痛し痒し
ガラデア平原会戦の圧勝劇から数日。鹵獲武器の臨検を終えると、カンディア公爵はビテュニアの使節団に対し、平原に転がった死体の回収を許可した。アナトリアとアスタクス方伯は未だ戦争中であったが、戦後処理の話し合いをどうこうするよりも、さっさと死体を片付けないと、腐敗してどうしようもない状況だったのだ。
使節団は公爵が味方の死体を無慈悲に焼き払わなかったことに礼を述べると、表情を固くしながら死体回収へと向かったが、その顔は蒼白だった。彼らがあまり人間の死体を見ることに慣れていないのは明白であり、平原に折り重なるように転がっている夥しい数の死体を前に、使節団の一人は引きつけを起こして卒倒する始末であった。
ガッリア大陸のリディアとは違い、ここエトルリア大陸では滅多に戦闘は起きなかったからだろう。
いや、仮にリディアであったとしてもその死体の数は尋常ではなかった。ガラテア平原に屍を晒した敵の数は優に5千を越えており、戦場跡は見渡す限り、死体の山で埋め尽くされていたのだ。
近現代の総力戦であるならばともかく、大昔の戦場では、まずこれほどの被害はあり得なかった。もちろん、大勢力同士がぶつかり合う大戦争ならば、結果的にこれ以上の死者を出すことはあったが、一度の会戦における戦場での死傷者に限定すれば、これはかなり破格のものである。
人間というものは意外としぶとい生き物で、腕を切り落とされようが足を切り落とされようが、その場ですぐには死なない。大概の場合は戦闘不能ということで後方へ送られ、治療を受けている間に絶命するものであり、戦場で屍を晒す人間というものは、実はそう多くはなかったのである。
また、古今東西、戦争で最も人間を殺した兵器とは、剣でも槍でも斧でもなく、間違いなく弓であり、昔の戦争での戦死者というものは、矢傷から入ったばい菌が原因で、破傷風などの感染症にかかって死ぬのが主だった。そしてこれは、戦争が終わって暫く経ってから死ぬわけだから、戦死者にカウントされなかった。
事実、17万人が東西に分かれて戦った関ヶ原の戦いでの戦死者数は両軍合わせて6千人程度であり、そのうちの1500人はあの捨て身戦法を行った島津軍であるから、実際にはもっと少ないはずだった。もちろん、故郷に帰った西軍の兵士の中には、その時の傷が原因で死んだ者がもっと多く居たかも知れない。だが、こと戦場に限定してしまえば、案外こんなものだったのだ。
兵士と言ったって、平時はみんな農家をやってるわけであるし、命の掛かった戦場で負けそうになったら、人間、逃げるのが普通なので、そりゃ当たり前の話である。
従って、3万の軍勢のうちの5千、割合にして2割弱もの人間が、たった一度の会戦で、短期間のうちに命を落としたという事実は、世界にとってもショッキングな出来事であり、おまけにその死体の少なからぬ数が部位破損を受けたり、グチャグチャに潰されていたりする光景は悪夢としか思えず、これを引き起こしたアナトリア軍に対する恐怖と、敗れた方伯に対する失望とで、世界は大いに揺れていた。
特に国境に問題を抱える領主達は、アスタクス方伯を見限り、隣国に鞍替えするか、場合によってはアナトリアに臣従するのも悪く無いと考えるようになっていた。
カンディア公爵ウルフ・ゲーリックは、フリジアを占拠しても街へは留まらず、郊外に野営陣地を構築して駐屯した。これは街への被害を避けるためのものであり、公爵は戦闘が終わると、意外にも街の通行の自由を保証した。
今回、アナトリア軍がフリジアを急襲したのは、海賊を懲らしめるのが目的であり、フリジアを占領するつもりは無いということを、内外にアピールする狙いがあった。
カンディア公爵とアスタクス方伯がぶつかったのは、本音を言えば、アスタクスの度重なる挑発が原因であったが、気に食わないから戦争を起こすというわけにはいかない。戦争には大義名分が必要であり、これを欠いては世界を敵に回すことになってしまうからだ。
そこで、アナトリアが王国時代から、絶えずイオニア海の海賊によって国益を損ねていたことを利用し、これを牛耳っている犯人を突き止めると言う名目で、カンディアはフリジアを急襲したわけである。
そして海賊を追っている内に、そのパトロンがどうやらアスタクス地方の貴族の中にも居ると判明し、これをとっ捕まえて賠償金をふんだくろうと言うのが最大の目的で、街を占領しようという気はないのだと、カンディア公爵は世に示したのである。
もちろん、それだって建前で、現実にはこうしてアスタクス方伯との会戦を経て、軍隊を街の近くへ駐屯し、実質フリジアを支配下に置いたわけであるが……実効支配を続けようにも、そもそもの大義名分がフリジアではなく海賊討伐にあることから、戦後処理が終わるまで街に入っては、道理が通らず都合が悪かったのである。
公爵はアスタクスの使節団を見送ると駐屯地からその動きを監視した。双眼鏡を覗きこめば、数百メートル先の人間の表情までもが、はっきりと見えた。
使節団は夥しい数の死体を前に、どこから手を付けて良いのか茫然自失の体を暫く続けていたが、やがて気を取り直すと、連れてきた人足に指示をして、荷車に死体を一体ずつ運び入れていった。しかし、その様子を見ていると、運びこむ死体は厳選されているようで、どうやら全ての犠牲者を弔うことはさっさと諦めて、有力者のみを回収するつもりのようであった。
それをある程度予想をしていた公爵は、低く唸り声を上げた後、ため息をつき双眼鏡を置いて腰を下ろした。数が多くて手がつけられないのは確かであろうが、自国民を敵地で屍を晒したままで捨て置けるのは、方伯が恐らく、農民兵などはただの捨て駒であると見做しているからであろう。
別にそれが可哀想だとか人道にもとるとか言いたいわけではない。
アナトリア軍は追撃戦で数多くの敵兵を捕虜にしたのだが、この様子を見る限り、この時に捕まえた殆どの捕虜は、交渉材料にはならないというわけだ。
それなのに捕虜を殺せばアナトリア軍の悪評に繋がるだろうし、簡単に解放しては敵を利することになる。圧勝したはいいが、痛し痒しといったところか、公爵は状況を持て余していた。
尤も、予想していただけあって、その場合の対応策は考えてはいた。考えていたというか、もしそうなった場合はそうしてくれと要請を受けていた。誰にかと言えば、但馬波瑠なのであるが、そうすると彼は戦が始まる前から、ずっとこの状況を想定して動いていたことになる。
あれは本当に未来でも見えているのであろうか……そう思いながら、公爵がテントで作った簡易執務室の椅子に腰掛けようとすると、来客を告げる呼び鈴が鳴らされた。彼は座ろうとした体勢を元に戻して、立ったままそれを迎えた。
「お忙しいところ失礼します、閣下、今日は出立のご挨拶に参りました。我が傭兵団はこれより本国に帰還いたします。契約の履行をご確認いただけますでしょうか」
テントの内幕を開けて入ってきたのは、真っ白な軍服に身を包んだエリザベス・シャーロット、勇者の娘であった。彼女はメディア戦争終結後、但馬波瑠率いるS&Hに拾われ、亜人兵を率いる傭兵長になった。そして今回の戦役に参陣していたのだが、戦局が勝勢に傾いたのを見て契約を完遂したと判断し、国に帰還するために挨拶にきたようだった。
亜人兵はアナトリア軍の所属ではなく、金で雇われた傭兵団だったのだ。
しかし、公爵は彼女のセリフに首を振るうと、
「そうか……いや、もう暫く待ってくれ。どうやら、後方に捕虜を送ることになりそうだ。その際の監督をお願いしたい」
「おや、たった今、使者が参ったばかりだと聞きましたが……もうそのような話までお決まりになったのでございますか?」
「いいや、だがあの様子では、二束三文も期待できまい。恐らくは、貴女がたの主人の予言したとおりになるだろう」
「社長のですか……ならば仕方ありませんね。別料金でございますよ?」
「ああ、分かっているさ。それからリーゼロッテ殿、鹵獲武器に聖遺物がいくつか上がってるそうだ。真偽を確かめてくれないか」
「御意に」
そう言うと彼女は優雅に騎士らしくお辞儀して退室していった。こういった芝居がかった仕草がやけに絵になる女性だったが、妹曰く、見た目と違って案外ちゃらんぽらんな人であるらしい。
もっとも、その実力は折り紙つきで、一騎当千とはまさにこのことと言わんばかりのものである。今回の別働隊を率いた手腕と言い、勇者の娘という箔といい、世界中のどの諸侯も欲しがるような逸材であったが、だが今は一個人の私兵である。
公爵がその背中を見送っていると、入れ替わりに叔父である参謀長マーセルが執務室のテントに入ってきた。
彼は通りすがりのリーゼロッテに敬礼をすると、愛好を崩して笑顔を見せた。
「いやあ、勝った勝った。完勝だな、ウルフよ。この戦は歴史に残るぞ」
公爵は肩をすくめて言った。
「マーセル叔父よ。一応、俺はもう公爵で、あなたの上官だぞ。誰が見てるかわからない場所では、口を慎んでくれ」
「堅いこと言うなよ。おまえなんて義兄のオチンチンの中に居たころから知ってるんだぜ? ハイハイしてるおまえのオシメをとっかえてやったのも俺なんだ。俺からしてみれば、まだまだ小さな子どもさ」
下品な物言いをしつつ、マーセルが豪快に笑う。公爵がムスッと不機嫌な顔をしていようがお構いなしである。こういう男には何を言っても無駄だろうとため息をつくと、公爵は続けた。
「何はともあれ、勝てたことは本当に良かった。叔父にはかなり無茶をさせたな」
「おう、あの奇襲な。あれは痛快だったな。まさか精鋭に少数で正面から挑んで勝てだなんて、初めて作戦を聞いた時は死ねと言われてるのかと思ったが、マスケット銃とやらの威力は本当に凄い」
アナトリア軍にマスケット銃が正式に採用されてから初めての戦闘が、今回のフリジア戦役であった。しかし、この銃も満を持して採用されたというわけでもない。その威力は試射を何度もやって知っては居たが、実際に運用するに当たっては半信半疑であった。
と言うのも、マスケット銃は威力はともかく命中精度が悪すぎるからだ。いくら強くても当たらない武器に用はないと一度は採用を見送られかけたのであるが、それを運用面から作戦まで込みで但馬が売り込んできた。
彼が言うには、これは弓や砲のような射程武器ではなく、槍のような近接武器だという。接近戦で運用するのが本筋で、遠距離での射撃が当たらないのは当たり前のことなのだ。だから馬の突撃を想定して、先端に刃がくっついているのだし……
言われてみれば確かに、そういう武器であったかと納得がいったマーセルが、模擬戦で木の的を目標に中隊で使用してみたところ、かなりの手応えを感じ、そんな彼の後押しもあって正式採用に至ったという経緯があった。
そのため、マスケット銃の練度が最も高いのがマーセルの手勢であり、大将という立場でありながら少数を率いて彼が別働隊で奇襲を敢行したわけであるが……
「面白いように決まったな。あんな薄い隊列でまともにぶつかり合って大丈夫かと思ったが、正面火力を最大にするという考え方は気に入った。この戦法は時代を変えるぞー、これからは銃の時代だ。はっはっは!」
そう言うとマーセルは自分の愛銃を嬉しそうに撫で回した。
彼は銃が正式採用されると、まるで玩具を与えられた子供みたいに、その解体から組み立て、掃除を繰り返し覚え、装填の訓練をし、誰よりもいち早く使いこなした。噂では夜寝る時も一緒だと言う。奇襲部隊を引き受けるにはうってつけの人物だったのである。
マーセルはにやりと笑うと、
「なんにせよ、武器の考案といい、その使い方といい、あの兄ちゃんが居なければここまでの戦果は上げられなかったろう。軍事においても天才かね。つくづく味方で居てくれて良かったと思うぜ」
と言って、彼はギラギラとした瞳を見せた。本音は、どうせなら敵として戦いたかったと言わんばかりである。
血の気が多いのは結構だが、下手な挑発などしないでくれよと釘を刺そうかと思ったが、公爵が口を開きかけたところで、また外から呼び鈴が鳴った。戦闘は終わったとは言え、流石に敵地であるからゆっくりはさせて貰えないようだ。
入室を許可すると入ってきたのは軍医であり、彼はその場にマーセルを見つけると、軽く敬礼してから、改めて公爵に向き直って報告を開始した。
「ご報告します。総司令官殿に言われたとおりに、本日は軍隊の健康診断を行いましたが、極めて良好ですな。血色も良く、国にいる時より健康なくらいです。強いて不満を申し上げるならば、飯が美味すぎて国に帰りたがらない兵が多いことですかな」
「そうか」
「軍隊の飯のほうが美味いとは、まったくアベコベな話です」
「画期的なことだ。兵站と言ったか、後方を含めた物流を意識することが、これほど重要なことだとは思いもよらなかった」
アナトリア軍が採用したのは、マスケット銃と戦列歩兵戦術だけではなかった。他にも、食料を工場で大量生産し、フリーズドライを用いた携行糧食にして、その運搬や調達をS&H社に任せていた。
これのお陰で軍隊に随行する大規模な行李(食料基地)が必要なくなり、携行糧食のその軽さは進軍の際に役だった。以前は食料を10日分も持ったら兵隊は身動きが取れなくなったが、今なら20日分持ったところで、へっちゃら平気で駆ける事が出来るのだ。
そして速度が力であることは言うまでもない。
どんな大軍も、戦う準備が整っていないところを狙われては脆いものである。それは亜人兵を中心とする後方撹乱部隊が示した。
「公爵様も、但馬様には頭が上がりませんな」
「……まあな。癪ではあるがな……そう言えば、貴様はリディアから参陣したんだったな。最近、あれはどうしてるんだ。妹との仲は進展しているのか」
「ふむ……殿下との仲がどうなのかは、私には測りかねますが……准男爵は息災といえば息災ですが、少々お元気が無いご様子」
「ほう……?」
「半年ほど前、薬草摘みに出掛けた折に偶然お見かけしたのですが、まるで病人のように血色が悪く青白い顔をしておりました。そのため、よく食べ、ちゃんと眠るように小言をいったのですが、逆に栄養学についてこんこんと教授されてしまいましたよ」
公爵はくすりと笑いを漏らした。但馬は一見、馬鹿っぽく忙しなく見えるが、実際に話しをしてみれば理屈っぽく、知識が豊富で落ち着いていることから、気がつけば淡々と言い負かされてしまう。
軍医も差し詰めそれ式に、彼が知らないことを連々と述べ立てられて、いつの間にか説教をするつもりが、メモを取りながら逆に質問攻めすることになっていたそうである。
「そうそう……その時に、色々と薬草の話もしたのですが、准男爵はそうこうしている内に何かに気づいたご様子で、別れた後しばらくして、駐屯地に新しい薬を作ったからと、見慣れぬ薬を持って来ました。これが破傷風に効く薬だとおっしゃっておりまして……」
「なんだと? それはまことか!?」
それまで黙って話を聞いていたマーセル大将が声を荒げた。彼は前線で指揮している期間が長かったから、破傷風という病気を誰よりも良く知っていた。
破傷風の死亡率は50%にものぼり、現代日本のような治療体制の整った先進国であっても10%を越える。この世界のように、細菌やウイルスなどに無防備な世界では、かかったらほぼ死ぬ不治の病と言って過言ではない。
破傷風は創傷から破傷風菌が侵入し感染するが、潜伏期間が3日~3週間ほどあり、仮に矢傷が塞がった後だったとしても関係なく、発症したら神経に作用し、呼吸困難を起こしたり筋肉が痙攣したりして、死ぬまでもがき苦しむことになる。こうなるともう為す術もなく、患者が死ぬのをただ黙って見ている他無いのだ。
「もしもそれが本当だとしたら、凄いことだぞ? で、どうなんだ、軍医殿」
「はい。敵軍捕虜で重篤な者がおりましたので投与して見ましたところ、確かに、改善の兆しが見られます。予後経過を見なければまだ分かりませんが、しかし、准男爵のこれまでの実績から、恐らくは間違いないかと」
「こうしちゃ居られん。俺も見に行こう。軍医殿、どこへ行けばいい?」
「街の最寄りに建てた仮設テントに。公爵に言われた通り、街の病人の世話もしております故」
「なんだ、そんなあざといこともしてたのか。人気取りも大変だな」
マーセルは失礼千万な物言いをすると、適当に挨拶を済ませてさっさとテントから出て行った。公爵は渋面を作り、軍人のくせに上下関係を軽んじてどうするのだと、呆れながらそれを見送ると、
「……軍医よ。そんなに凄いことなのか?」
「はい。こんなことが出来る者は、私はあと神様しか知りません」
その言葉に公爵は妙に得心が言ったという感じにうんうんと頷くと、だったら自分も後学のために見学しておこうとテントを出た。
軍医はその後ろに付き従いながら思い出していた。
このように、数々の奇跡を成し遂げておきながらも、当の本人である但馬は何かに追い詰められているかのような、妙な緊迫感をまとわりつかせていた。リディアで最後に見かけたときの彼は、まるで死人のようであり、もし自分が彼の主治医であったとするなら、到底放ってはおけない状況だったのだが……
フリジアの海岸線から対岸は見えない。この空の向こうにあるリディアで、彼は今ごろ何をしているのだろうか。やはり無理矢理にでも滋味のあるものでも食べさせてやればよかったと後悔しつつ、軍医は先を進む公爵の後を追った。