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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第四章
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軍医のお仕事①

 フリジア戦役から遡ること半年前、帝国首都ローデポリス周辺の森の開拓が進み、街道が整備される中、アナトリア軍、首都防衛隊、西部駐屯地に常駐する軍医であったサンダースは、魔物掃討任務を兼ねた新兵の行軍訓練に帯同して、北部の森林境界線を馬で駆けていた。


 このところの移民増から新兵が増えたお陰で駐屯地は忙しく、まだ鍛えられていない者がしょっちゅう倒れたり熱を出したり寝こんだりするから、薬の備蓄が心細くなってしまったので、薬草摘みのついでに同伴したわけである。


 森林から流れ出る川沿いの土手には柳の木が密生しており、この枝葉を煎じて飲めば鎮痛剤になるのを知っていた軍医は、それを収集しに来たと言うわけだ。


 しかし、駐屯地からおよそ数キロの道のりを、フル装備をつけたまま駆け足で踏破した小隊は、訓練教官である小隊長の激にも関わらずクタクタにくたびれきっていた。仕方なく、罵詈雑言を浴びせながらも、休憩を取らせることを決めた隊長は装備を置くと、軍医の薬草収集を手伝うという名目で新兵たちを休ませることにした。


 だが、その気持ちが分からない新兵たちが、藪蚊が多い土手で不満そうに作業をしているので、怒った軍医は、『おまえらの手伝いなんざ不要だから今すぐ荷物をまとめて国に帰っちまえ』と怒鳴り散らした。見た目は穏やかそうな細身の紳士であったから、そんな雷を落とすタイプとは思わなかったのであろう、泡を食った新兵たちは丸くなって謝罪すると、慌てふためいて必死に作業を始めた。


 と、そんな時、別方向から馬に乗った集団が近づいてきた。他の小隊が訓練する予定を聞いていなかった小隊長が隊員に作業を止めるように指示し、警戒しながらその集団が通りすぎるのを待っていると、目のいい隊員の一人がその近づいてくる集団が何者であるかに気づいて言った。


「小隊長、あれは准男爵(バロネット)ですよ」


 リディア王国最後の准男爵となった但馬波瑠が、以前から郊外の森林を調査して回っているという噂は聞いていた。彼は森の中の植物や動物の生態が気になるそうで、魔物掃討任務に向かった駐屯地の連中が、度々目撃したそうである。どうやらそれに出くわしたようだ。


 小隊長は准男爵に道をゆずると、川を背にして小隊を一列に並べ、通り過ぎる貴族の集団を敬礼で見送った。


 護衛長と呼ばれるエリオスの馬が先頭を走り、通りすがりにジロリと小隊を一瞥していった。その後を憲兵隊の馬群が准男爵を守るように囲んで続き、最後に亜人の傭兵が軽やかに駆けて行く。


「すげえ、本物の准男爵だ」「俺、初めて見たよ」「格好いいな……護衛が」「俺と同じ年なんて思えない」


 小隊の隊員が興奮気味に言った。彼らは移民兵で、最近ローデポリスへやってきたばかりであり、但馬のことを噂でしか聞いたことがなく、その華々しい功績の数々は、今やリディアの若者の羨望の的であった。


 以前は市街でよく見かけ、気さくに声をかけてくれたのだが、今ではこうして四六時中護衛に囲まれており、一般人はとても近づけない。最近、移民でやってきた者からすると、そんな話は到底信じられなかったが、かつてを懐かしむ声が嘘を言ってるとも思えず、それが彼の神秘性を増していた。


 新兵たちのうわさ話を聞きながら、サンダース軍医はかつて駐屯地の営巣で気絶していた姿を思い出して、低く唸り声を上げた。あの時、下品な言葉を連呼していたいたずら小僧のような男が、よくもまあ出世したものである。


 彼は但馬が通り過ぎる時、すっと頭を下げた。それが敬礼をする他の兵士たちと違ったから目立ったのだろうか、軍医が居ることに気がついた但馬は隊列を止めると、護衛たちをかき分けてパカパカと馬を寄せてきた。


 何か失礼でも犯してしまったのだろうかと新兵たちがざわつく中、彼はひらりと馬から降りると、


「やあ、先生。お久しぶりです。こんなところで何してるんですか? 先生も駐屯地から出ることって、あるんですね」


 軍医は驚いて目を丸くした。


「准男爵は、自分のことを覚えておいででしたか?」

「え? そりゃあ、まあ、お世話になりましたからねえ」


 但馬が彼に初めて会ったのは、リディアに来た翌日のことである。知り合いなど誰も居ない頃だったし、初めての二日酔いでぐったりしているところを世話になった。その後も、エリックとマイケルに会いに駐屯地に行った時に何度か見かけていたので、印象に残っていたのだ。


 しかしそれも……


「もう2年以上も前になりますか、思えば随分経ちましたね……いや、つい懐かしくなって声をかけてしまいましたが、ご迷惑でしたか」


 軍医はブルンブルンと首を振るった。あの時はただの怪しい兄ちゃんだったが、今となっては但馬は貴族、雲の上の存在のようなものだった。それなのに、相も変わらず気さくな態度に、軍医は感服すると、言った。


「とんでもない。自分が何をしていたかでしたね……えー、このところ新兵がかなり増えたのですが、このひよっこ共が、よく体調を崩しましてね。駐屯地の薬草が底をつきかけてましたから、こうして薬草摘みに参ったのです……」


 軍医はそこまで言うと、ふと但馬の顔色を見て、眉をひそめた。


「ところで、おや、よく見れば准男爵も顔色が優れないご様子。ちゃんと食べておいでですか?」

「え? ええ、まあ」

「ならばよろしいのですが……新兵の連中にもちゃんと朝昼晩と、滋養のあるものを食べるように教育しているのですが、若いせいか休暇となるとPXで羽目を外してしまい、訓練も厳しいせいかすぐに体調を崩すのです。本来、滋養強壮を意識し、規則正しい生活を続けていれば、病になど負けるはずがないのですが、いくら言っても聞きやしません」

「なるほど」

「自分は強い兵隊を作るには、青い野菜をもっと食べさせるべきだと思うのです。ですが、誰も聞き入れてくれません。丈夫な体を作るには、食べ物が大事だということまでは、誰もが理解してくれるのですが、それなら強い筋肉を作るために肉を食べたほうがいいじゃないかと、軍隊では肉ばかりを食べさせようとするのですよ。しかし肉ばかりを食べてる人を見てご覧なさい。皆、豚のように肥え太り、とても健康そうには見えないじゃないですか」


 軍医は自分で話をしている内にムカムカしてきたのか、顔を紅潮させながら続けるのだった。


「准男爵もご自愛なさるなら青い野菜を取るべきです。血色が悪いのは血液が足りない証拠。血液は青い野菜が作るのです。これを朝晩食べて、規則正しい生活を続けていれば、必ず健康的な体を取り戻すことが出来ますよ」


 但馬は苦笑いしながら、うんうんと頷いた。周囲の兵隊たちが困ったように愛想笑いをしている。その姿に、やはり自分の主張が聞き入れて貰えないのかと、一瞬むかっ腹を立てた軍医であったが、すぐにやり過ぎたと気づくと、


「いや、失礼。熱くなりすぎましたか。ですが、准男爵のお体を思えば、せめてほんの記憶の片隅にでも留めておいて欲しいものですな」

「いえいえ、そんなご謙遜なさらず。いい線いってますよ、それ」

「え?」

「青い野菜を取れって、要はビタミン欠乏症のことを言ってるんでしょう。先生の仰る通り、血液は青い野菜が作ってますよ。それだけじゃありませんけど。特に、ビタミンCや鉄分などのミネラルが多い、レバーほうれん草なんかが造血作用に効果があると言われてますね」

「……ビタミン? ミネラル? なんですかな、それは」


 人間の体を作る三大栄養素は、脂質・糖質・タンパク質。それ以外の必須栄養素のうち、有機化合物をビタミン、無機物をミネラルと呼んでいる。


 有機物というからには要は炭素化合物のことであり、また、ある物質がビタミンであるかどうかは生物種によって異なる。生物の種類によって違うビタミンの代表例と言えば、意外かも知れないがアスコルビン酸が有名だ。あそこビンビンさんではない。いわゆるビタミンCと呼ばれるもののことである。


 殆どの動植物にとってアスコルビン酸は体内で合成される有機化合物であって、捕食によって積極的に採り入れる必要のない物質だった。アスコルビン酸は、体の皮膚や骨を作るタンパク質であるコラーゲンを作るために必要な化合物であり、これが欠乏すると人間は代謝が上手くできなくなり、歯が抜け落ちたり関節が傷んだり皮膚が裂けて血が吹き出たりする、壊血病と呼ばれる病気にかかってやがて死ぬ。


 そんな大事な栄養素なのに、何故か人間はこれを他の動物のように自力で合成することが出来ず、捕食によって補うしか方法がなかった。


 尤も、普通に暮らしている分には、よっぽどの偏食家でもない限り、壊血病にかかるほどのビタミンC不足に陥ることはなく、これによって命を落としたりする人間もまず居なかった。


 それが有名になったのは大航海時代、長期航海の最中に船員たちが壊血病にかかるようになってからである。


 長期航海を続ける船員たちの食事は保存食が主であり、果実や果物などの生鮮食品は、ほとんど食べることが出来なかった。すると容易にビタミンC不足に陥ることが想像できるだろう。だが、医学もろくに発達していない当時では、ビタミン不足などという考えには到達できず、長らく壊血病は船乗りだけがかかる謎の奇病とされていた。


 やがて同じ船員でも、下級の船員と上級の船長などでは、壊血病の羅患率に開きがあることに気づいた海軍軍医のジェームズ・リンドが、彼らの食べ物の違いに着目し、壊血病には柑橘類の果物が有効だと突き止めた。


 だが、せっかくのその発見も、柑橘類をジュースにし、熱処理してしまったことで肝心のビタミンCが壊されてしまい、闇に葬り去られる結果になってしまった。


 結局、壊血病とビタミンC不足の関係は、第二次大戦直前の1932年を待たねばならず、それまで壊血病は多くの人を悩ませることとなる。


「ところで、もやしには栄養がなくって食べても無駄。青白くてヒョロヒョロと育った子供をもやしっ子なんて言うでしょう?」

「ええ、言いますね」

「実はもやしに栄養が無いなんてのは真っ赤な嘘で、ビタミンCが豊富なんですよ。元が大豆なんだから、何の栄養もないなんておかしいですもんね。おかしいと言えば大豆の方で、畑のお肉なんて呼ばれるほどに栄養豊富な大豆なんですが、これには唯一ビタミンCだけが含まれてないんです。ところが、これを発芽させればビタミンCが豊富なもやしになる」


 ビタミンを発見したのは各国の軍医の功績で、やはり軍隊という組織は集団生活をしているせいか食べ物が極端になりがちで、ビタミン欠乏症はほとんどの軍隊を悩ませた。


 日露戦争では米飯が主食だった日本軍の間で脚気が大流行し、それ以外の穀物ばかりを食べていたロシア軍では壊血病が大流行した。


 旅順攻防戦を指揮したステッセル中将は、203高地を落とされたことで、これ以上抵抗を続けても無意味であるから降参したと言われているが、実際には要塞内で大流行した壊血病のせいで、士気がガタ落ちしていたのが原因であったと言う。


 降参当時、要塞内にはまだ2万人以上のロシア兵が篭っていたのだが、その三分の二が壊血病にかかってどうしようもなかったのだそうだ。


 しかし、これにはおまけがあって、降参したロシアの兵隊が壊血病に苦しむ姿を見た日本の下士官たちは、一体彼らが何を食べていたのだろうかと興味をもった。そして倉庫を調べたところ、手付かずの大豆が山積みになってるのを発見した。


 歴史にもしもは無いが……もしもロシア兵の中に誰か一人でも、その大豆をもやしにしようと言うものが居たら、歴史は変わっていたかも知れない。彼らは大豆を発芽させれば、ビタミンCが得られることを知らなかったのだ。


「……と、こんな具合に、ビタミン欠乏症って病気が現実に存在するんです。先生の仰る通り、青い野菜や新鮮な果物を取らず肉ばかり食べてると、いずれ病気にかかっちゃいますよ。バランスの良い食事が大事なんですね」

「はあ……」


 軍医は感嘆の息を漏らした。気がつけば懐に忍ばせていたメモ帳を取り出し、目の前の男の言葉を殴るように書き入れていた。確か、青野菜の重要性を説いていたはずなのだが、いつの間に立場が逆転していたのだろうか。


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