もう嫌だったのです……
焼け野原を抜け、森を抜け、元来た道を戻り川沿いの桟橋まで帰ってきたが船が見当たらない。恐らく、逃走されるのを想定して襲撃者が川に流してしまったのだろう。幸い、対岸までは50メートルも無く、この距離ならば泳げなくはない。
村の方から誰かの大声が聞こえてきて、ここからでもビリビリと鼓膜を揺さぶった。多分、エリオスの雄叫びだろう。今まさに何かが起こっているようだ。
どうする? 飛び込もうか……と逡巡してると、
「すみません、私泳げません」
とブリジットが言った。スポーツ万能で何でも出来そうなイメージだったが、水泳はまた別の技能だ。大体、ブリジットが泳げたところでリリィは絶対にアウトだろう。
「上流に少し歩けば、川が浅く渡れる場所があります。みなさまはそちらから回り込んでいただけませんか?」
と言うと、リーゼロッテは躊躇なく夜の川に飛び込んで、スイーッと対岸へ向かって泳ぎ始めた。
「あっ、ちょっと待てって! ええいっ……」
いくら手練れの者でも、ここで単独行動させるわけにはいかないだろう。但馬は背負っていた銃と荷物を下ろすと、彼女に続いて川に飛び込んだ。
「ブリジット、こっちのことは任せろ。でも出来るだけ急いでくれ!」
「先生!」
背後からブリジットの声が聞こえる。
「丸腰の先生が付いて行っても、何の役にも立ちませんよ!」
「ほっときやがれ、こんちくしょう!」
そんなことは分かってる。汽水域の水が口の中に飛び込んできて、なんともしょっぱい気分になった。
たった数十メートルだと言うのに、着衣水泳でものすごく疲れた。ぜえぜえと息を上げながら岸に手をかけると、先にたどり着いていたリーゼロッテがグイッと引っ張りあげてくれた。彼女には微塵も疲れが見えない。
水を吸ってまとわりついたスカートを雑巾のように絞ると、彼女は村へと駆けていった。但馬もビチャビチャと周囲に水たまりを作りながら後に続く。
月明かりのお陰で視界は広かった。そんな中、人の動く気配と、金属のぶつかり合う音が聞こえる。
方角は但馬たちが宿舎として与えられた家の方であり、月明かりに照らさて、小さな影がいくつも見えた。恐らく亜人の子供が取り囲んでいるからだ。
村の子供が加勢しようか迷ってるのだろうか……?
初めはそう思ったのだが、家の前で仁王立ちするエリオスの姿を見つけて目をむいた。満身創痍の彼を襲っているのは、その亜人の子供たちだったのだ。
「社長! 気をつけろっ!!」
エリオスが叫ぶ。
亜人の子供たちはやがて近づいていくる但馬たちに気づくと、あっと息を呑んで、こちらに向かって弓を構えた。
それに驚き、つんのめった但馬に向かって矢が飛んで来るが、リーゼロッテはそれを器用に剣で弾くと、
「一体これは何の騒ぎかっ!!」
周囲を取り囲む者たちを一喝するのであった。
まるで波が引くように、亜人の子供たちはざわめき、彼女から距離を取った。その表情はみな一様に困惑気味だったが、弓を下ろす者、弓を構えたまま固まる者と反応はまちまちだ。
「そんな、何故……」
子供たちの背後から呟くような声が聞こえた。
はっとして視線を向けると、子供たちの中に紛れるように、頭一つ分抜けた大人が数人混じっているのが見えた。
その内の一人の顔には見覚えがあった。
「執政官、何が起きているのでしょうか?」
名前はアインだったか。背筋をピンと伸ばした初老の男である。
リーゼロッテは騒ぎの中で彼の姿を見つけると、剣をおろして近づいていこうとしたが……
「駄目だっ! そいつが首謀者だっ!」
但馬の叫びに呼応するかのように、油断している彼女に向かって、亜人たちが一斉に跳びかかってきた。
しかし……キンッ! キンッ! っと、リーゼロッテは自分に向けられた刃を弾くと、まるで初めから分かっていたかのように、飛びかかってきた亜人をバッサリと斬り伏せた。
そして何事も無かったかのように一歩前進すると、射抜くような冷たい視線を執政官に向けて放ち、言った。
「何のつもりですか?」
「か、かかれっ! おまえたちっ、この女を排除しろっ!!」
追い詰められた執政官が周囲で困惑して立ちすくむ亜人の子供たちに命令した。
しかし、大勢の子供たちは戸惑いの表情を隠すことが出来ず、まるで動こうとしなかった。
「その人はおまえらの女王だぜ? 手を出してもいいのかよ」
そして迷いを見せた子供たちに、但馬がすかさずそう言い放つと、彼らは手にした武器をポイッと投げ捨て、執政官から距離をとった。
子供の頃からずっと前線で戦うことだけを目的に育てられてきたのだろう。その規律は厳しく、上下関係が今更簡単に覆るようなものではなかった。
女王の登場でそれまでエリオスを取り囲んでいた子供たちは戦意を喪失した。
そして、今までエリオスに向いていた刃は、今度は逆に執政官の方へと向けられている。
完全に孤立した執政官は剣を抜いて飛びかかってきたが、もはやリーゼロッテの敵ではなかった。
切り伏せられ地面に転がされると、彼はうめき声を上げながら大の字になり、やがてシクシクと泣き出した。
ここにいるのは老人と子供だらけだ。そんな相手を痛めつけて、泣かれて、何をやってんだと思うと吐き気がしてくる。
もう深夜だと言うのに、大勢の人間が小さな家の周りを取り囲むように立っていた。
その殆どが生気を無くした子供たちで、傍から見れば死者の行列のように見えたかもしれない。
騒動が収まり暫くすると、ブリジットがリリィを背負って駆けつけてきて、傷ついているエリオスを見つけると、すぐさま治療に当たりながら尋ねてきた。
「一体、何があったんです?」
「さあ、これからそれを聞こうとしてるとこなんだけど」
「社長……家の中に……まだ人が居る」
ブリジットのヒールを受けているエリオスが、背後の家を指差した。こちらは但馬たちに貸し出された家ではなく、タチアナに与えられたものだったはずだ。
そう言えば、この騒動の間中、彼女の姿を見ていない。
但馬はブリジットと顔を見合わせると、慎重に家の入口から中を覗いた。
玄関口には何人かの亜人の子供の死体が積み上げられており、気の毒なその子供たちの姿を見て但馬はなんとも遣る瀬無い思いになった。手を合わせ、それを脇に退けて、家の中に足を踏み入れるが、そこも似たようなものである。
「ひぃっ……」
床を踏む、ギィっという音が響くと、家の奥から小さな悲鳴と、ハァハァと荒い息遣いが聞こえてきた。
廊下には玄関と同じく子供の死体が転がっており、奥に行くほど増えているような気がする。これは自分の手に負えないと思った彼はブリジットを待ってから、ゆっくりと奥へと進んでいった。
そして家の居間に当たる部屋に差し掛かると、鋭い眼光に射抜かれた。
部屋の中は一面の血の海で、もしも昼間だったら卒倒していたかもしれない。むっと鼻を突く鉄の臭いが立ち込めており、もう動かなくなった亜人の子供たちが折り重なるように倒れており、その無残な骸を晒していた。
その部屋の一番奥に、頭を抱えてうずくまっているタチアナの姿が見える。
彼女は完全に怯えきっており、外の騒ぎが収まったことも、但馬たちが助けに来たことにまだ気づいていないようだった。
そしてそんな彼女を守るようにして、全身血だらけの女が刀身がボロボロになった抜身の刀を構え、仁王立ちになっていた。
彼女は敵か味方か分からない但馬を射抜くように、その凶悪な眼光を向けてきた。
但馬は射竦められ、身を固くしながらも、
「大丈夫だ、俺たちは味方だ。もう助かったんだ」
「……外の亜人は?」
「すでに武装解除してる。主犯の執政官も捕らえた」
但馬がそう言うと、その暗殺者のような女性、ランは手にしていた刀を地面に突き立てて、それを支えにずるずると腰を落としていった。
一瞬差し込んだ月明かりに映った彼女の姿は、全身は血まみれで、ペンキでも被ってしまったかのように真っ赤っ赤である。月明かりにテラテラとした脂が反射して、まるで物語に出てくる悪鬼そのものだった。
ブリジットが慌てて駆け寄りヒールをしようとすると、
「必要ない。全部返り血だ……私のことより、こっちを頼む」
彼女はそう言って、彼女の背後にうずくまり、恐怖に慄き子供のように啜り泣いているタチアナを指差した。ブリジットが肩を叩くと、彼女は縋り付いて大声で泣き始めた。
「……あんた、本当にタチアナさんを護衛するために来たんだ」
「初めからそうだと言っているだろう」
「しかし強いなあんた。エリオスさんを残したのは、無駄だったか」
「いいや。あれのお陰で敵が分散し、大いに助かった……本当は、私を見張るためだったんだろう?」
「まあね……敵か味方かハッキリしなかったし。で、一体あんたは何者だ? 何でこんなことしてるんだい?」
「だから、ただの護衛さね。私はただ、タチアナを守りたかっただけだ……こんな子供を殺してまで……」
そう言うと彼女は血でべっとりとなった顔を無造作に手ぬぐいで拭いて……それから自分の足元に転がっている亜人の子供の前に跪くと、何度も何度も十字を切ってお祈りをしていた。
護衛のランの懸念通り、タチアナは狙われていた。
実は今回の騒動は、但馬を殺し、タチアナをその犯人に仕立て上げるのが目的だった。
執政官の話では、その首謀者は分からないが、エトルリアの有力貴族が、最近コルフを狙っていたらしい。
コルフは知っての通りイオニア海の海運の要衝で、ここを抑えることでリディア、ティレニアの勢力を削ぐことが出来る。元々は取るに足らない土地であったから放っておいたが、最近の好景気で実力をつけてきたイオニア周辺国が、徐々に目障りになってきた。
その力を削ぐためには、コルフを手に入れたい。コルフを手に入れるためには、目の上のたんこぶ、総統ロレダン家を排除する必要がある。
総統は調和路線を取り、リディア、ティレニア、エトルリアが三すくみになるように、バランスを上手く取っていた。だから、彼を排除しないかぎり、三すくみが崩れず、返り討ちに遭いかねなかった。
そこで首謀者は1年をかけてリディアに対する不満を煽り、調和路線のロレダン家を苦境に陥れた。但馬を敵に仕立てあげ、民衆の怒りを煽り、ついには議会をクーデターで占拠する準備が整った。
保守系の議員はもはや虫の息であり、あとはこのクーデターを上手く利用して、コルフに侵攻を掛ければいいだけだった。可能であればクーデター勢力を唆し、保守系議員を処刑させてしまえば、戦後処理も楽になるだろう。
ところが、そんな思惑を知ってか知らずか、総統がタチアナをリディアに逃がしてしまった。彼女自身に力は無いが、何しろ総統の娘であるから、これを見逃すと、上手くコルフを手に入れたところで、いずれ保守勢力が結束しかねない。
すぐさまタチアナの暗殺を考えたが、先手を打たれたこの状況で彼女を暗殺しては、周辺国を刺激するだけだろう。少なくとも、リディアはおかしいと感づくはずだ。だからその矛先を別に向けることにした。
イオニア海周辺諸国で、コルフの次に気になるのはリディアだ。昨今のリディアの成長は目覚しく、無視できない状況にあった。この国がもしエトルリア大陸に目を向けたら、自分たちもまずいと首謀者は考えていたようだ。
カンディアの使者からメディアの式典のことを聞いた首謀者は、これを利用して但馬を排除しようと考えた。リディアの好景気の中心にはこの男がおり、行く行くは障害になることはわかりきっていた。
そこで式典にかこつけてメディアにおびき寄せ、好奇心旺盛な彼なら、かならず遺跡を調べるだろうから、そこをエルフに襲わせようと考えた。普通に考えれば森の中に誘い込むにはこの手しか無い。
首謀者はこうして事故として但馬を排除しようと考えていたのだ。
そんなとき、タチアナがリディアへと渡航した。追いかけて暗殺しようと考えたのだが、彼はそれよりもうまい手を思いついた。どうせノコノコと但馬の下へと行ったのなら、彼女にその但馬を殺させればいいと考えたのだ。
式典にはリリィも参加するから、これを但馬と共に殺害し、タチアナにその容疑をかぶらせる。但馬たちが殺されたことがリディアに伝わるのは時間がかかるだろうから、その間に、攫ったタチアナをコルフまで連れ帰り、脅して自分がやったと言わせる。そうすれば、クーデターを起こすことなくロレダン家は失脚し、リリィを殺害されたことを理由に、エトルリア諸侯がコルフへ侵攻することも可能だろう。
こうなってみると、こっちの方が断然スマートに思える。
そして亜人の奴隷商人ミルトンと繋がっていた首謀者は、彼に計画の変更を伝えた。簡単に言ってくれるが、変更はミルトンにとってはそう簡単ではなかった。
但馬一人を事故に見せかけてエルフと戦わせる……ここまでは一人でも出来るだろう。だが、リリィを巻き込んだりタチアナを攫ったり、勇者の娘と呼ばれる女王の目もあるのでは、一人では無理があった。
そこで、彼は執政官であるアインを取り込んだ……
「執政官であるあなたが、何故?」
執政官は、ガクリと項垂れながら、誰に目を合わせることもせず、力なく言った。
「もう嫌だったのです……私は勇者様が旅立たれたその日から、ずっとこの地を守り続けてきました。いつかあのお方がお戻りになるだろうと信じて。ですが彼は結局帰ることはなく、その間、私は様々な者に利用されました。
何もないこの場所で、人間が近づくのを防ぐためだけに、今日まで頑張ってきました。ですが、あなた方はあの国境に佇む兵隊たちを見たでしょう。命令されるがまま、あなた方に跳びかかっていった子供たちも。私が今まで頑張って残してきたものは、これなのです。
こんなに大勢がいるのに、我々が交わっても何も産み出せない。ただ朽ち果てるのみです。それが分かっていながらも、私はこの地に多くの同胞を留置き、そして前線で死ねと言い続けてきました。この施設が人間にバレたら、皆が不幸になると言って……
ですが、本当にそうだったんでしょうか。我々と人間に奴隷にされた者達と、どちらのほうが幸せだったのでしょうか」
施設から出てくる亜人の子供は、初めのころは全員出てきたところを保護されていたらしい。だが、いつの頃からか誰も遺跡に近づかなくなった。もしも、遺跡から出てきた彼らが、村へやってきたのならそれを保護し、後は森へ向かい野垂れ死ぬとしても、奴隷商人に捕まるとしても、手を出さずに放っておいた。
長い年月が過ぎ去る内に、執政官には、どっちが良いのか分からなくなったからだった。
そのうち、奴隷商人が大っぴらに利用するようになり、村に来る子供が極端に減った時期もあった。執政官はそれを薄々感づいていたが、それを止めることも、勇者に告げ口することも出来なかった。
言えば外の世界へ出て行ける子供もいなくなるだろう。
彼は次第に、自分のやっていることに嫌悪感を抱き始め、生まれてくる子供たちに同情し始めた。そして……やがて勇者が死んだと知ると、彼はようやく終わったとホッとしたらしい……
「……ですが、私は何も出来なかったのです。ようやく自由を手に入れたと思ったのに……何をしていいのか分からなかったのです。だから、勇者様がお亡くなりになられても、同じことを続けた……前線で人が亡くなれば補充し、亜人の子供が生まれればそれを戦士として育てました。奴隷商がやってくるようになっても、見てみぬふりをしました」
そうこうしていると、リーゼロッテがリディアに現れ、それを知った彼は一縷の望みをかけて彼女と接触を図った。勇者の娘が、きっと素晴らしいアイディアで、彼を解放してくれるかも知れないと思ったからだ。
だが、結果は現状維持のまま、彼はこの地に留め置かれた。逃げ出そうと思っても、村に引きこもっていた彼には外の世界のことが分からず、また、今まで自分がやってきたことを思えば虫が良すぎて……やがて精神に支障をきたした彼は、奴隷商人に取り込まれ、勇者の娘を憎むようになっていった。
「誰かを憎まねばもうやっていけなかったのです。奴隷商人が子供を連れ去ってくれるほうが、私にはよほど魅力的に思えました。それはもちろん、過酷な目に遭う者もいるでしょう。命を落とすものもあるかも知れません。ですが、こことそことで、どれほどの違いがあるのか。私には分からなくなりました。そんなとき、ミルトンと言う商人に女王を殺そうと言われ……」
今度こそ解放されたいと思った彼は乗ってしまった。
結果的に、彼らは但馬たちの戦力を見誤って失敗に終わった。
だが、もしも成功していたとしても、果たして執政官は解放されたのだろうか。それは疑問であったが……
執政官は涙を流し、吐き捨てるように言った。
「こんな土地で朽ち果てるくらいなら、奴隷になったほうがマシだ」
かつてミルトンも同じことを言っていた。その言葉は痛いほど分かる気がした。
その後、彼は施設が止められたことを知ると、呆然と表情を無くしてから、まるで生まれたての赤ん坊のようにおいおいと泣き始めた。彼の中にどんな葛藤があったかは想像もつかなかったが、それは残酷な涙に思えた。
どうしてこんな犠牲者を出してまで、勇者は終わりのない戦争を続けさせていたのかは、ここの施設の重要性を考えれば、わからないこともないのだが……
もっと他にやりようがあったのではないか? 大体、奴隷商人にはバレバレだったのだろう? 勇者が愚かであったと言えばそれまでなのだが……
但馬は、まだ何か見落としでもあるんじゃないかと不安になった。しかし、それが何なのか……今は、モヤモヤとしたものを胸の内に抱えておくしかないようだった。
とにもかくにも、こうしてメディアへ続く一連の騒動は一応の幕を閉じたのである。このあと、彼らは夜が明けるのを待ってから、無事を知らせるためにリディアへとんぼ返りする羽目になる。襲撃者が現れたということは、先手を打って他にも何か仕掛けられてる可能性があるからだ。
そのため、来るときに4日をかけた山道を、無理して短縮しわずか2日で帰るという強行軍に、うんざりすることになるのだが……
そして但馬が感じた不安。その正体が何であるのかが分かるのは、メディアから帰還して暫くの事であった。