リディアに制裁を!
ガク……っと体が揺れて、じんわりと水が染みだすかのように意識が覚醒しだす。パリパリと静電気のような感覚が脳内に走って、暗いトンネルから外に出てきた時のような、薄暗い視界が徐々にクリアになっていった。
山から吹き下ろす清涼な風と、昼下がりの温もりが心地よくて、ついウトウトとしていたようだ。馬車の車窓から覗く議事堂前広場には、いつの間にか港を行き交う行商人の車列が交通渋滞を起こしており、その原因となるものに対して怒りの声をあげていた。
どのくらいうたた寝していたのだろうか。頬杖をついていた肘が痛い。
タチアナ・ロレダンは、同じ車中に澄まして座るお付の家令の目を盗んであくびをかみ殺した。彼女は祖父母の代からロレダン家へ仕える家令で、言うなれば宿老、父の信頼も厚く、タチアナ自身も礼儀作法から財産管理のいろはまで、大変厳しく躾けられたせいで頭が上がらない。
もちろん、彼女のことを嫌ってるわけじゃない。幼いころに母を亡くしたタチアナにとっては、育ての母みたいなものだったのだ。
隠蔽工作が功を奏し、咎められることもなくホッと息を吐く。広場に面した建物の壁が、どことなく赤みを帯びており、どうやらそろそろ日が傾いてきたようだった。
西をイオニア海に面したコルフの街はこの時間になると、画一的な家々の土壁がセピアに染まり、なんとも言えない幻想的な雰囲気になった。本当なら、昼と夜が切り替わるその瞬間に、タチアナは家を出て、午後の勉強の疲れを癒やすために街を散歩するのが日課だった。
評議会議員の家系に生まれ、彼女自身もいずれはその跡を継ぐことを期待されているタチアナは、朝から晩まで日の出ている時間は全て勉強、勉強、勉強で、ようやく解放されるのがこの時間なのだ。
硬くなった足腰をほぐし、羽を伸ばすように背伸びしながら、彼女は海岸線に沿った防波堤の上をよく歩いた。真っ赤な太陽が紫色の水平線へ消え、海の青が藍色となるその瞬間を、防波堤に立って山から吹き下ろす風を背中に受けながら眺めていると、まるで空を飛んでいるような気分になれた。
広大な海の上には目もくらむほどの星々が輝き、そしてまるでその星の海を渡るかのようなそんな時間帯。海には無数の商船が集って、この大陸随一の港湾都市コルフに向かい舵を切った。
しかし、彼女の唯一の楽しみでもあった散歩も、大評議会が開催中のここ数日は、馬車で父を迎えるために、とんとご無沙汰であった。
議事堂前広場はいよいよ混雑を極めていた。
単純に港を行き来する商人が多いのもさることながら、間もなく評議会が閉会するのを待ち、陳情を目的とした人たちでごった返していたからだ。コルフでは現在、共和国のこれからを決める評議会が開催されており、連日白熱した議論が繰り広げられていた。
彼らの決定次第で自分たちの行く末が決まる群衆たちは、何としても自分たちの声を聞き届けて貰おうとして集まり、気がつけば身動きを取るのも困難なほどに膨れ上がっていた。賄賂を送ったり、評議会議員と懇意な金持ちならばともかく、大抵の民衆はこうして集まって声を出すことでしか、自分たちの声を聞いてもらう機会がないから必死だった。
そんな風に混雑する広場の中ほどから、花売りの少女のか細い声が聞こえてきた。
まるで濁流に飲まれる木の葉のように翻弄される少女は、クルクルと回りながら、あちこちで人に突き飛ばされるようにぶつかったが、誰も彼女のことを気にするような者は居なかった。そして彼女自身も、そこに集まった群衆のことを、せいぜい障害物程度にしか認識していなかった。
やがて彼女は流されるように広場の端まで追いやられ、そこに停まっていた馬車の車列を縫うようにして、タチアナの乗る馬車の下までやってきた。
「お花はいりませんか?」
家令が追い払おうとするのを制して、彼女は花売りの少女に向かい、値段を聞いた。
二束三文にもならないその額を聞いて、タチアナは手持ちからその倍の硬貨を取り出すと、受け取ろうとする少女の手を、わざと外して硬貨を投げた。そして、それを慌てて拾い、花を差し出す少女に向かってこう言うのだった。
「いらないわ、そんなもの。それで好きなものでも買って食べなさい」
タチアナに小銭をもらった少女は、軽くペコリとお辞儀をすると、また人混みの中に飲まれていった。彼女は誰からも注意を払われること無く、もみくちゃにされながら、クルクルクルクル回り続けるのだろう。
何の感情も示さない少女に落胆すると、タチアナは座席に深く腰を沈めた。
かつてコルフ共和国総統の父は言った。
大国であっても、貧国であっても、上の連中の生活にそう大差はない。みんな同じような服を着て、同じような物を食べ、同じような顔をしている。だから、その国の国勢を正確に把握したいなら、庶民に、特に最貧民に触れる方がよっぽど手っ取り早い。
施しを受ける者が怒り出したら、その国にはまだチャンスがある。涙を流して感謝するのは、きっと圧政に苦しんでいるからだろう。美辞麗句を並べ立てるなら、その国はたいへん裕福に違いない。これといって反応を示さないのは、それが当たり前になってしまったからだ。
それを聞いた時、初めは父が何を言ってるのか分からなかった。
だが、今にして思えば、父はこの国の現状を正確に見抜いていた。
例えば美辞麗句を並べ立てる者がいたとしたら、それは施しを受けることを生業としている、言うなればプロの物乞いだからだろう。きっと彼らは金持ちの国にしか現れない。残念(?)ながら、この国でお目にかかったことはない。
それじゃあ、当たり前のように受け取るのは何者なのか? それは元々その土地で暮らしていた人間の成れの果てだ。恐らくは職を失い、施しを受けねば生きられないほど生活が逼迫してしまったのだが、浮上する切っ掛けもなく、散財しついには破産。元々その土地で暮らしていたからどこにもいかないし、いけない。そうするとますますその生活から抜け出すことが困難となり、身動きが取れず、やがて疲れ果ててしまったのだ。
自分たちは何も変わってないはずなのに、周囲ばかり得をしてるように見えるから素直に感謝も出来ず、かと言って怒るほど元気もない。彼らは諦めてしまったのだ。
この一年、いつの間にかこの国にはそういった人々が増え、そして今、広場を埋め尽くさんばかりに集まってきていた。
コルフにかつての栄光はなく。国には失業者が溢れかえっていた。
リーン……ゴーン……リーン……ゴーン……
日は傾き、空は暗くなり、広場周辺に篝火が掲げられると、やがて議事堂の鐘の音が辺りにこだました。
それは本日の評議会が終了したことを意味しており、いろめきだつ人々のどよめきがまだ収まらないうちに、議事堂の門が開かれ、中から41人の評議員が続々と広場へと降りてきた。
「総統!!」「総統!!」「総統!!」
そんな中、タチアナの父が現れると、広場に居た人々は一斉に彼のもとに押し寄せて、声を上げて陳情をぶちまけた。しかしその声の殆どは、また別の陳情と重なって、誰の耳にも届かない雑音となり消えるのだった。
総統はそんなヒステリックな群衆にもみくちゃにされながら、SPが必死になって作る隙間を縫うようにして馬車へと近づいてきた。目的地がタチアナの乗る馬車であるせいか、押しのけられた人々がよろけて、ガツガツと馬車にぶつかり、タチアナが不快感に舌打ちをすると、目ざとい家令にジロリと睨まれた。
群衆に阻まれ一進一退をすること数分、ようやくたどり着いた総統が馬車に乗り込むと、タチアナのいる車窓にも、いくつもの手が亡者のように伸びてきた。彼らは口々に同じことを口走っていた。
「リディアに制裁を!」
総統は難しい顔をしながら目深にかぶっていた帽子を取り、手にしたステッキで天井をガンガンと叩き、御者に構わず出すように命じた。
「すまない、二人とも。だいぶ待たせてしまったな」
「お疲れ様です、お父様」
外では馬車の進路を確保しようと、SPが必死に人を押しのけている。
「それで、今日はいかがでしたか?」
「この広場の騒ぎを見ても分かるだろう。もはや、懲罰動議は既定路線だ。通さねば国民が納得しないだろうし、もはや私一人ではどうにも出来ない。まったく、どいつもこいつも、リディア! リディア! いい加減聞き飽きた!」
「リディアですか……」
前回も今回も、大評議会の議題の殆どはそれだった。詳しくは後にゆずるが、コルフは今、海を挟んだ隣国リディアとの関係が悪化し、国が揺れていたのだ。総統はジロリと広場に陣取る群衆に囲まれた評議員たちを睨みつけると、もううんざりだと言った感じに投げやりに言い放った。
「……確かに、こうも景気が悪くなると、ガス抜きは必要だ。実際、この不況はリディアの影響が多分にあるし、私だって腹立たしいよ。リディアを敵視する気持ちは分かる。だが、やり方がまずい。下手したら戦争ものだぞ……いや、もしかしたら、それこそが狙いなのかも知れんが……」
「まさか、お父様は戦争になるとおっしゃるのですか?」
総統はくつくつと笑うと苦笑交じりに言った。
「そうなって欲しくないがね。為政者として最悪の事態は常に考えて備えていなければお話にならないんだよ。戦争が起こるということも、負けたあとのことも」
「……」
「是非、お目こぼし願いたいものだ」
ガタンと馬車が揺れて、ようやく馬車がゆっくりとだが動き出した。しかし、数メートルほど進むと突然ガタガタと馬車が軋みだし、ピタリと止まるのであった。真っ赤な顔をしたSPが怒号を浴びせて群衆を押し返しているのが見える。前方の道も開けているが、馬車はピクリとも動かない。
総統はムスッとしながら、ガンガンとステッキで天井を叩いた。すると申し訳無さそうな御者の声が聞こえてきた。
「申し訳ありません、総統。タイヤがパンクしたようです。すぐに換えを持ってこさせますから……」
「パンクだと?」
釘やガラスの破片を踏んだくらいじゃビクともしない、ちょっとやそっとじゃパンクしないのが売りの分厚いリディア製のタイヤである。明らかに人為的なトラブルだろう。
総統はため息を吐くと、ステッキを持ち、馬車に乗るときに取った帽子をかぶり直した。
「やれやれ……すまない、二人とも。私はもう暫く民衆を教育せねばならないようだよ。今日もディナーは一緒に取れそうもない」
「お供いたします。旦那様」
家令は躊躇なくそう宣言すると、有無を言わさぬ勢いで先陣を切って馬車を下り、周囲を取り囲む群衆をひと睨みした。その気迫に押されたのか、馬車の周囲にポッカリと人垣の穴が空く。
総統は苦笑しながら、自分も一緒に行くと言ったほうがいいのだろうか? と戸惑っていたタチアナの頭をポンと叩いて、精一杯優しい声を作って言うのだった。
「タチアナ、君は家に帰りなさい。一人で大丈夫かね」
「はい、もちろんです」
「すまない。お母さんの命日には必ず時間を作るからね」
総統はそう言うと、馬車から下りて群衆の下へ向かった。タチアナは不安そうにそれを目で追ったが、その姿はあっという間に群衆の波に飲まれて消えるのだった。
広場は薄暗く、ものすごい数の人々が集っているというのに、それを照らすのはたった数本の篝火の炎だけだった。その炎が揺れる度に、人々の汗が反射してギラギラ光る。それがまるで闇に蠢く虫みたいで、タチアナは嫌悪感を抱くと視線をそらし、逆のドアから逃げるように馬車から下りた。