ガラデア平原会戦
フリジア戦役におけるアナトリア軍の勝因を一つだけ挙げるとするならば、それは常備軍であったという一言に尽きる。この世界において、国軍を常備しているのはほぼアナトリア一国のみであり、これが意味するところを世界が知るのは、その矛によりアスタクス方伯率いるエトルリア諸侯軍が打ち砕かれた後だった。
以前にも一度触れたことがあるが、中世の封建社会において、領主は必ずしも軍隊を所有していたとは限らなかった。寧ろ、常備軍を保有していることのほうが稀だった。理由は単純明快であり、金が掛かるからということ以外に無い。
元来、封建社会というものは、蛮族や異教徒の侵入に対して戦った戦士階級に土地を与える、いわゆる封土をしていって生まれた社会であったが、暗黒時代が終わると、平時の領主にとって戦争というものは、一生の内にせいぜい1度か2度参加する程度のものでしかなくなった。
たまに勃るその戦争自体も、基本的にはそう何年も続くものではなく、大概の場合一度の決戦によって勝敗が着き、場合によっては一度も戦場へ赴くこともなく平和の内に一生を終える領主だっていたであろう。そんな平時の領主にとって、軍隊というものはただの金食い虫でしかなく、彼らは軍隊を持て余し始めた。
西ローマ帝国が崩壊してから数百年。暗黒時代が終わり、ようやくヨーロッパも落ち着きを取り戻してくると、そんなわけで貴族階級は領地経営のためにまず軍隊を手放した。戦乱時には、軍隊の給金は他国から奪えば良かったのだが、平時に軍隊を養えるだけの経済力がまだ彼らには無かったのだ。
しかし軍隊が無ければ領地が危険に晒される。彼らは一体どうしたのか。
封土された領主は土地を守るための城を作ったが、城というものは要塞であり、この要塞はそう簡単に落ちるものではなく、最低限の人員でも守るだけならばそこそこ戦えた。
彼らは石造りの頑丈な城を構築し、あとはそうして守っている間に援軍を呼んだり、金で雇った傭兵に戦わせたりすれば、常備軍がなくても外敵の侵入に対応できたのである。
かくして、かつて戦士階級であった領主たちは、皮肉にも武力を手放すことで生き残っていった。大国に臣従するか、有力な商人をパトロンにつけた者だけが、国を維持できたのである。
ところで、こうなってくると国家を運営するのに目に見えて重要な物が何かがわかってくる。国を守るためにも、他国を攻めるためにも、国は軍隊を雇用するために先立つものが必要であり、金=国力と言う考え方が生まれるのも自然の成り行きだったろう。
現に、イタリアのジェノバやヴェネチア、フィレンツェなどには商人国家が生まれ、トスカーナ大公メディチ家は、ルネッサンスを支えた重要な貴族として後世に名を残しているほどだ。
そんな16世紀半ば、プロテスタント運動が盛んになって来たネーデルラント(オランダ)は、主家であるスペイン・ハプスブルク家からの独立を目指して反乱を起こした。
この反乱は失敗に終わり、首謀者であったオラニエ公はフランスに逃亡するのだが、彼はそれにもめげず、逃亡先でありったけの海賊に声をかけると、『海の乞食団』を組織し、スペインに対して大々的な通商破壊作戦を行った。要するにスペインの商船を襲いまくったわけである。
この作戦によってバルト海の交易路を絶たれたスペイン王フェリペ2世は、二度も破産の憂き目に遭い、その影響で結果的にネーデルラントの独立を許してしまう。オラニエ公は通商破壊により、間接的にスペイン軍を傷めつけることに成功したのだ。
しかし独立を果たしたまではいいが、ネーデルラントはスペインに比べて遥かに小国。国境のすぐ向こう側にはフランスと神聖ローマ帝国があって、領土拡張を虎視眈々と狙っている。いつ侵攻を受けてもおかしくない状況であった。おまけに、当てにしていたイングランドの後ろ盾も断られてしまい、建国したばかりのネーデルラントは独力で当時最強を誇ったスペイン・ポルトガル同君連合を相手にしなくてはならなくなった。
こうなると取れる手段はただ一つ、通商破壊のみであり、彼らはかの有名な東インド会社を設立すると、ポルトガルのインド航路を邪魔すべく船団を組織し、香辛料貿易を奪取するためにインド洋に海賊を派遣した。
全力で兵を送られたら到底敵わない。だからとにかく、ネーデルラントに派遣する兵隊を少しでも減らせるように、相手の交易路を妨害しまくったわけである。
面白いことに、これがハマった。
インド航路を奪われたスペイン・ポルトガル軍はかつての勢いを無くし、逆にこの通商妨害によってオランダは大いに潤い、ついには世界の海に覇権を唱え、黄金期を迎えることになる。
スペインとの戦争はその後、80年間に渡って続いたが、オランダは彼らから奪った交易路から得た収入によって強力な軍隊を常備することが出来、そしてついには、スペインからの完全なる独立を勝ち取るのだった。
その後も全ヨーロッパを巻き込んだ30年戦争、イギリスとの3度に渡る英蘭戦争、フランスによる侵略を受けつつも、独立を保ち続けられたのは、ひとえにオランダに武装した常備軍を抱え続けられるだけの経済力があったお陰である。
これを見ていたイギリス・フランスの両国は、隣国の発展に脅威を覚え、国家の繁栄とは、即ち国富を蓄えることであるという経済思想を獲得するに至る。
これがいわゆる重商主義と呼ばれる考え方であり、この考え方が生まれると、戦争はただがむしゃらに武力を衝突させるものではなく、経済活動の優劣をも交えた、より政治的な思想のぶつかり合いへと変わっていった。
さて、少々話が脱線したが、何故、常備軍と言うだけでオランダ軍はそんなに強かったのだろうか?
それは簡単に言ってしまえば、塹壕堀りと訓練が出来ることにあった。
これまでに述べてきた通り、封建社会のヨーロッパ各国の軍隊は傭兵が中心であり、あとは戦時に臨時徴兵される、訓練されていない民兵が主だった。従って、大軍を組織すればするほど連携が失われて、軍隊運用が難しくなっていったわけである。
おまけに、傭兵は武勲を上げる内に、長い年月を経て徐々に貴族化し、プライドがあるために雇用主の言うことをすべて聞くわけではなくなっていた。傭兵団同士のしがらみもあって、彼らは時に雇用主の意に反して独自に戦い、訓練もしなかった。塹壕掘りなどという、煩わしくて、とても優雅とは言えない行いなど以ての外である。
逆にオランダ軍は平時には訓練を積んで、カウンターマーチという釣瓶撃ち戦術を生み出し、塹壕掘りで要塞をより強固なものへと変えていた。これによってオランダ軍は数以上に強力になっており、大国スペインであっても歯が立たなくなっていたのだ。
こうして常備軍の強さをまざまざと見せつけられた欧州各国は、自国の経済政策を見なおして、常設軍隊を保有するようになっていく。兵を養えない小国は淘汰され、国王は臣下に兵力ではなく、金銭を要求するようになり、それが後の官僚制へ続いていくのだ。
何もない海岸でぼんやりと佇んでいた但馬波瑠が訪れたリディアという国は、何の因果か同じ名前を持つ勇者の手によって軍隊組織が整えられており、時代で言えばまさにこの重商主義社会への過渡期にあった。
国民は徴兵によって訓練されており、常時1万を越える軍隊を保有し、それはイオニア海交易で経済的に支えられていた。
対岸で未だに封建社会を続けていたエトルリア諸侯は気づいていなかったが、実はこの時点でリディア軍は世界最強であり、ただ数を揃えただけの軍隊では、到底太刀打ち出来無くなっていたのだ。
それにしてもフリジア戦役でぶつかった両陣営の戦力比は10対1であり、尋常の勝負であれば、リディア軍改め帝制アナトリア軍に勝ち目はなかった。それを互角以上の結果に足らしめたのは、言うまでもなく、但馬波瑠の興したS&H社の存在があったからに違いない。
彼の登場によりアナトリア軍は弓と槍で戦う古式ゆかしい戦法から、銃を主力とした中近代の戦術へとシフトしており、その強さは精強無比を誇った。更にはメディア戦争終結後、行き場を失った亜人傭兵団の存在もあり、イオニア海を挟んだ両岸は、知らず知らずの内に兵の質が段違いになっていたのだ。
帝制アナトリア歴2年。イオニア海の海賊を駆逐し、これをフリジア港へ追い詰めたカンディア公爵ウルフ・ゲーリックはフリジア子爵ユースフに開港を迫った。
海賊を匿うのであれば容赦はしないの最後通告を前に、為す術のない子爵は主君アスタクス方伯に援軍を要請する。
要請を受けた方伯は満を持して援軍を派遣した。元々、カンディア占領に対し警戒心と嫌悪感を抱いていた彼は、陸上戦力での決戦を望んでおり、今回の騒動は渡りに船だったのである。
カンディア公爵はフリジア周辺に、方伯率いる3万の軍勢が現れるのを見るや、フリジアに要求を受諾する意思なしと判断。その日の内に帝国旗艦ヴィクトリアの艦砲射撃をもって、港を制圧する。
フリジア子爵は手勢を連れて逃走、方伯軍と合流すると本陣に入った。
港湾都市は2重の防壁に囲まれて要塞化されているため、カンディア公爵は当然籠城を選択するだろうと判断した方伯は、当初街を取り囲むように布陣すると、配下であるアスタクス地方の諸侯に激を飛ばした。
諸侯はカンディア陥落以来、これは対岸の火事ではないと危機感を覚えていたため、即座に応答した。そして広大な平原のあちこちから、合計にして10万を越える軍勢が、ここフリジアを目指して進軍を開始したのである。
海上では確かにアナトリア軍は最強であったが、陸上では決して負けはしないという、自信の表れを内外に示す狙いが方伯にはあった。10万の兵力を集める算段がつくと、彼はカンディア公爵側にフリジアからの退去を要求する使者を送った。
戦力比は10倍、フリジア郊外にはすでに方伯率いる3万の軍勢が布陣しており、アナトリアに打つ手はないかと思われた。
しかし、事態は全く予期しない方向へと動き出した。てっきり籠城すると思われたアナトリア軍が、要求を拒否し、それどころかあっさりとフリジアを開城して、広い平原へと打って出てきたのである。
先陣を切ったのは騎馬に跨った白装束の亜人兵であり、その異様な姿に気圧されている内に、続いて出てきたのは見たこともない兵器、銃剣を担いだ歩兵の隊列であった。萌黄色の揃いの軍服を来た彼らは、馬に引かれた野戦砲を従えて悠々と行軍し、旗持ちと鼓笛隊がそれを優雅に先導して平原へと躍り出てくる。
そして、一糸乱れぬ動きで二列に横隊を組んだ彼らは、フリジアを取り囲むように布陣していた方伯軍を、逆に包囲するかのように薄く長く戦列を展開し始めるのであった。
呆気に取られた方伯は、それを見て川向うへの撤退を決意した。アナトリア軍の自信が何にあるのかが理解できず、とにかく野戦砲の射程外へは出たほうがいいという判断であったが……しかし、すでに三倍の兵力で取り囲んでいたはずの方伯軍が、数で劣るアナトリア軍から逃げるように撤退をすると言うのは、随分弱気であると非難されることになった。
見たところアナトリア軍は揃いの軍服を着ていたが、それはただの迷彩色の布であり、鎖帷子や板金鎧で身を固めた方伯軍とは違って、明らかに無防備だったのだ。どうしてこれを叩かないのか? と言う声が出るのは当然だ。
しかし、後になって思い返して見れば、これはフリジア戦役で方伯が取った数々の決断の中で、唯一と言っていい正解であった。格好はどうあれ、最大の兵力が整うまでじっと耐え忍び、全力を持って挑むのが、この戦役で方伯がとり得た最高の戦術だったに違いない。
ともあれ、野戦砲を警戒して川向こうへ撤退したアスタクス方伯軍は、川を挟んでアナトリア軍と睨み合う格好となった。両軍ともに渡河攻撃を仕掛けるにはリスクが伴い、戦況は膠着状態に陥った。方伯は、後は増援の到着を待ってから、改めて攻勢に転じれば良いと考えていた。
フリジアを含むエトルリア低地帯はガラデア平原と呼ばれ、数百キロ四方にも及ぶ広大な穀倉地帯が延々と広がっていた。平原の中央にはフラート川、イディグナ川と呼ばれる長大な川が流れ、この肥沃な土地を潤していた。
この二つの川はフリジアの北、およそ30キロ付近で合流してからイオニア海まで流れていき、その河口は三角州に広がって天然の良港になっていた。
アスタクス方伯の治めるビテュニアという国はこの二つの川が交わる辺りにあり、各地からやって来る増援はここで一旦合流してから、川沿いに南下してアナトリア軍を包囲する予定だった。
アナトリア軍は川を挟んで方伯軍と睨み合っている最中、斥候を走らせてその動きを察知すると、軍団を分けて、その一つを牽制のために北へと差し向けた。
ただでさえ数で劣る兵力を更に分けるという動きには驚いたが、たった2千の別働隊で、北に集う最大7万もの軍勢に何が出来るものかと、方伯はこの動きを大して気に留めず、後方に少数が向かったとだけ援軍に知らせ、後は忘れてしまった。
確かに、その軍隊がいくら優秀であったとしても、7万の軍勢に2千で対抗できるわけがなく、取るに足らない牽制に過ぎないと考えたのも致し方なかったろう。しかし、7万と言えど、2千相手に待ち構えているのならばともかく、完全に油断しきっているのならば話は変わる。
別働隊がビテュニアへ向かったとの知らせを受け取った後方の指揮官は驚愕した。
その別働隊がすでに目の前まで迫ってきていたからである。しかし、どうしてもっと早く知らせてくれなかったのだと恨んでも仕方ない、何しろ彼らは一日に30キロを駆ける軍隊なんてものを、想像することが出来なかったのである。
以前にも述べたことがあるが、中世の軍隊はその全てが戦闘要員ではなかった。板金鎧に身を包んだ騎士には従者が必要であり、貴族である彼らを世話する使用人も必要だった。それだけの人数を食べさせるための食料が必要だったし、馬には飼葉が必要だった。
騎士以外に集められた兵隊は、その殆どが平時にはただの農民であり、訓練もされていなければ、隙あらば逃げ出そうと考えていた。
そんな数千人にも及ぶ集団がまともに行軍出来るわけも無く、中世代の軍隊の行軍は、冗談抜きで日に5キロも進めれば御の字といった程度のものだったらしい。
つまり7万の軍勢と一口に言っても、ビテュニアへ向かう諸侯の援軍もそれ式に遅々として進まない軍勢であり、各地からバラバラにやってきた軍隊が、自分勝手に街道で交通渋滞を起こしながら、のんびりと目的地まで歩いている最中だったのである。
移動中の軍隊は大概弱い。そんな集団の前に、2000の統制の取れた敵が突如として現れた。知らせをまだ受け取っていなかった彼らは戸惑いながらも応戦したが、指揮の取れていない少勢の集まりなど、各個撃破の良い的に過ぎなかった。
エリザベス・シャーロット率いる2000は、精強無比な亜人騎兵500を中心に、銃剣で武装した歩兵と共に、移動のために間延びしきった敵軍の分断に成功した。
わけもわからず側面からいきなり襲いかかられた彼らは、見たこともない兵器で一方的に隊列を食い破られた。合流前の軍隊は指揮系統が一本化されておらず、何とか応戦しようとしても、バラバラに攻めていっては、ただでさえ強い亜人兵と新兵器の前に為す術がなく、散々に打ち負かされることとなった。
急いで目的地のビテュニアへ逃げ込もうとも、それまで経験したこともない大軍勢の移動であったために大混乱が生じ、応戦しようと逆走する者と逃げようと慌てふためく者とで渋滞を起こし、あちこちで将棋倒しが起こる始末であった。
そして、背後に迫るアナトリア軍の恐怖に怯え、終いには戦意を喪失した農民兵が、次から次へと脱走し、四方八方へと逃げ去っていくのだった。
この別働隊の奇襲によって、方伯軍の増援部隊は当初の予定を大幅に遅滞させられることとなる。予定していた人員は大きく割り込み、逃げた農民兵を再結集し、指揮系統を回復させるために混乱が収まるのをただ待つより他なくなってしまったのである。
後方に別働隊が向かったと早馬を走らせた方伯は、その翌夕に帰ってきた伝令から知らせを受け取ると、あまりの出来事に目眩を起こした。
昨日見逃したばかりの敵軍が、どうして今日30キロも離れた自分の領地で好き放題暴れているのだろうか。その行軍速度といい、長距離を移動して尚も戦闘を続けられる持久力といい、余りに想定外過ぎて恨み言の一つも出ない。
想定外なのは援軍のだらしなさもだった。数だけは立派だが、たった2000に好き勝手にされるようなものが果たして役に立つのだろうか……
知らせを聞いた方伯の軍は意気消沈し、士気はだだ下がり、どうしようもない状態に陥っていた。
方伯はその晩、眠れない夜を過ごした。もしも、この闇に乗じてアナトリア軍が自分の領地に向かったとしたら、それを止めるすべがない。追いかけても、追いついた時には、ビテュニアは落とされているのではないだろうか……
果たしてその悪夢は実現することは無かったが、代わりに翌朝、別の動きがあった。アナトリア軍は更に別働隊を分け、闇夜に乗じて渡河を行っていたのである。
アナトリア軍マーセル大将は軍勢1千を率いると、敵軍の最右翼の更に外側へ回りこんだ。夜の内に渡河を終えたマーセル軍団は、そして翌朝、日が昇るや前進を開始した。
それにしても異様な光景であった。前進を開始した歩兵を先導していたのは、太鼓と楽器で優雅に演奏をする鼓笛隊で、その両翼に旗持ちが続く。歩兵はその音楽に合わせて一糸乱れぬ動きで追随し、背後には土塁で簡単な野戦築城を行った砲撃陣地が見える。
砲撃は方伯軍の手前まで届き、柔らかい土の地面を抉っては、盛大に炸裂音を発していた。その中に突っ込むのは無謀にも思えたが、最右翼には精鋭が集まっており、ここが落とされるようでは話にならず、方伯軍もこれに応じ、いよいよ戦闘の火蓋が切って落とされることとなる。
こうして始まったガラデア平原会戦は、しかし、あっという間に幕を閉じる。
アスタクス方伯軍最右翼は1列16人、200列の槍兵による密集陣形3200、対するマーセル軍団は1列3人、300列の戦列歩兵900と砲5門、計1000人。
正面戦力はマーセル軍団の方が多かったが、数の上では方伯軍が三倍上回っており、まともにぶつかっても勝ち目はないはずだった。しかし、もちろんそうはならない。
両陣営は互いに前進しあい、徐々にその距離を縮めていったが、およそ50メートルほどの距離にまで近づいた段階でアナトリア軍は足を止め、一斉射撃を行った。
その瞬間、方伯軍最前列の数人が血しぶきを上げて倒れたのであるが、見たこともない兵器で、何をされたのかいまいちよく分かっていない方伯軍は、そのまま前進を続け、第二射を受ける頃には30メートルほどの距離にまで詰め寄っており、そしてそれは悲劇を産んだ。
マスケット銃による一斉射撃は、有効射程50メートルと言われているが、実際にはその距離にまで近づいても殆ど当たらなかった。ライフリングの施されていない銃から放たれる弾丸は、丁度サッカーの無回転シュートのようなもので、どこへ飛んで行くか撃った本人にさえ分からず、これに当たるのはよっぽど運の悪い人物でしかなかったのだ。
しかしそれも30、20、10メートルと距離が近づくにつれて話は変わってくる。流石に至近距離で撃たれては、下手な鉄砲でも当たってしまう。
そしてこの弾丸の威力は非常にくせ者であり、矢を通さない板金鎧を着ていていようが、盾で身を覆い隠そうが無意味であり、おまけに体のどこに当たったとしても、それが致命傷になるのだ。
至近距離で一斉射撃を受けた方伯軍は、前列の兵がバタバタと倒れたせいでバランスを崩し、その進軍が止まった。槍がぶつかる前に人が血しぶきを上げて死んでいく様は、戦闘のプロである傭兵軍団であっても初めて見る光景であり、司令官の掛け声と共に硝煙が上がる敵軍の戦列を前に、方伯軍の最右翼は色めきだった。
更に、そこへ待ってましたとばかりに後方から野戦砲による一撃が放たれると、悲惨を通り越して地獄絵図が展開された。
槍兵を主体に、ハリネズミのように槍を突き立てて進んでいた方伯軍の密集陣形は、野戦砲の目標として格好の的であり、打ち込まれた散弾は陣形の中心目掛けて広範囲に散らばり、運悪くその破片に当たった槍兵は、体の部位ごと吹き飛ばされて絶命した。
砲は一度撃つと5分間の冷却期間が必要だったが、マーセルは5門の砲を1分ずつ、間断なく射撃を続け、戦列歩兵の一斉射撃と合わせて敵軍に痛打を浴びせ続けた。
方伯軍は、アナトリアの新兵器の威力を身をもって知った時にはすでに手遅れで、前進した精鋭部隊の殆どが失われていた。ようやく正面からの攻撃は愚策であると気づき、撤退を開始しても、その射程外へ逃れられた時には、当初の兵力の半数以上がモノ言わぬ屍と化していた。
最右翼を食い破られた方伯軍は動揺した。マーセル軍団は川の上流に位置しており、これを叩かねば、退路を絶たれる恐れがあった。しかし、精鋭が破られ、仮に全軍で当たろうにも練度の低さがそれをさせてくれない。騎兵突撃を行おうにも、馬が鉄砲の音に動揺して言うことを聞かない。方伯軍の兵隊は、マーセル軍団のように一糸乱れぬ行軍が出来るほどには訓練されておらず、指揮系統も中央に集中しすぎていたせいで、大軍らしく鈍くさかったのだ。
おまけに、最右翼が激突したのを確認するや否や、川向うのアナトリア本隊が動き始めた。カンディア公爵ウルフ・ゲーリック本隊は、敵軍の左翼に回りこむように下流に渡河陣地を構築し、砲兵による援護射撃を受けながら渡河を開始した。
方伯は全軍を持ってマーセル軍団を駆逐するか、この渡河を妨害するかの決断を迫られた。しかし、そのどちらも行うことが出来なかった。軍隊の練度が低かったこともさることながら、仮にどちらかに当たろうとすると、もう片方に背後を見せることになる。方伯は敵に背中を見せることが怖かったのだ。
かと言って練度の低さから軍を分けて両方に当たることも出来ず、結果的に方伯は身が竦んだ小動物のように、軍隊を密集して固めてしまった。左翼に回りこんだ敵正面に対応すべく、隊列をくの字に曲げて応急処置し、右翼は敵に近づかせないように弓を前面に出して曲射を行った。
その結果、右翼の接近は止まったが、代わりに方伯軍全軍は円陣のように丸く固まってしまい、言うまでもなく、それは砲兵の的になった。
アナトリア軍本隊は渡河を終えると、いびつな形で丸まった方伯軍を囲むように戦列を薄く伸ばし、半包囲を行った。そして川向うに残り援護射撃を行っていた砲兵の渡河を待ってから、前進を開始した。
あとは言うまでもないだろう。
数で劣ったアナトリア軍は、しかしマスケット銃の特徴を活かした薄く長く伸ばした陣形で、4倍する敵軍を逆に包み込むと、半包囲射撃を行いつつ前進を開始した。包囲を徐々に狭めつつ、三方向から射撃を受けた方伯軍は進むことも退くことも出来ず、左翼に痛打を受けることとなった。
やがて、十分な距離にまで近づいた砲兵が射撃を開始すると、もはや方伯軍左翼に戦闘を続けられるだけの士気はなくなり、総大将の命令を聞かずに散り散りに逃走を開始した。
こうして明け方に始まった戦闘は、昼を待たずに方伯軍が瓦解することで幕を閉じたのである。
戦線が維持できなくなった方伯に残された手段は、あとは騎兵突撃と魔法兵の強行しかなかった。だが、間断なく続く砲撃の音に馬が怯えて身動きが取れず、そして魔法兵の決死の突撃は配下軍団に止められ不発に終わった。
魔法兵と一口に言っても、彼らは貴族の御曹司であるから替えが効かず、彼ら一兵を失うと言うことは、そのまま国力を損ねるということだった。彼らは基本的に、圧倒的に勝っている状態で、相手にとどめを刺すために運用される部隊であり、このような一方的な敗戦ではやれることが何も無い。せいぜい貴族であることがバレないように、コソコソと逃げ帰るしか無かったのである。
追撃戦が始まると、旧式の鎧や鎖帷子を身に付けた方伯軍は、進軍速度の違いから、更なる打撃を受けることとなる。
おまけに、たまたまビテュニア方面から帰還してきたエリザベス・シャーロット率いる亜人騎兵に補足され、追い立てられて、更に数を減らすこととなった。亜人兵は少数であったが、その残忍なまでの精強さと機動力は彼らにトラウマを植え付け、彼らのつけていた白衣は、やがて恐怖の代名詞となる。
こうしてフリジア戦役におけるガラデア会戦は幕を閉じる。
海の向こうからやってきた小国のはずのアナトリアが、10倍の敵を相手に堂々と戦い、それを打ち破ったという噂は瞬く間に全世界に広がり、エトルリア諸侯は眠れる虎の尾を踏んだことを痛感することとなるのだった。