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この世界には、二種類の人間がいる。
魔法を使うことができる者と、そうでない者だ。程度の差はあれど、大抵の人間は前者に分類される。
かつて「魔法とは編み物のようなものだ」と無類の手芸好きにして偉大なる大魔法使いであったタタナ・パパサが語ったように、魔法は工夫と経験で如何様にもなりうる。あたかも手芸が編み方や毛糸の色、道具によってその出来が変わるように。
ただそのすべてに唯一共通しているのは、自分で編んだ魔法は自分にしかほどけない、ということだ。
いかに魔法を使うことに優れていても他人の魔法まではほどけない。だから古来より、魔法は格好の秘密の隠し場所となってきた。誰でも一度はへそくりや宝物を隠すために魔法を使ったことがあるはずだ。なぜなら、そこは誰にも手を出せない聖域となるからである。
けれどごく稀に、他人の魔法を【ほどく】ことのできる魔法使いが存在する。
【ほどく】ということは、他人の秘密を暴けると宣言しているのと同義だ。彼らは理屈も法則もすっ飛ばして、いともたやすくそれを行ってしまう。そういう人間が忌避されると同時に重宝されるのは人の世の常というやつで、【ほどく】ことを生業としている魔法使いは、『匪の魔法使い』などという蔑称で呼ばれながらも、依頼が絶えないでいる。ココの主人であるシャンティティエル・シュツルーテルも『匪の魔法使い』のひとりであり、その中でもずば抜けて有名だった。理由は二つ。彼が、かの大魔法使いタタナ・パパサに劣らぬ天才であるというのが一つ。そしてもう一つは―――
「噂通り? どんな噂を聞いているのかな?」
シャンティティエルがおっとりと首を傾げた。依頼主の男が、白々しいと言わんばかりに目を眇める。
「『悪名高き魔法使いシャンティティエル・シュツルーテルはどんな依頼も決して断らない。ただし、報酬は彼の望むがままという条件つきで』」
この、とんでもない噂のせいである。そして報酬とは金品ではなく実は依頼者の命なのだ―――という尾ひれがついて、とうとうついた二つ名が『悪名高き魔法使い』だ。笑えない。
シャンティティエルは、その悪魔のような二つ名にふさわしい不敵な笑みを浮かべると、「それは重畳」と頷いた。
それからこともなげに祭壇に向かおうとしたので、ココは仰天してその腕をつかんで引き止めた。「なななななにやってるんですか!」声は思ったよりも強張っていた。
「三十年間も風化しなかった【貴石】だって聞いてましたか!? ヤヌだかマヌだか知りませんが、その人たちの誰かが復讐を望まなかったかなんてわからないじゃないですか! ほどいた瞬間にここら一帯が火の海になっている可能性だってあるんですよ!」
数ある魔法の中でも最も恐れられているものの一つが、この【貴石】と呼ばれる存在である。魔法を結晶化したもので、一般的な魔法と異なり、その性質は発条仕掛けの機械に似ている。作成者の設定した条件を満たすと自動的に【ほどけ】るようになっているのだ。使われなければ大抵は数年で風化してしまうが、効力が強いものほど長く残る。例えば、古代遺跡などがそうだ。あそこには何千年も前の戦争で使用された貴石が未だに多く残されていて、うかつに手を出せば命を奪われることにもなりかねない。
しかしシャンティティエルは全く気にした様子もなく、明るく告げた。
「大丈夫だよ―――たぶん」
「生まれてこの方、坊ちゃまの『たぶん』で安心できた試しがない!」
うっかり漏れた本音に奇妙な沈黙が落ちる。
「ココ、僕はね―――」
シャンティティエルはそれはそれは悲しそうな表情を浮かべた。うっとココは眉を寄せる。気まずそうな顔の従者に、主人はさらりと告げた。
「実を言うと、人の嫌がることをするのが大好きなんだ」
「うん、知ってた……!」
伊達に二十年もつき合っていない。シャンティティエルという男は基本的に人でなしなのである。がっくりと肩を落としていると、男が吐き捨てるように呟いた。
「別に危険なもんじゃねえよ」
ココは驚いて男の顔を見る。それは、苦虫を噛み潰したような表情だった。
「……なんでそう言い切れるんですか?」
「編んだ奴を知ってる」
そう言って、男は一生の汚点だと言わんばかりにさらに顔を歪めた。これ以上その話題に触れて欲しくないことは明白で、ココは見てはいけないものを見てしまった気持ちになって思わず視線をそらした。
けれど、傷口に塩を揉み込みさらにその上から唐辛子をすり込むのがシャンティティエル・シュツルーテルという人間である。
彼はきらきらと瞳を輝かせながら訊ねた。
「その話、詳しく聞いても?」
「断る。あんたは黙って魔法をほどいてりゃいい」
「つれないなあ。……ああ、そうだ。なら、それを報酬にしよう」
つくづくココの主人は最低だった。男はシャンティティエルを威嚇するように鋭く睨みつけている。
「そんなもの、聞いてどうする」
「趣味なんだ」
「他人の過去が?」
「いや、他人の嫌がる顔を見るのが」
「悪趣味だな」
全くだ、とココは男に深く同情した。けれど悪趣味な主人はにこにこと笑っている。
はっ、と男が自嘲するような笑みを浮かべ、ひどく嫌そうに口を開いた。仕方ないのだろう。報酬は彼の望むがまま―――もとより、そういう契約なのだ。
そして、この男には、そうまでしても叶えたい思いがあるのだ。
―――しばしの逡巡の後、男はひどく嫌そうに口を開いた。
この街には昔、壁があった、と。