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―――この街には、昔、壁があった。ヤヌチニの自治区と帝国領を分ける壁だ。知ってるか、壁沿いなんて、どこもたいていろくなもんじゃない。小さい頃は、とにかく腹が減ってしょうがなかった。親の顔なんて知らない、誰も助けてなんてくれない。弱い奴から死んでくんだ。【壁のこっち側】は、そういうところだった。あの日も腹が減ってて、それで食いもの盗んだら捕まっちまって―――袋叩きにあってたら、たまたま、壁を越えていたヤヌチニの男に助けられた。変な男だった。何かにつけて人のことを構ってきて、鬱陶しくて仕方なかった。お節介な野郎でな。バカがつくほど単純で、それでいて嘘みたいに強かった。だから、死ぬなんて思ってもみなかった。あの夜。帝国軍が進軍してきた日。俺が死んだら【祈花】をくれるか、と言われて冗談だと思った。本気だと知っていたら頷かなかった。ヤヌチニってやつは、己の死期を悟った時に花の【蕾】を家族や友人に捧げることがあるんだと。戦地なんかですぐに【祈花】が届かないかも知れないって場合の保険として使われたらしい。そうすると死んでも霧の国には行かずに、その畔で【蕾】を捧げた相手からの【祈花】を待てるんだ。あんな石っころ、俺は、すぐに返すつもりだった。じゃなきゃ受け取らなかった。バカみたいに強い奴だったから、すぐに帰ってくると疑わなかった。でも、死んだ。バカみたいに強いけど、それ以上にバカだった。あいつの亡骸を見ながら、俺はすぐにわかったよ。あのバカは最期まで戦って、仲間が死んでいくたびに【祈花】を捧げて、そして自分は誰からも【祈花】を捧げられずに死んだんだ。俺が【祈花】を持ってくるって信じて。バカな奴だ。大バカだ。
―――俺は、魔法が使えないのに。
男の声はあくまで淡々としていた。けれど、どうしてか、ココにはそれが慟哭に聞こえた。
「言っておくが、俺は死後の世界なんてこれっぽっちも信じちゃいない。でも、俺はあいつに借りがある。それだけだ。だからこの貴石を―――あいつの【蕾】をほどいてくれ」
「それはかまわないけれど。けっきょく【祈花】がなければ、その恩人とやらは光の国には行けないのではないかな」
男に同情していたココは、シャンティティエルの発言に目を剥いた。このタイミングで、なんてことを言うのだろうか、この人でなしは。
「―――もう、別にいいんだよ、そんなことは。ただ、この石をそのままにしておくのが目覚めが悪いだけだ。まあ、【蕾】がほどかれれば【祈花】になるって、あいつはそう言ってたけどな」
シャンティティエルはきょとんと目を瞬かせると「それは、面白い理屈だね」そう言って笑い、それから、いともたやすく魔法をほどいた。
けれど、おそらく、時間が経ち過ぎていたのだろう。
―――貴石は花にはならず、ぱきん、という硬い音を立ててそのまま砕けた。それからきらきらと輝く粒子になって、男の周りに降り注いだのだった。