87Dです
倉庫番に荷物をホテルまで送らせて、タチアナはS&H本社まで一人で行くことにした。
旅先で女性の一人歩きなど、本来なら危険極まりない行為であったが、コルフほどでは無いが、リディアも治安が良く、お上りさんのようにキョロキョロしていなければ、犯罪に巻き込まれることはない。
実際、道行く人々は皆陽気で、開放的と言うか、脳天気な感じであり、警戒するのが馬鹿らしくなるような雰囲気だった。
倉庫街を出て海岸付近を通り過ぎると、アイスキャンディを齧りながら、幸せそうに歩き去るカップルを見かけて、タチアナも真似して食べ歩きしてみた。家令が居たらきっと見咎められただろうが、ここには自分一人しか居ない。これから行う仕事のことを思うと緊張して気が滅入るし、せっかくだから羽を伸ばさせてもらおうと思った。
「……甘い」
氷菓子などと言うものは初めてだったが、その甘さ、冷たさは想像以上に良かった。汗が吹き出そうな陽気の中で食べるのも最高だ。
世の中には、こんな素晴らしいものを考えつく人がいるのだなと素直に感心するが……この国に入ってから、それはずっと一人に向けられてるのだと気付かされて、げんなりした。なんだか触れてはいけないものに触れているような気がする。
議会の革新派議員はリディア相手に戦争だ、懲罰だと息巻いてるが、そんな人相手に、どうやって立ち向かえばいいのだろうか。
港を抜けて市街の中心へ。
二年前はにこの国を訪れた時は、港からすぐにリディア政庁インペリアルタワーの姿が目に飛び込んできて、その巨大さに驚いたものである。
久しぶりに見たそれは、相変わらず大きくて、また感嘆の声を上げさせたが……それよりももっと気になったのは、ビルのあちこちから伸びる、巨大な浮遊物だった。
アドバルーンが風に揺られる姿にタチアナは目を丸くした。
一体あれはなんだろう? と目を凝らしてよく見れば、垂れ幕がぶら下がっており、そこにキャッチコピーが書かれている。すると、あれは宣伝用に飛ばした何かなのだろうか。一体、どうやって浮いているのだろう。その辺を歩いている人に尋ねたら教えてくれるだろうか……
疑問が疑問を呼んでは口をポカンと開いて見上げるしかなかったタチアナは、ハッと口を閉じて、はしたないとばかりに手で抑えた。誰かに見られてなかったかな? とキョロキョロと辺りを見回してから、足早にその場を去る。
とにかく、港に下りてから次から次へと不思議な光景が目に飛び込んでくる。気にしないわけにはいかないのだが、かといっていちいち気にしていたら、歩くことさえかなわない。
中央公園広場に向かうと、その中心は以前見た時とは比べ物いならないほどに賑わっており、そこかしこに出ている屋台から香ばしい香りが立ち込めてきた。
大道芸人が芸をするその周りに人が集まって、拍手喝采しチップを景気よく投げ入れていく。子どもたちがきゃあきゃあ奇声をあげて駆け抜けていった。備え付けのベンチはどこも満員で座ることなど出来そうもなく、もはや汚れることなんか気にならないといった感じに、恋人たちが芝生に直接腰掛けていた。
思わず祭りでも始まったのかと勘違いしそうになった。しかし、これがこの国の日常なのだろう。誰もが別段気にした素振りも見せずに通り過ぎていく。
タチアナは、コルフ議事堂前の陳情に訪れた労働者の群れを思い出して、なんとも複雑な思いがした。同じ、国の中心広場だと言うのに、この差はなんだろうか。為政者の差だろうか。いや、身内びいきを差し引いても、父が負けてるとは思えない。
やはり但馬か……
たった一人の出現で、こうも国が変わるものかと半ば感心し、半ば呆れつつ足を進めると、中央広場の真ん中からアドバルーンのロープが空に伸びているのが見えた。
何の宣伝だろうかと見上げてみたら、『愚か者の末路』と垂れ幕が下がっており……なんだこれ? と当惑していると、風でその垂れ幕が翻り、『生まれてきて申し訳ありません』裏面にはまた別のセリフが書かれていた。
困惑しながら覗き込んでみると、賑わう人々が通り過ぎる中で、見るからに見すぼらしい男が一人うつむき加減で正座させられていた。彼の胴体にはロープがぐるぐる巻かれており、それが空に浮かぶ風船につながっている。
彼の周りには甲冑を着た兵隊らしき集団が取り巻いており、
「この、ドアホウが! 一体、何度迷惑をかければ気が済むと言うのか、貴様は! 我軍に恨みでもあると言うのかああああ!!!」
ゲシッと騎士がケリを入れると、男は盛大にすっ転び、顔をクシャクシャにしながら詫びるのだった。
「悪気があったわけやないんや! 俺はただ、メスイキの喜びをみんなに知って貰いたかっただけなんや!」
「ええいっ! アホがアホがアホがああ! おまえのせいで、前線がホモだらけになってしまったじゃないか! どこの世界に内股で行軍する軍隊があると言うんだ。一体どう落とし前をつけてくれる!!」
「んなこと言わても、普通に楽しむ分にはホモになる要素なんざ……って、いだだだだだだ! 痛い痛い!!」
「ふてえ野郎だ」「みんな、たたんじまえ」「この馬鹿!」「阿呆!」
屈強な騎士たちが続々と罪人らしき男を打ち据え、それをゲラゲラ笑いながら聴衆が見物していた。誰ひとりとして助けようとしない。寧ろ見物客のために屋台が出張ってきており、商品が飛ぶように売れていた。
この国には、罪人を見せしめにして楽しむ風習でも残ってるのだろうか……なんて野蛮な……
タチアナはこれだけの発展を見せておきながらの二面性に困惑しながら、その場から逃げるように立ち去った。
それにしてもあの男は一体何をしてしまったのだろう。大概、この手の広場で晒し者にされるような者は、国家に逆らったりした大罪人と相場が決まっている。
そう考えるとなんだか怖い気がしてきて、タチアナは背後を振り返りながら、広場から出ようと足を早めた。
観光などしている場合ではない。やはり早くS&H社へ行って、但馬波瑠と接触を図ったほうが良いだろう。確か問題の社屋はこの広場に面した通り沿いにあると倉庫番が言っていた。もっと詳しい場所の説明を求めたが、行けばわかると言われたので、恐らく、相当目立つ外観をしているのだろう。
果たして、その言葉は正しかった。玉葱とクラリオンの看板がかけられた建物は一見普通に見えたが、その正面には幅広く縁取られた一枚ガラスの窓があって、そこから覗く建物の中身は信じられないほどの光が溢れ、漆喰のように白い壁に囲まれた事務所の中で、一人の少年が机にかじりついて何か作業をしている。
その少年の周りに乱雑に積み上げられているのはおびただしい量の紙であり、もしあれが羊皮紙であったら、これだけで一財産はあるだろうと思われる紙の束を、彼は無造作に扱っていた。
但馬波瑠に会いに来たのだから、当然この中に入っていかなければならないのだが、タチアナはなんだか尻込みして、社屋の前まで来たは良いが、中に入れずに素通りしてしまった。
玄関前に呼び鈴が置かれているし、なによりあれだけ開放的な窓があるのだから、その前で手を振っただけでも気づいてもらえるはずなのだが、それがなかなか出来ない。そうこうしている内に、社屋の前を行ったり来たりしていたタチアナはよほど目立っていたのだろうか、公園の方でそれをじっと見ていた金髪の少女がゆっくりとこちらへ近づいてくるのだった。
さっきから行ったり来たり、よほど怪しかったのだろう、見咎められてはかなわないと、タチアナは出直すことを決意して、慌てて彼女とは逆方向へと歩いて行き……すると、ドンっ! と、通りがかりの男にぶつかってしまうのだった。
「気をつけやがれっ! この、お上りさんめ!」
男はぶつかるなりそう罵り、タチアナは狼狽しながら、
「お、お、お上りさんじゃありませんわよ!?」
と言い返したが、とは言え、ぼーっとしていたのも確かなので、
「申し訳ありません。お怪我はございませんでしたか?」
と、ペコペコと頭を下げて、謝罪した。
「ちんたら歩いてんじゃねえ、馬鹿野郎!」
ギロリと彼女を見下すように睨みつける男に恐怖し、しゅんと項垂れていると……ところがその男が突然、痛たたたっと苦痛に顔を歪めるのである。
何事かと思ったら、背後に立つ小さな女の子が彼の腕をねじ上げて……顔を真っ青にしたその男の手からタチアナの財布が落ちるのだった。
タチアナはあたふたと慌てながら、自分の手提げかばんの中を確かめ、そこにあるべきものがないことに気づいて愕然となった。
公園の方からその様子に気づいた憲兵隊たちが駆け寄ってきて、男は必死に逃げようとするのだが、まるで地面に吸い付いてしまったかのように、小さな女の子に取り押さえられて身動きすら出来ず、そうこうしているうちに憲兵隊達がやってきてしまって、観念して取り押さえられていた。
タチアナが唖然と見守っていると……金髪の女の子は悠然と財布を拾い上げ、
「大丈夫ですか?」
と言って、差し出してきた。
「あ、ありがとうございます。油断しておりましたわ」
女性の一人旅だと舐められまいとして気を張っていたはずなのに、いつの間にか気もそぞろになっていたようだ。恥ずかしいところを晒してしまったと、真っ赤になって恐縮していると、
「お恥ずかしい話ですが、最近は国に人が増えてきたせいか、スリや置き引き被害が増えまして……リディアに来るのは今日が初めてですか?」
「まあ、私はお上りさんじゃありませんわよ!?」
馬鹿にされたと思ったタチアナは、つい大きな声で否定した。しかし、それがいかにも自分の言うお上りさんらしくて、彼女は情けなくてまた顔を赤くした。
目の前の少女は苦笑しながら、別にそんなつもりで言ったわけじゃないと弁明し、
「失礼しました。あまり見かけないお顔でしたので。先程から我が社の前を行ったり来たりしていたようですが、何か御用でしょうか?」
「え? ……すると、あなたは」
「はい、この会社の者です。ご来訪は初めてですよね? よろしければ、ご用件を承りますけど」
「まあ」
言われてタチアナはドギマギした。すっかり気後れして出直そうと思ってたところなのだ。しかし、こうして話を聞いてもらえたのだから、このチャンスを逃すわけにもいくまい。
「あの……実は私、今日コルフからやってきたばかりでして……是非、但馬社長にお会いしたく、こうしてお伺いしたのですが……」
「今日到着したとすると、約束したわけではないですよね。でしたら、ご用件をおっしゃっていただければ、お伝えしておきますが」
「いえ、これはどうしても直接お話しをしなければならないものでして……実は私、但馬様と直接面識がございますの。ですから、名前をお伝えしていただければ……」
「え、そうなんですか? だったら、直接話しかけていただけば、よろしかったのに」
「え? 但馬様がいらっしゃるんですか? 一体どこに」
「……え? えーっと……あそこに」
すると金髪の少女は、こいつ気づいて無かったのかよと言った感じの、少し困った顔をしてから、広場の中心を指差した。
指し示す先には先程の男が地べたに正座しており、近衛兵たちは広場から立ち去ったが、代わりに今は男の周りを子どもたちが、ねえ、どんな気持ち? 今、どんな気持ち? と嫌らしく言って飛び回っていた。
さては但馬はあの男を笑い者にしている野次馬の中にいたのだろうか……あまりいい趣味では無いなと思いながら、タチアナは尋ねた。
「まあ、但馬様があの中に……ところで一体、何があったのですか? あんな晒し者にするような仕打ち、いくらなんでも酷いんじゃありませんこと?」
「え!? えーっと……そうですねえ。でもいつものことですから」
「いつも!? いつもこんなことをなされてると言うんですか、この国は? 一体、彼が何をしたっていうんです?」
「え!? えーっと……そればっかりは、私の口からはとてもとても……」
口の中でモゴモゴと何かを言いながら、少女は顔を真赤にして口ごもった。小さな少女だと思っていたが、よく見れば胸だけはどんな大人より立派である。
タチアナは首を捻りながら騒ぎの中心に居る男を眺めた……少女が言い淀むような罪とはいったいなんだろうか。それは分からないが、ともあれ、但馬があの中にいると言うのなら、行って話しかけねばなるまい。
先程は少し弱気になりもしたが、このような下世話な人物であるのならば、こちらが気後れする必要もあるまい。
タチアナはプンスカしながら広場に足を向けたが……ふと、広場で晒し者になっているその姿が、かつて見た男の姿と重なって、何かの記憶違いではないだろうか? と思いつつも、困惑しながら少女に尋ねるのだった。
「もし……あの方は、もしや、但馬波瑠様では?」
「え、ええ、そうですよ?」
まさか、と思いつつ尋ねたつもりがあっさりと肯定された。
「本当に先生の顔をご存知なんですか。あれ? でもリディアに来たばっかりなんですよね。どこで知り合ったんです?」
その問いかけに応えず、タチアナはフラフラと広場の中心に足を向けた。
但馬波瑠とは、あの但馬波瑠だろう? 何故、彼がこんなひどい目に遭ってるのか? はっきり言って信じられなかった。
彼がどれだけリディアという国に貢献しているのか、ほんの少しでも理解していれば、こんな仕打ちを彼にするなど、絶対にあり得ないことである。まさか、中にいるとそれが分からないのだろうか? だとしたら、これはチャンスかも知れない。
場合によっては自分たちの味方に引き入れようと思っていた相手だ。それがこんな屈辱的な目に遭ってるのならば、いっそ亡命を勧めてみようか。どうにか逃がしてさしあげなければ……でも、どうやって?
タチアナは真っ青になりながら、フラフラフラフラと広場の中心にやってきた。それを眺める野次馬に邪険にされながら、ポンと人垣の輪っかの中に飛び出すと、おや? っとした顔をする但馬の前に、彼女は進み出て言った。
「あ、あの……但馬様、お久しぶりでございます」
タチアナは、かつて暗い夜の堤防で見た男の顔を思い出していた。間違いない、目の前の見すぼらしい男は但馬波瑠である。あの時、彼は確かに自分の名前を呼んだ。彼は自分のことを知っているはずなのだ。
しかし、衆人環視の元、いきなり出てきた見知らぬ女性に、困惑しながら但馬は問うのであった。
「あんた誰?」
その言葉がよほど想定外だったのか、タチアナはビクリと肩を震わし、顔面硬直を起こしたかのような引きつった顔で、
「タ、タチアナです。タチアナ・ロレダン。先日、お会いしたではありませんか。あなたは私にご自分の自己紹介をなさいましたわ」
「そうだっけ? 記憶に無いなあ」
「で、ですが……他ならぬあなたがおっしゃったのではありませんか。機会があればまた会いましょうと」
「えー? マジ? 俺がそんなナンパみたいな真似……するな。いやー、全然覚えがないんだけど。人違いじゃないの?」
但馬は軽い口調でケロリと言った。その顔は、嘘を吐いているようには思えない。
そんなまさか……それじゃあ、自分は一体何故この国にやってきたと言うのか。但馬波瑠がタチアナ・ロレダンを知っているからこそ、自分がこの国に派遣されたのだぞ。その前提が崩れては……
周囲の野次馬が、イタイ女でも見るような目で見ている。あちゃー、この女、自意識過剰なんじゃないのと言いたげな顔だ。
タチアナは目眩がして、視界がクラクラ暗転した。
貧血で膝を屈すると、目の前に但馬の顔があり、
「おい、大丈夫か?」
と、のんきに自分の顔を覗き込んでいた。
本当に、この男は自分のことを覚えてないのか? あの日、あの夜の堤防の上で、自分たちは星を見上げながら会話を交わさなかったのか? あの凸凹とした月の表面も、何もかも覚えていないというのだろうか。じゃあ、あれはなんだったのだ。ただの行きずりのナンパか何かのつもりだったのか?
目の前でとぼけた顔をしている男は、本当にタチアナのことなどこれっぽっちも知らないと言った顔をしていた。
一縷の望みをかけてやってきたと言うのに、まさかこんな仕打ちを受けるとは……
タチアナは、ボロボロと涙を流すと、
「え!? ちょっ!? マジで?? なになになに、なんなの!?」
困惑してあたふたする但馬に対し、
「こ、この……女ったらしの恥知らず!!」
と叫んでは、思いっきりその頬に平手を入れるのだった。
あっけにとられた野次馬は、初めはビックリして固唾を呑んでいたが……すぐにまた但馬が何かやらかしたのだろうなと、やんやと騒いでは彼をからかった。
ブリジットが飛んできて、一体この人に何をやったんだと、鬼の形相で睨みつけてくる。
タチアナはボロボロと子供のように泣きじゃくっている。
そう言われても身に覚えがない但馬は言い訳すら出来ず、とにかくよくわからないけど土下座だけして収拾をつけようとしては、却ってブリジットの怒りを買っていた。
タチアナは誤解しているのだ。
あの日、確かに但馬は彼女の名前を口走った。だが、それはたまたま近寄ってきた人間のステータスを確認しただけの但馬が、目の前のそれを読み上げただけのことであり、注意はもっと別のものに向いていた。
もしも自分のことを本当に思い出して貰いたかったのなら、タチアナは87Dですと言えば良かったのだ。そうしたら、但馬はすぐにでも思いだしたはずなのだ。
だが、そんな事情などつゆ知らぬ彼女は、但馬が何故か知らないが自分のことを知っていると勘違いし、淡い期待を胸に秘め、こうしてリディアくんだりまで重要な任務を帯びてやってきてしまった……
彼女が後に巻き込まれる騒動を考えると、それが良かったのか悪かったのか……現時点ではなんとも言いようがなかったのであるが……
泣きじゃくる彼女を前にして、但馬は泣きたいのは自分のほうだと思うのだった。