海岸線に夕日は沈む
黒煙を上げる製塩所から海岸を見ると、タチアナ・ロレダンが憂いを帯びた視線で立っていた。彼女の目はじっと水平線の方を向いており、但馬に気づいてはいなかったが、無視をするのも何なので声をかけると、彼女は振り返り目礼をした後、言った。
「常識にとらわれていると、言われるまで気づきませんわね。本当に、彼らは風に逆らって進んでいるようです」
何をしてるのだろうかと思えば、どうやら彼女は但馬が言っていたことを確かめていたようだ。彼女の目の前、海の上では若手の漁師たちが懸賞金を目指して、可動式のマストと風にたなびく縦帆を体全体で受け止めながら、スイスイとアメンボのように水上を自由自在に走っていた。
船に対して縦に帆を張るという行為は、実際に見ればかなり目立つのですぐに分かるのだが、ウィンドサーフィンのように小さなボードの上ではそれに気づくのはなかなか難しいだろう。
やがて、ボードを見るのに満足したのか、タチアナは但馬の方に向き直った。
「先ほど、国の使節団に遣わされたお三方にお会いして来ましたが、彼らはリディアの返事に笑っておりましたわ。ただの強がりだと思ってらっしゃるのでしょうね。私には笑えませんでしたけど」
その光景が目に浮かぶようである。後で吠え面かくなよと言ってやりたいものだ。ところで、
「あの三人って、どういう関係なの? そのまま評議会議員ってわけじゃないよね。議員秘書とかそんな感じなのかな」
「ええ、そうですわね……例えばあの、一番無礼な男……失礼、なんと申しますか」
「いや、分かるよ、あの豚だろ?」
但馬が口さがなくそう言うと、タチアナは一瞬虚を突かれたような顔をしてから、口元を隠して薄く笑った。きっとそれなりの権力者で、コルフにあれの悪口を言う者は殆どいなかったのだろう。
「……はい。あの男は、我が家の……まあ、ライバルと申しましょうか、商売敵とも、政敵とも言える家系に連なる人物です。もちろん、今回の法案を通すために最も精力的に動いていた一派と言って間違いございませんわね」
目的は総統一派を葬り去ることだろうが、今回の件では、総統と彼らの間に何があったのか、非常に気がかりである。
「後のお二人は……正直、あまりよく分かりません。女性の方はティレニア系の議員に近い方のようで、以前に幾度かお見かけしたくらいで……」
「あの亜人は?」
「……よく分かりませんが、商工会の関係者かと」
「商工会??」
「はい。不要な争いをさけるために、商人同士で情報交換する場ですね。亜人は商人が多いですし……」
そうなのか。知らなかった。リディアで見かけるのはスラムの住人か、外からくる奴らが連れてる奴隷ばかりなので、但馬は結構意外に思った。そんな顔をしていると、彼女は片目をつぶって諭すように言った。
「見た目で判断しないほうがよろしいですわよ。奴隷と見せかけて、場合によっては亜人の方が主人だったりすることもあります」
「えっ、そうなの?」
「はい。相手が奴隷だと思うと、人間は油断しやすいですから……侮らないほうが良いです。彼らは何と申しますか……常に不利な条件で生きていますから、思ってる以上にしたたかで逞しいのです」
などと言われて思わず唸った。リディアにいると亜人に出会う機会はスラムくらいなのだが、対岸のそれとはまた違うようだ。
まあ、考えようによっちゃ、彼らはガッリアの森からはぐれた根無し草だから、生き馬の目を抜かないと生き残っていけないのだろう。国を追われたユダヤ人なんかも、租界の中で生き抜くために、多くが商人や金貸しになったそうだし。
そんなことを考えて黙っていると、
「……それにしてもあのボート、どうしてあんなおかしな動きが出来るのでしょうか? どうやらあのジグザグの動きがポイントみたいですが」
「ああ、あれは……なんて説明したらいいかな。鳶が空を飛んでるところ見たことある? 上空で弧を描くように回ってるけど、殆ど翼を動かしていないの」
「ええ、見たことがありますわ」
「あれ、ずっと見てるとどこかで風を捕らえて、スーッとさらに上がってくんだけど……それと同じ力を利用してるの」
向かい風の中を歩く時、風に押し戻されるような力を感じるだろう。陸上競技などでは、追い風の中でびっくりするほど記録が伸びることがよくある。このような風の向きと同じ方向に働く力を抗力と呼ぶ。帆船の横帆が追い風を一杯に受けて進んだり、パラシュートが落下するときに受けている風の影響もそれと同じものである。
対して、空気や水のような流体を、翼や帆、スクリューのような物体がかき分けるように進む時、垂直方向に働く力のことを揚力と呼ぶ。
例えば、滑空する飛行機の翼が空気を分断すると、その翼の上下で気流に乱れが生じるわけだが、その気流の乱れを上手くコントロールすることによって、力を得ることが出来るのだ。
例えば、空気中を飛行機の翼が通り過ぎると、空気の流れは図のように乱される。これによって翼は下から上へと揚力を得るのだが、それはベルヌーイの定理とコアンダ効果によるものである。
ベルヌーイの定理によると、空気や水などの流体は、圧力が低下すると速度が上がる。それを簡単に説明するなら、例えば、容器の中でギュッと圧縮されていた空気が解放されたら、空気の分子が自由に飛び回る……つまり速度が上がるのは容易に想像がつくであろう。これを実証したのが、以前ヒートポンプの説明でも触れたベンチュリ効果であるが……
ところで、圧力が低下すると流体の速度が上がるなら、その逆も然りで、流体の速度が上がると圧力が低下するのだ。
これをさっきの空を飛んでる最中の飛行機の翼に当てはめると、翼の最前部で上下に分けられた空気は、翼の最後部で再び合流するわけだが、山のように盛り上がっている上部を通る空気の方が長い距離を走るわけだから、速度的に速くなるのが分かるだろうか。この結果、翼の上下で気圧差が生じ、その気圧差によって翼は上に押し上げられる。
これがベルヌーイの定理により発生する揚力の仕組みである。
そして、もう一つのコアンダ効果はもっとシンプルだ。
流体は物体に引きつけられる。例えば、蛇口から滴り落ちる水流の途中に、試験管やビーカーを置くとそれを伝って向きを変える。これは水に限らず、あらゆる流体に共通の性質であり、空気もその例外ではない。
先のように、飛行機の翼が空気をかき分けて進むとき、翼の最前部にぶつかった空気の分子は弾かれて斜め上方向に飛んでいきそうであるが、現実にはコアンダ効果によって翼を伝って最後部の方へと流れていくのだ。
この、本来なら斜め上方に飛んでいこうとする空気の流れが、コアンダ効果によって翼の方へ引っ張られるせいで、その反作用が翼にかかり、上へ押し上げようとする力が発生するのだ。
以上、飛行機は空気を翼によってかき分けることで、これら二つの力を作り出して空を飛んでいるわけである。
そして、帆船もこれと同じように、風に向かって翼のように帆を傾ける事によって、垂直方向の力、揚力を発生させて進んでいる。実際には多少の抗力も受けて斜め方向に働く力であるが、しかし、実際に飛行機や鳥が飛んでいる通り、揚力によって得られる力は抗力よりもずっと大きく、実は帆船は追い風を受けて走る時よりも、強い横風を受けている時のほうが速く進むことが出来るのだ。
「常識的に考えると理解しがたい力だから、机上だけじゃなくって実地で理解した方が早いんだよ。で、大会を開いたわけ。ウインドサーフィンやってみるのが一番分かりやすいから」
実際、揚力とは英語ではliftに当たり、つまり持ち上げる力のことである。これは揚力(や流体力学)が、飛行機が開発された後に研究され始めた分野であるからだったりする。大航海時代から20世紀まで、およそ400年もの間、良くわからない力で、人類は外海を渡っていたと考えると、冒険という言葉がピッタリだろう。
さて、タチアナはニッコリと笑うと言った。
「さっぱり分かりませんわ」
「ですよね」
ぶっちゃけ、感覚的には絶対理解できないような力だし、おまけに船で説明するよりもグライダーなんかの空を飛ぶ乗り物のほうが理解しやすい世界だ。但馬は肩を竦めて諦めて言った。
「まあ、いずれレジャー化するだろうから、そうしたらインストラクターにでも聞いてくれ……って、今回の件で観光客が減っちゃうと暫くは無理かな」
ボヤくように言うと、タチアナは少し複雑そうに眉を寄せた。
「未だによく分かりません。何故、父は急に態度を変えたのでしょうか……」
それは但馬も不思議に思っている。良からぬことが起きたのでなければいいのだが。
「私をリディアへ向かわせた後に、一体何があったのか。何かあったのは間違いないのでしょうが、あの三人にいくら聞いても、何も答えてはくれないのです……本当なら、今すぐにでも国に帰って確かめたいところなのですが」
確かに。せめて1日か2日でも間が空いたというのならまだ分かるのだが……殆どノータイムであの三人の使者は現れた。何も知らないとは考えにくい。もしくは彼らが嘘を吐いてる可能性だが……
「例の手紙って、本当にタチアナさんのお父さんからだったの? 誰かが捏造したりとか、そういう可能性は無いのかな」
「それは考えましたが……何度読み返しても父の字でしたし、国璽、家紋の封蝋と立て続けに本物を出されては、信じないというほうが難しいです。偽物だと断じて帰国して、もしもこれが本物だったら大変なことになりますし」
取り敢えず、リディアに常駐していた家人を国に返して、タチアナは我慢することにした。家人がコルフに行って帰ってくるのにも、最低2週間はかかるから、結局、何が起きたか分かるのは調印式の後になるだろう。それまで、タチアナはやきもきしているより他ない。
彼女は憂鬱そうに海を眺めた。沈みかけの夕日が彼女の頬を照らして赤く染まった。但馬は彼女の隣に立って、二人で何の会話を交わすこともなく、水上をスイスイ進むヨットを眺めていた。
もし、帆船を作って直接コルフに向かえる体勢が整っていたら、彼女を送っていっても休戦協定の式典に間に合っただろうか。海流の影響を受けない内海のど真ん中をジグザグに走行すれば、リディアからコルフへも無寄港で向かえるはずだろう。
しかし、それでも少し時間的に厳しいかな……などと考えていたら、ふと思い出したといった感じにタチアナが尋ねてきた。
「そう言えば、先ほど2つプランがあるとおっしゃってましたが」
「……ん?」
「謁見の間で国王様に問われた時ですわ。もしも国王様が内海貿易を維持するとおっしゃったら、どう返事するおつもりだったんです?」
貿易協定と言いつつ、不平等条約を突きつけてきた時のあれか……あの時、鎖国するか外洋に出ないかと提案したら、すぐに国王が乗ってきたから、結局、彼女の言う通り、コルフやカンディアと付き合っていく場合の答えは口に出していなかった。
「そりゃあ、もちろん……地道に外交官を送って、少しでも関税を安くしてもらうようにお願いするかな」
「ご冗談を」
タチアナはクスクスと実に愉快そうに笑った。
思えば、彼女がリディアに来て、初めて心の底から笑ったのは、この時が初めてだったかも知れない。それが、自分の国にとって非常に都合の悪いことを揶揄してのことだと言うのは、実に皮肉ではあったが。
しかし、但馬はそれほどふざけてるつもりもなくて、半分は本気だった。可能であるならば、そりゃあ、不要な衝突は避けたほうが良い。後々に禍根を残すことになる。
それでも、もし、国王がその答えに満足しないのであれば……言うまでもなく満足しないであろうが、その時は何と答えたであろうか。
「リディアは夕日が海ではなく、海岸線に沈むんですね」
そう呟く彼女の目には、一際大きな建物が黒煙をあげている姿が映し出されていた。彼女は恐らく、それが何だかは分かっていない。海岸にある、製塩所の一つに過ぎないと考えているだろう。
それは但馬がごく最近に建てたばかりのコークス炉だった。
石炭を燃料とした製塩や製鉄が盛んなリディアの地で、但馬は大分初期からその無駄を認識していた。石炭は産出されたままの状態では不純物が多くて、実は燃料効率が落ちている。
そのため燃料効率の良いコークスは、これら製造業に重宝され、すぐに商売として成立するようになった。
そんなコークス製造の副産物として、実はアンモニアが生産される。冷蔵庫の冷媒などに使ってはいたが、コークスが売れれば売れるほど余剰が発生して、今ではすっかり余っていた。
そして、アンモニアはプラチナ触媒下で容易に酸化され、二酸化窒素……つまり硝酸ガスへと変化する。
もし……あの時、国王が戦争を口にしたら……
但馬はなんて答えるべきか、正直なところかなり迷っていた。実を言えばリディアはこの時すでに、火薬を大量生産する体勢が整っていたのである。
書き溜めが尽きましたんで、前作みたいに書き上がったら更新に切り替えます。基本的に毎日更新は変わらないかと。ではでは。