもうひとつください!」
「やめたまえ剣峰さん!きみのパフェは僕の痩せぎすながま口から支払われるんだぞ!」
「こうなりゃ自棄です。自棄食いです。これ以上付き合うなんてまっぴらごめんだメンチカツのメンチの意味も知らない男なんて!」
「そんなに言わなくたって良いじゃないか!もう知らない!僕は行くからねぇ!」
何を急にやり合い始めたかと思えば瞬く間に二人の別離が決まり、隠善くんは「失礼します」と私に言ってから立ち上がり、丁寧に椅子を戻したかと思うと店の奥へと速足で進んでいった。
「大丈夫なのアレ…」
見送ってから、今日も口喧嘩に勝利した剣峰ちゃんを見遣る。別段何ともないというような表情で、彼女はこちらを見上げていた。
「いいのです。私は頼んでいないのに、彼が『放課後の道草くらいは僕に頼って欲しい』と堂々と言ってのけたのですから。彼の蝦蟇財布にはハヤニエになるまで頑張ってもらいますよ」
そう言って、百舌鳥は悪戯っぽく微笑んだ。少し薄い唇が柔らかな曲線を描いて、口角の延長には小さなえくぼができる。言動と眼鏡以外は地味であり、そう振る舞うように努めているような節のある彼女であるからして、この艶っぽいとも評し得る魅力については知る人ぞ知るものであろう。隠善くんはその貌に付いた二つの審美眼について、蝦蟇財布の中身よりも遥かに優れたものを持っているに違いない。
「ところで彼はどこへ」
「トイレをお借りしているのだと思います。今日の給食がカニグラタンと柿だったので。がっしょくきんがっしょくきん。」
彼女が手を合わせて神妙に唱える〈がっしょくきん〉とはなんであろうか。その疑問に先立って、私は彼女らが先に挙げていた話題について触れることにした。ただのまじない言葉ではつまらないなと思ったからである。訊いて損では誰もが哀しいではないか。がっしょくきんがっしょくきん。
「ときに訊ねる剣峰女史」
「浅からぬ縁、知らぬ仲でありませんからして。なんなりとお聞きいたします鞠先輩」
お互い意味のない仰々しいやりとりが好きであった。
「正味、この世には上り坂と下り坂のいずれが多いものでしょうか」
「正味、それは同数に尽きます先輩。…え?ちょっとは考えましたか?」
剣峰ちゃんは目を丸くしているがこちらを見ているわけでは無く、ただひたすらに、あきれるほど真摯に、学園坂へと視線を投げかけるのであった。それは阿呆浅慮を駆けた私へのささやかな気遣いであったかもしれないし、今この時からその存在が彼女によって否定され続けていることを意味しているのかもしれない。けれど私は、留まることをしらないその愚直で涙ぐましいフルマラソンをこんなところで断念するわけにはいかなかった。阿呆は千里を駆ける必要があった。
「いや、それでは女史、しかし、全く興味深くは無いし難題でも無いのでは」
口について出た音こそたどたどしくあったが、どうよこれとしたり顔であった。なぁんだい君たちは思ったより浅いやりとりをしていたんだねえ、と、得意満面の笑みである。鬼の首をとったようである。しかしながらどの表現をとってしても覆ることが予定調和であるからして、これも造作もなく返されるのは火を見るより顕かなのは諸兄の思う通りである。
「正味の話です。雑多な可能性を捨て去った先に、その真理があります。けれど我々の思考実験はそんな夢のないところで終止符を打ちません」
「夢…」
「我々はまだそれを持っているべき年ごろなのです鞠先輩。手放すのはいつだってできるのですから」
剣峰ちゃんは二杯目のパフェを頬張りながら言う。夢いっぱいの頬袋は既にチョコクリームで鮮やかに彩られ始めている。ホイップクリームとの混ざり具合が混沌としており、なかなかに見るに堪えない。カウンターに備えてある紙ナプキンでそれを拭ってやると、彼女はこちらに向き直って「いやどうもすいませんねぇ」と恭しく言った。
「坂道とはなんぞや。私たちはまずこれについて考える必要があります」
剣峰ちゃんは再び学園坂に視線を向けた。自然、私もそちらを眺める。
「傾斜のついた道、かなあ。坂で、道だから」
彼女はもっともだという感じに頷く。それしかないという感じに頭を縦に振る。
「定義では辞書ごとに異なりが見られるので、これといった決定ができません。ですがどれに書いてあるのもそんなようなことです。どこからを傾斜、どこからを道とするのかは問題を煩雑にするのでこの際我々の許容範囲ということで留めておきましょうか」
そう言いつつ、彼女は可愛らしいキャラクターのストラップがついたスクールバッグから、スマートフォンを取り出した。たどたどしい運指で何かを入力すると、ややあって画面をこちらに向けた。ディスプレイには地味な色合いの、なんらかのホームページらしいものが映っている。最上部をよく見ると〈坂学之会〉と書かれている。
「万物はなんにつけ誰かしらが学問の対象にしているものですが、坂についても例外では無いようです。ここでは〈坂道〉について「自然が人為的な影響を受けた傾斜を持つ道路及びその景観」と定義しています」
つまりその〈坂学〉における定義を主軸に置いたうえでさらに発展的に、且つ我々の許容し得る範囲まで押し広げた世界の「坂道」を語り合おうというのであろう。見よ、彼女の瞳は今、怪しい光に満ちている。これよりはじまる無益な議論がまるでこの星の存亡に関わる命題を扱うかのような真剣味と、積木という玩具に生まれ落ちて初めて三次元への無限の可能性を見いだすことに成功した赤子のような脅迫的創作欲求で満ち満ちている。末恐ろしい少女である。いずれこの世の坂道という坂道、万象という万象は彼女の手に落ちるのではないかとさえ思われた。もし彼女が華奢な白魚のようなその指で今、あの細長いピンク色のパフェスプーンを弄んでいなかったらとても一つ年下の青年には見えなかったろう。
ふと学園坂の方に視線を移してみた。いま彼女と同じものを見たれば、その片鱗に触れることがかなうであろうか。高校生という青春時代の華の季節を経ず、自我同一性について葛藤せず、友人関係について困惑せず、毎年偶数回の定期試験に怯えず、部活動で人と喜びを分かち合うことをせず、異性との甘酸っぱく馬鹿々々しい恋愛ごっこにも興じない。だのに不用意に人格がねじれることは無く割と素直に育ってきたらしい。そんな私であったが、コンプレックスと称するほどでないにしてもやっぱりいっぱしの疎外感、満ち満ち足りない胸やけというのは、慢性的に抱えているのだ。毎朝毎夕の登下校の光景がショーウィンドウ一枚奥の一生涯分遠すぎる憧憬に変わったのは、最近ではないはずである。夕陽に攪乱された焦点が定まるまでの幾分かの時間であった。
今、夕暮れ半ばの坂に、ひとりの少女がいる。線が細いが肝心なところはしっかりとして、危うげのないシルエットが印象的である。初めて見た感じがしないのは、ハッコーの制服と学校指定のバッグを身に着けているからだろうか、もちろん知り合いではない。身に着けるものは左隣の少女とその一切を違わないはずだが、その溢れ出る、出所ははっきりしているのに得体のしれない高貴栄華の気品が周囲の可視光線になんらかの異常を与えているかの如く、何から何までが違って見えた。化学繊維のシャツは絹のような肌心地をにおわせているし、袖のないクリーム色のベストはカシミヤを思わせるきめの細かさと光沢を錯視させる。スカートの丈は健全であるにもかかわらず架空のきわどい絶対領域の存在を疑わせない奥行を持ち、ローファーの靴底の擦り減りは稀代の天才彫刻家が我々の理解し得ない大いなる意味を託して鑿を振るった軌跡に見紛う。夕陽と、それにすっかり染め上げられた夜風のはしりが梳かす濃厚な栗色の髪は、その整いに整ったこれ以上にどこをいじれば良いのかという目鼻立ちと恐ろしいまでの符合を果たしている――何ということか、後光まで射し込んできた。容赦なく不浄を照らさんとする橙色の輝きにこちらの不浄なるちんけな眼球どもは黒こげに炙られ、思わずぐぬぬと呻きが漏れる。あれなるは現世の女子高生に身をやつし市井へ具象した、にょいりん観音菩薩であろうきっとそうであろう。して、にょいりんとは果たして何だろうか。響きから察するになにやら海より深く山より高い母性というものの根源のようなものだろうと、私は推測する。「にょいりんにょいりん」と瞼で二つの汚物を塞ぎながら神妙に唱えて、おそるおそる窺うと既に聖体はいずこへやらとおはしました後にあり、西向きのカーブミラーがこちらを変なものでも見るように睥睨するばかりであった。
いやはやすごいものにお目にかかった、と、この感動を二人で共有するために左を見る。パフェを食らう手は無限大の可能性に至ったことによる自失の境地にあり食欲的に不動でいるにもかかわらず、口の周りにはふんだんなるクリームの化粧が施されている。どうやって汚したのであろうか、甚だ疑問である。先ほどの才気溢るる眼光は見間違えのようにも思われ、学園坂を遠く眺めるようにうっとりと目を細めるその様子も、あるいはいかようにもならない己の悪癖に途方に暮れているようにも見えた。半開きの口からは紫色の名状しがたい瘴気のような何かが漏れ出て、万物万象を微妙に残念なものに塗り替えてしまいそうな予感がした。私には坂道云々よりも、既にそちらの方が気がかりであった。この不届き者にはきっと、聖なるあの御姿は白い霧のようなものに掻き曇って茫漠と見定めること能わなかったであろう。哀れみさえ覚える。
「あれは隠三年生ですなぁ」
不意に、つまらなさそうに彼女が呟いた。キリリとしていた眉は屈折し、唇を尖らせて拗ねたような顔をしている。
「知り合いかな」
「先輩と同い年ですから、彼女もまた先輩です」
驚いたことにあの観音菩薩と見紛う女性は私と同輩であるという。
「個人的付き合いはありませんが、あれだけの美貌を持ち合わせておりますから――まあ、言うまでもなくハッコーでは有名人ですよ。ああ、生徒会名誉会長としても活動しているとかいないとか」
生徒会名誉会長とかいう聞き慣れない言葉に眉を顰めて見せても、彼女は一切の反応を見せなかった。何があったのかは知らないが、あの女神に思うところがあるようだ。腫物に触っても仕方ないので、「ふぅん」と適当に返しておいた。それはそれで不満なようで、剣峰ちゃんはスプーンを両手で以てグニグニと再び弄び始める。きっと恋人が不在なのも気に食わないところなのだろう。私は珈琲を淹れるために席を立った。
学園坂から向かって左右に伸びた長方形のこの店舗は、ショーウィンドウの手前に、楢の板材を隙間なく渡したテラスを有している。父が母との新婚旅行でイタリアに訪れた際に似たようなものを見かけて、それに影響を受けて拵えたらしい。パラソルこそ無いが、真っ白で可愛らしい意匠の円卓と椅子が床材となかなか良い心地のコントラストを示していて評判が良い。私も気に入っている。店外がそんな様子なのに対して、店内は坂に向かうものと坂に背を向けるものの合計二基のカウンターと、それらとの背中合わせに挟まれた空間にある三台の四人席テーブルで完結している。それぞれの調度にはそれなりに気を遣っているらしく(私には詳しいことはわからないが)、見る人が見ればなかなかの代物であるらしい。父の並大抵でない意気込みが慮られる。
厨房は、もう一つのカウンター席の奥にある。こちらはお洒落でもイタリアでも何でもなくいたって変哲の無い空間だが、普段から従業員として働いている私としてはこちらの方がいくらか身近である。母はカウンターで接客をしていたので、いまこの部屋には誰もいない。薬缶が水蒸気を噴き出し始めたので、コンロを止めて、ぶさいくな猫の顔がプリントされたカップにインスタントコーヒーを作った。店で出しているのは商店街にある豆専門店のものを挽いた本格的な逸品だが、苦いか酸っぱいかといったさわり程度の違いしかわからない舌貧乏にはこれで十分。温かくて、気分が落ち着くような気がするものを飲むことこそが重要なのである。私にとって珈琲というのはそれ以上でもそれ以下でもないのだ。三度口を付けたところで、はて隠善くんはどうしているだろうかと思い立った。本店の構造的欠陥は日常の業務の中でちらほら立ち現れてくることがあるが、常住坐臥関わってくるのは何といってもトイレの場所であろう。店内に入り、カウンターを抜けて、厨房から奥へと抜けた先はまっすぐ伸びる廊下となって既に私の住まいだ。右手に二つ左手に三つ、正面に一つ扉があるのだが、右手の奥の扉がトイレである。説明するのにあまりに面倒だし、そもそも居住空間なので見も知らぬお客さんを入れるのは憚られる。そのため、当店にはトイレが無いことになっている。隠善くんが我が家のはばかりに憚りも介添えもなく辿り着いたらしいのは、ほかならぬその常連さ故である。
「だいじょうぶかい、隠善くん」
私の背より高いところにある小さな擦りガラスの窓から、光が漏れている。鍵穴も水平になっているので、彼がいるのは間違いないようだ。いくらもしないうちに「はぁい」と、気の抜けた声が返って来た。
「剣峰ちゃんがご立腹だよ」
「いや、しかしながら、今回ばかりは学校が悪いと思うのですよ。世には食べ合わせというのがある」
げっそり消沈した様子の声でささやかな憤慨をみせている彼は、どうやらまだ腹痛と戦っているらしい。「くぅ」とか「はぉ」とかまこと気の毒な様子ではあるのだが、後になってトイレが臭いのも困るので、換気扇を回しておいた。私の御機嫌伺と換気扇の風切り音でいくらかにぎやかになって、それがしばらく無音で戦っていたトイレ戦士の励みになったのだろうか、「いまならすべての毒素を抜き切る自信がありますよ私は」などと扉の奥でお尻丸出しのまま息巻いている。本当に次のチャンスで毒素とやらを輩出できるかは甚だ怪しいところではあるが余裕が出てきたのは確からしく、剣峰ちゃんのことやらをつらつらと話し始めた。大抵はのろけ話のようなものだったので、適当な相槌に終始することになった。二、三度話題が変わったあたりで、私はさきほど学園坂で見かけた隠という同輩について尋ねた。
「剣峰さんの言う通りです。いろいろとミステリアスな方なので、根も葉も面白みもない噂がいくらでも立っていますよ」
学校という一から十まで誰かが身の回りにいて、望んでもいない交友関係を広げるための自己開示を強いられる空間で、その堅固秘匿の身の上たるやいかにして成し遂げたのであろう。隠善青年に聞くによるとかの美少女は外見的に顕かの事と、水泳部に所属していること以外の、嗜好性など内々における事柄についてはその一切が事実はわからず予想すらもつかないという。持ち歩く文房具の一式は無印良品で購入したようなシンプルの極みであるにも関わらず、そのシンプル過ぎる故にメーカーは特定できず、ではミニマリストかと言えば休み時間にアフリカ家具やインド雑貨のカタログを見ていたという話もあり、収斂した情報の束は虹色であったそうだ。彼は面白みのない噂と言っていたが、私にとっては十分に興味引かれる内容である。これを面白いと思えない彼らの高校生活というのは、どれだけ刺激的なのだろうか。
「僕も噂話は好みますが、剣峰ちゃんはやはり加根魯氏とパイプを持っているので、そのあたりについて詳しいかと思います…ぐぅぅ」
「大丈夫かい」
「僕はここまでのようです」
以後、トイレからは「がっしょくきんがっしょくきん」という悲痛な何事か唱えるような声が染み出てくるばかりであった。珈琲はすっかり冷めてしまっていた。
「先輩とも関わりのある話で、且つ彼女の噂話であれば、〈隠生徒会長と秘密の部屋〉といいう噂があります」
どこぞのヤングアダルト小説第二作を思わせるタイトルの噂について、母からサービスのイチゴ大福をもらってホクホク顔の彼女はかく語る。
「隠名誉会長はあれだけの美貌を持つわけで、その周囲にはとりまきもといストーカーのような連中がおります。それに加え、公に明らかにはしないものの隠れてファンをやっている有象無象もいます。にもかかわらず、その全ては謎に包まれて謎が謎を呼びひたすらにいたずらに日々謎が深まっていくだけの彼女ですから、噂というのはぽんぽこ産まれてくるわけです。先に挙げたものに関連して、〈濡れずのワイシャツ〉という噂があります」
ハッコーの正門の目前には、既に述べたように学園坂がある。学園坂という名称が学校の設立によって名付けられたことを踏まえればこの説明は正しくないが、そのような瑣末事にはとりあえず目を瞑っていてほしい。その学園坂であるが、その傾斜はそれほどきつくは無く、自転車でも立ち漕ぎをすれば苦労はしない。ただ、その全長はというと五百メートル以上有り、阿夫利神社から北へとハッコーへ歩いていけばなかなかに良い運動になる。阿夫利神社から三百メートルもしないところには源五郎橋駅がある。このなんとも言い難い距離は、高等学校運営側の、学生の自転車によるトラブルや駐輪場所の確保がめんどうであるという怠惰心によって、生徒手帳に「電車通学者ノ自転車利用ヲ禁ズ」という校則を刻字するに至った。結果夏季の登校時間にもなると学園坂は、その緩慢で蜿蜒長蛇の勾配と辛い日射によって全身汗まみれにされながらも進む、源五郎橋駅からやってきた青少年たちで埋め尽くされることになったのである。そうなると夏の教室は連日阿鼻叫喚の様相を呈する。お年頃の少女は予め用意した体育館の更衣室で着替えて思春期の狼どもに牽制し、透ける白布を拝まんとする男どもは自身も汗まみれなので、教室で制汗剤を振りまいては大気汚染を深刻化させた。そんな誰もが慌てふためく夏の朝、涼しい顔で読書をしておはすのは誰あろう、隠名誉会長であった。彼女はそも、登校の姿を誰にも見られたことが無いという噂もあった。そのうえその美しい栗色の髪と折り目正しいワイシャツ、そして爽やかな項は一切の汗滴を流さず、湿り気を含まず、しかしながら凛とした瑞々しい美しさを称えたという。この姿を目の当たりにして神威に中てられた衆生の一人が、興奮気味に人に言って聞かせたのが〈濡れずのワイシャツ〉である。
「〈隠生徒会長と秘密の部屋〉は、この〈濡れずのワイシャツ〉に関連してうまれた尾ひれ的噂話です」
汗に濡れないワイシャツの話が広まるや、夏真っ盛りの校内では彼女の深窓について数々の推論が紛糾したという。何よりも青少年たちを悩ませていたのは彼女の登校は誰も目の当たりにしたことがないのに、下校については誰もが学園坂を下り源五郎橋駅へと向かう彼女を目撃している、ということであった。ともなると源五郎橋駅を用いているのは確実である。
「駅に行くんでしょう?それなら、誰か電車で一緒になったりしないの?」
「それが、一切そういった話は無いのです。駅に着くなり、彼女を尾けた莫迦もそうでない衆生も、必ずあの後姿を見失う、と言うのです」
彼女の隠という姓とそのいでたちや立ち居振る舞いから、南柏蓮台に邸宅があるのは間違いないというのが定説らしい。隠というのは柏蓮台に地下茎のように血脈を拡げる名家中の名家である。南柏蓮台に帰宅する以上、電車によって源五郎橋を渡る以外に馬酔木川を越えるとなれば、かなり離れた西の山裾にある内匠橋を渡る他に方法がない。そういうわけで九割以上が南柏蓮台の普通住宅街に住まうハッコー生たちは、ほぼ全校生徒が源五郎橋駅を利用しているのである。かつて馬酔木川には丸木造りの渡し船があったそうだがその伝統も絶えて久しいと聞く。もっとも、うら若き女子高生がいつ転覆するともわからない不確実性に身をゆだねる道理もない。そもそも彼女は、駅まではその姿を見せているので電車に乗っているのはほぼ確実なのだ。では彼女は駅でどこへと消えてしまうのか。そして、駅を利用しているにもかかわらず登校を目撃されず、炎天下を歩んできた筈なのに汗の一粒をも浮かべぬのは何故か。