お父さん……
アレクサンダー・グラハム・ベルが1876年に世界初の実用電話を発明した切っ掛けは、自身の母親が聴覚障害者であったからだった。彼は母の聴力が徐々に失われると、手話を習得し、母のための通訳者となった。また、母に言葉を伝える際、額に口を当てて明瞭に発音すると彼女にも聞き取れると気づいて、それが後に音響学を学び始める切っ掛けとなったそうだ。
ベル父子は母親の聴覚障害もあってか、大学教授であった父親がやがて視話法(聴覚障害者の発音を助ける法)を開発し、世の聴覚障害者を大いに助けた。ベルはそんな父親の仕事を手助けし、自身も聴覚障害者の教育を行っていたが、その中には幼いころのヘレン・ケラーがおり、彼女をサリヴァン先生に紹介したのはベルだったという。
そんな彼であったからこそ、音声を電信で伝えたいという発想が生まれたのだろう。1870年台に入ると、電信(電報)が盛んに行われるようになり、彼はそれに音声を乗せられないか? と考えるようになった。
しかし、当時、電話機のアイディアを持ち開発を進めていたベルの競争者には、後にファクシミリの原型を発明する電気技師のイライシャ・グレイ、そして発明王トーマス・エジソンがおり、対するベルはアイディアはあっても電磁気学の素養が全く無く、必要な電気機械が作れず、開発競争では常に枠外の位置に立たされていたようなものだった。
普通ならここで途方に暮れるが、しかし、聴覚障害者教育に携わっていた経緯からか、彼には強力な後援者がついて、そのお陰でトーマス・ワトソンという優秀な助手を雇うことが出来、彼の協力のもとについに世界初の電話機の開発に成功したのだった。
当時、電話は電報と違って書面を交わすことが無いから決済に向かず、更に若い恋人同士の間で糸電話が流行っていたせいで、電話など軟弱で無駄なけしからん技術であると評されていた。まあ、確かに、盛り場の片隅で若者が糸電話してたら、イライラしても仕方ないと思う。(想像してみたら、えらい光景である)
とまれ、そのため、この時代にありがちな特許訴訟も起きたが、競争者たちは訴訟費用が馬鹿にならないからとあっさりと折れてしまい、電話機発明の名誉はベルの物になったのだった。
後に、この時にエジソンが発明していたカーボンマイクを採用した送話器を取り入れ、ベルの電話機は完成した。この仕組みはその後もずっと使われ、日本でもそれをパク……インスパイヤした黒電話と呼ばれるアナログ電話が、20世紀終盤まで使われるほど完成されたものだった。
さて、音声を電気的に送るために必要な技術とは、ひとえに音声信号を電気信号へと変換する仕組みに尽きる。何もない状態からその仕組みを徐々に解き明かしていった先人たちには敬意を表すが、ここでは簡単のためにかいつまんで説明したい。
音声信号を電気信号へ変換する、一番分かりやすいものとしてはマイクロホンがある。マイクに向かってワーッと声を吹き込むと、スピーカーからその音声が聞こえる。因みにマイクもスピーカーも原理的には同じ仕組みで動いており、電話も突き詰めてしまえばそれと全く同じものだった。
このマイクロホンの仕組みをわかりやすく説明すると、音波を受けると敏感に振動する板に、磁石をくっつけておき、その先にコイルを置く。すると振動板に音が当たって磁石が揺れると、その揺れを感知してコイルに電流が流れることが分かるだろう。発電と全く同じ仕組みだ。
こうして生じた電流は、音波と同じ波のような強弱が付いており、それが電気信号となる。こうして出来上がった電気信号が、同じ仕組みを持った別のコイルに到達すると、受け取った信号と同じ動きを磁石に伝え、磁石は振動板を揺らし、それが音声となって伝わるわけだ。
この際、波形を電気的に増幅すれば音声は元より大きくなる。これがいわゆる増幅器と呼ばれるものであり、オーディオマニアに怒られそうではあるが、要はスピーカーとはアンプのついたマイクロホンと同じものだと考えてもらって構わない。
また、今回は振動板に磁石をつけたが、振動を阻害せず問題なく電気を流せる仕組みがあるのなら、動くのはコイルの方でも構わない。この仕組みをムービング・コイルと呼び、マイクやスピーカーなどに(mm)とか(mc)とか書かれてるのは、それぞれ動くのが磁石かコイルかを意味している。
では、本題に入るが、ここまで読んできたならもう分かるかも知れないが、電話機の中身もこれと同じような仕組みになっており、後はそれが2組、対になって動いているだけだ。
最初期のベルによる電話機の仕組みは下記の通りだった。
コイルには電気が流されており、それによって生じた磁界が、振動板として取り付けられた鉄板が震えることによってかき乱されると、コイルの中の電流も乱され、それが信号となって受け手に伝わる。
受け手側にもそっくりそのままの装置が用意されており、その装置のコイルに電流による信号が送られてくると、今度は逆のプロセスを経て振動板が震えるという仕組みだった。
以上である。
どんな発明もそうであるが、実物にお目にかかると、こんな簡単な仕組みで出来ちゃうのかとビックリさせられるものだが、こと音声通話に関しては特にそれが顕著だった。ベルが電磁気学に通じていたら、きっと発明は出来なかったとさえ言われている。
まず、音声を電気信号に変換する方法のシンプルさもさることながら、それがたった1本の電線によって運ばれるとは、当時の科学者たちは夢にも思わなかった。何しろ、ただのモールス信号を送るだけでも一本の電線を使用していた時代のことであり、モールス信号と音声信号が、同じ線に乗るとは誰も思わなかったのだ。
しかし、こうして得られた音声信号はかなり微弱だったらしく、後にエジソンがカーボンマイクという炭素粉末を利用したマイクを発明、それに切り替えられた。仕組みは、振動板の先に炭素粉末を入れた容器を置き、それに電流を流しておき、音波によって振動板が押されると、炭素に流れている電気抵抗が変わるという性質を利用したものだった。
これにより伝わる電気信号もベルのものと同じであり、後に電話機は受話器をベルのものに、送話器をエジソンのものにした物が作られ、これが世界中に広く広まっていくことになる。
因みに、カーボンマイクは音声を敏感に電気信号に変える能力には優れていたが、高音域を伝えることが苦手で(8000hz付近で劣化する)、そのため昔のアナログ電話を通じて伝わる声は、本物と比べて少し変化しており、人によっては実物と電話でガラリと声の雰囲気が違った。身に覚えがない人も、お父さんお母さんに聞いてみれば、確かにそうだったと答えてくれるはずである。
子供の玩具を作るために、大人たちが寄り集まって何をやってんだろう……と思いつつも、工場の商品開発部に持ち込んだら、その日の内に電話機の原型が出来てしまった。
そりゃ、彼らもそのために居るのだし、分かっていれば仕組みも簡単だし、設計図通りに作れば動くだろうが、人類の三大発明にも匹敵する機械を、こうも一足飛びに作られてしまうと、喜んで良いのやら、呆れれば良いのやら、なんとも微妙な気分になった。しかも動機があれである。
ともあれ、実際に作ってみれば難しいのは振動板くらいのもので、あとはこれまでに作ってきた既存の部品だらけだったから、みんな手慣れたものだった。
但馬一人だったら、木で筐体を作るだけでも一日仕事なのだが、工員に頼めばすぐに削りだしてくれるし、簡単な回路図くらいならもうみんな読めちゃうから、殆ど口頭で説明するだけで、その日の夕方までには試作品が出来上がっていた。
そして出来上がれば出来上がったで、みんな仕組みがある程度理解できるからか、電気を使って音声を伝えるという現象に興味津々で、実験に夢中になり、なかなか返してくれない。
それでも、ここ数日は夕飯までに帰宅していた親父さんが一喝すると、みんな彼には頭が上がらないからしぶしぶ返してくれ、「ところで、それ何に使うんです?」と尋ねられた親父さんがデレデレしながら説明すると、彼らは若干引きながらも、「きっと大受け間違いなしですよ」とヨイショし、彼に勇気を与えていた。
まあ、結論から言うと、その思惑は外れたのであるが。
家に帰り、早速とばかりに1階と2階に銅線を引いて電気を流し、いざ機械をリオンに持たせて見ても、初めのうちは興味を示したのだが、すぐに飽きて投げ出した。
彼からしてみれば、糸電話も、本物の電話も違いがわからないのだろう。がっかりした親父さんがオロオロしながら、電話の凄さを語って聴かせるのだが、そもそもリオンはまだ言葉がよく分かってなかったし、分かっていたとしても理解するのは難しかったろう。おまけに今日はドングリで作ったコマ回しに夢中で、ロクに話を聞いちゃ居なかった。
あまりしつこくすると嫌がられるので、項垂れる親父さんを慰めるべく、苦笑しながら晩酌に付き合い、呆れるお袋さんの小言を聞きながらみんなで食卓を囲んだ。
こんなに和気あいあいとした食卓は地球に居たときも殆ど無かったし、なんだか本当の家族になったような気分にもなるのだが、その度にシモンのことを思い出して、ほんの少し胸が傷んだ。
本当は、自分はここにいていい人間じゃないんだよなと、考えなくてもいいことを考えていた。物理的にも、精神的にも。
いつか自分が元の世界に帰れるとするならば、その時は本当に、アナスタシアのことを連れて行ってもいいんだろうかと、まだまだとらぬ狸のなんとやらで考えながら、帰宅するために玄関に佇んでいると、お袋さんに靴を履かしてもらっていたリオンが、但馬の洋服の裾を握りながら、眠そうな目で見上げて、
「お父さん……」
と、ポツリと呟いた。
但馬はどきりと心臓が高鳴った。
「お……お父さん!?」
唐突に飛び込んできた言葉に思わずドギマギして、
「いやいやいや、違うよ? 俺はリオンのお父さんじゃないよ。そりゃ君の保護者だし、ここ数日は一緒にいるけど、いつかは君もメディアに帰らなきゃいけないんだし、俺もいろいろあるし、それに俺はまだお父さんって年じゃないし、確かにネーミングセンスは若かった、あれを恨みに思ってるなら許して欲しい、しかし俺はまだ20にも満たない……って、あれ? 満ちちゃったんだっけ?」
不安げな瞳で見上げるリオンの視線をよけながら、シドロモドロに何だか言い訳じみた言葉を飛ばしていたら、ポカリと頭を叩かれて、
「こら! お父さんでしょう?」
と、お袋さんに怒られた。
いきなり飛び出してきた単語に面食らったが、あんたの仕業か……いや、そんな意識するものではないと分かってはいるのだが……
但馬はリオンの頭をくしゃくしゃとやってから、やけくそ気味に、
「お、お、おとたんでちゅよぉ~~~!! ペロペロペロペロペロペロ……」
とやっては、今度こそお袋さんにガン切れされていた。
リオンを預かってそろそろ2週間ほどが経ち、大分愛着は湧いてきたけれど、だからと言ってどうしていいのか分からなくて、但馬はボリボリと後頭部をかきむしっていた。
アナスタシアが苦笑いしながら隣に並び、奥から親父さんが見送りに出てくる。彼女はリオンの手を取って振り返ると、
「じゃあね?」
と言って、シモンの両親に手を振った。
リオンが真似をして手を振ると、彼らはデレッデレの顔を隠そうともしないで、
「また明日」
と言って手を振った。
シモン家は大通りから外れて照明がなく、月明かりに照らされた道を三人並んで歩いた。
アナスタシアがリオンの手を取って、あまったリオンの手を但馬が繋いで、月明かりに三人の影法師が伸びて、まるで親子のようだった。
寝ぼけ眼のリオンがうつらうつらするのを、横目でチラチラと盗み見ながら、但馬は自分がお父さんなら、アナスタシアはお母さんなんだろうか……などと、乙女チックなことを考えていた。
「……先生、やっぱりこの子、メディアに返しちゃうの?」
「ん……?」
と、ぼんやり考え事をしながら歩いていると、アナスタシアから声がかかった。彼女は依然としてリオンが孤児院に入るのを嫌がっていた。
但馬もここ数日で心変わりをしていて、それでいいとは思わなくなっていた。特に、シモンの両親の溺愛っぷりを見ていると、この出会いは子供を亡くした彼らにとってもかなりの良縁だったように思える。
しかし、だからといって、預かってきたのは但馬なのだから、勝手に彼らに預けるつもりで引き取るのは良くないだろう。メディア側に事情を説明する義務もある。
「どうするにしても、一度みんなで話し合ってみないとなあ」
これから先、どうなっていくのだろうか。どうすればいいのだろうか……月明かりの下、そんなことを考えながら歩いた。
と、その時、寝落ちしかけたリオンがガクッと体を揺らした。
ひょいとその体を支えながら、アナスタシアが大丈夫? と問いかけると、リオンは、
「お姉ちゃん……」
と言って目蓋をこすり、平気とばかりにニッコリと笑った。
……あ、そう、アナスタシアはお姉ちゃんなのね……今度は但馬の方がガクリと項垂れた。
「先生?」
突然、腰砕けになった但馬を訝しむように、アナスタシアが眉間にしわを寄せながら上目遣いで見上げてくる。但馬は気恥ずかしくなって、
「なんでもなーい!」
と叫ぶように言うと、
「よし! アーニャちゃん、1・2・3だ!」
「え?」
「1・2・3!」
掛け声と共に、彼はリオンとつないでいた手をグイッと頭の上まで引っ張り上げた。
アナスタシアはビックリしながらも、慌てて但馬と一緒にリオンを高々と持ち上げた。
突然、ふわりと宙に浮かんだリオンが、キャアキャアと歓声を上げた。
月明かりの下で、そんなふうにじゃれあいながら歩く3人は、全く別々の人生を歩んできて、たまたま一緒に暮らしているだけの、親子のように見えて親子ではなかったけれど、きっと家族は家族だったと思う。
人通りは殆ど無く、ただ3人の声が辺りに響く。
今日はこのまま家に帰って、あとは風呂に入って寝るだけだなと、但馬は風呂あがりのデザートのことを考えながら歩いていたのだが……
しかし、今日はまだまだ終わりでは無かったようだった。
「社長!」
振り返ると、フレッド君が暗がりの中を必死に走ってきていた。
彼は本社から工場長の家まで、多分、この時間ならまだ社長も居るはずだと、息せき切って路地を駆けていたところだった。するとその工場長の家のほど近くで、子供の楽しげな声が聞こえてきたので、もしやと思い近づいてみたら、そこに但馬を見つけたらしかった。
膝に手をついて、息を弾ませている彼に、
「フレッド君じゃないか。一体、どうしたの?」
「社長……大変なんです! 今、工場長の家に向かおうとしてたんですが!」
「大変って何が?」
「とにかく、一旦本社に集まってもらえませんか!? 僕は今から、工場長を連れてきます!」
そう言うと、彼は但馬の返事を待たずに、またピューと駆け抜けていった。その背中を見送りながら、但馬はアナスタシアと顔を見合わせ、首をかしげた。
何か、良からぬことが起こったのだろう……
但馬はリオンを彼女に任せると、小走りで本社へ急いだ。