地上の光、星の光
夕方、アナスタシアを迎えに水車小屋へやって来た但馬は、何だか元気が無いように見えた。いつも何かを考えていて頭の中が忙しそうな人だから、あまり邪魔しないように自分から話しかけることは滅多にしないのだが、少し心配になって尋ねてみたら、しどろもどろになっていた。
そう言う時の彼は普段以上に饒舌で、自分から散文的な会話を振っては、訪れる沈黙に困ったような顔をしていた。但馬と水車小屋で出会ってからこれまで、アナスタシアは彼のそんな姿を見つけては不思議に思っていた。彼くらいの富豪なら、いつも自信満々で居るものだとばかり思っていたが、現実の富豪である但馬はいつも何かに悩んでいるように見えた。
自分の借金をポンと肩代わりしてくれるくらいなのに、腰が低くて他人を見下すところが全く無い。自分を含めて水車小屋の面々は、はっきり言ってしまうと下等市民だ。だから市内に近づこうとすると、嫌というほど見下される。実際、自分は但馬と一緒に歩いていないと、嫌な思いをすることになる。
しかし、彼はそんなことお構いなしに誰とでも対等に付き合い、自分を迎えに来るときなんかは、時折ジュリアやみんなにお土産を持ってきたりして、気配りを忘れることがなかった。一体、どういう育ち方をしたら、そう言う風になるのだろう。
そしてエッチなことに興味津々で、いつも女の子相手にデレデレしてるくせに、いざ水車小屋の仲間に言い寄られても、手を出すことはしなかった。どちらかと言えば、本当はそういうことが苦手で、それをよくからかわれているくらいで、案外シャイなのだ。
だから、彼は結構モテる。そして、自分はいつも羨ましがられる。
それは彼に気に入られて、上手いこと水車小屋の生活から抜け出せたと思われてるからだ。当然、彼に可愛がられていて、何度も体を重ねていると思われているからだ。けれど、彼はあの時、どうなんだ? と問われても、いつも困ることになる。自分も、彼女たちと何も変わらないのだ。彼は決して、手を出そうとしない。
先日、写真撮影に自分も使って欲しいとお願いした時から、少しよそよそしくなった感じがする。これまでの生活から、自分がそういうことをすることが嫌なのだろうなということは、何となく分かっていた。
でも、他にやれることが何もないのだ。彼は一体、自分にどうして欲しいのか……どうして彼は自分を買ったのか、それがさっぱりわからない。
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夕方、トーを尾行した結果見てしまった密会現場、一体、あれは何者だったのか……出ない結論で頭のなかがグルグルするままに夕食を食べ、風呂に入り、入れ替わりにアナスタシアが風呂に向かうと、但馬はいそいそと台所でまた男の料理を始めた。
こういう時は何か手を動かしていた方が気が紛れるというものである。それに、買ってきた物が物だけに、時間的猶予もない。
あの後、トーに教えてもらって買いに行った氷は、本当に目ん玉が飛び出るくらい高くって、思わず店のおっさんを怒鳴りつけそうになった。日本のスーパーならタダで置いてあるくらいだ。何もドライアイスを寄越せと言ってるわけじゃない。たかが氷程度で……
しかし、よくよく考えて見れば冷蔵庫もない世界なのだ。リディアは常夏の国だし、近場の標高の高い山と言えば、例のヴィクトリア峰くらいのもので、そこから氷を持ってくることも出来ない。となると、どうやって手に入れたのだろうと言わんばかりの貴重品だ。
普段、自分が料理しないもんだから全く気にしてなかったが、アナスタシアは今までどうしていたのだろう? と言うか、この国の人達みんなだが……
「次に作る物が決まったな……」
などと呟きながら、但馬は買ってきた氷をガリガリと千枚通しで削り、それを木の容器に詰め、用意しておいた塩をぶっ掛けて、シャカシャカとかき混ぜた。
すると、どんどん氷が冷えていって、やがてマイナス20℃と言う低温にまで達するのである。これは以前硝石でも起きた吸熱効果と原理は同じで、氷の溶解熱と、塩の融解熱の相乗効果で急激に冷たくなる現象だ。
氷は溶けて水になる時に、周囲から熱を奪う。
塩が水に溶けるとき、周囲から熱を奪う。
つまり、氷が水になってその水に塩が溶けるとめっちゃ冷える。具体的に塩水が固まるマイナス20℃まで冷えるよと言うわけだ。
しかし、これを起こすには氷を溶かして塩と混ぜないといけないわけで……
温度が下がればそりゃ氷は溶けにくいから、一生懸命かき混ぜないといけないわけで……
アナスタシアが風呂からあがると、首から上を真赤にして、汗だくになりながら何かシーツに包んだ物体をフンフン振り回している、得体のしれない但馬が居た。
何やってんだ、こいつは……と言わんばかりに、いつも以上に眉間に皺を寄せているのを、但馬はハァハァ言いながら、
「あ、アーニャちゃん……て、手伝って?」
「……どうすればいいの?」
取り敢えず、渡されたシーツの端を持ち、グルングルンと遠心分離器のように中に包まれたタッパーらしき物体を二人で回すと、ガシャガシャと金属音が鳴った。それを何回か繰り返した後、不審者のごとくハァハァ言っている但馬がようやく動きを止めると、膝に手をつきながら
「……そろそろ、いいかな」
と言って、シーツの中から中身を取り出した。
そこには木の容器が入っており、その蓋を開けると中から煙がモクモクと流れだし、アナスタシアは火事だと思って一瞬ビクついたようだが、すぐにそれが冷気から発している煙だと分かって、二度ビックリしていた。
中には氷と、その間に金属の缶が詰め込まれており、但馬がそれを取り出して、蓋を開けるとクリーム色の物体が顔を覗かせた。
「ジャジャーン! あいすくり~むぅ~……!」
どこぞの猫っぽく言ってるのだが、もちろんそんなこと知らないアナスタシアから冷たい視線が突き刺さる。手に持つそれは涼し気なのだが、どうしようもなく但馬が暑苦しかった。
「なあに、それ?」
「これはですねえ」
これまた夏休みの自由研究でやった向きも多いかも知れないが、但馬がやっていたのは、家庭で簡単お手軽アイスクリーム製造法だ。
レシピは、卵、牛乳、生クリーム、砂糖、あればバニラエッセンス。これらを何かいい感じに混ぜて、ぺろりと舐めて味を整える。
こりゃ美味しいと思えるくらい撹拌したら、その辺で混ぜるのをやめて、用意しておいた金属製の容器(熱伝導率が高いので)に入れて、飛び散らないように蓋を閉める。
それを更に別の容器に入れて、缶の周りに氷を投入し、塩をぶっ掛けて、缶が冷えるように氷をかき混ぜていけば、マイナス20℃の温度で缶の中身が固まって、アイスクリームが出来上がると言う寸法だ。
但馬は缶の中からまだちょっと固まりかけを残したそれを掻き出すと皿に乗せ、どうぞとアナスタシアに差し出した。
「なんか、そうやって作ったって聞くと、お薬みたいだね……」
「いや、そんなことないんだって、食べて食べて!?」
「うん」
彼女は以前の炭酸水の時のやり取りを思い出したのかクスリと笑うと、その時の実績が功を奏したのか、躊躇せずにアイスクリームをパクリと口にした。
キンキンに冷えたアイスクリームが舌の上で溶けて、その冷たさにビックリし、それが治まった次の瞬間、口の中いっぱいにミルクの甘い味が広がり、そのとろける甘さにうっとりとしていたら、最後にキーンとコメカミに痛みが走って、彼女は頭を叩いて渋面を作った。
「わあ! いっぺんに食べちゃ駄目だよ……そっか。氷なんて滅多に口にしないもんなあ……平気?」
彼女は目をギュッとつぶり、痛みを堪えながらも、
「うん……美味しい」
と言って、涙目でウインクしながら口元をほころばせた。但馬はほっとしながら言った。
「以前、炭酸ジュース作った時に今度はこれを作ってみようって思ったんだ」
「……でも、先生。作りすぎだよ」
ようやく痛みが治まってきたアナスタシアが、頭をコンコンと叩きながら、食卓の上に雑然と積み重なった、砂糖やらミルクの容器やら、まだ中身の入ったボールを指差して、非難がましく言った。何しろ、片付けるのは彼女なのだ。
「うっ……ごめんよ。余ったのは、また明日使おうか……って、冷蔵庫もないんだよな。困ったな、どうしよう?」
「いい。平気……小麦粉を混ぜたらホットケーキミックスになると思う」
ボールに残っていた材料をぺろりと舐めて、ある程度の成分を理解した彼女が、但馬の散らかした後始末をしてくれるようだ。但馬は礼を言うと、スプーンでアイスの山を崩しながらそれを食べる彼女を見ていて自分も食べたくなり、缶からかき出して皿に並べた。
そして二人は食卓に向かい合って、会話もなく黙々とアイスクリームを食べた。そのうち、アイスを食べきったアナスタシアが、缶の中身をチラチラと気にして見ていたから、どうぞと差し出した。
さっきまで汗だくだったが、アイスクリームが体温を奪って、今はもうカラカラに乾いて心地よかった。氷が高級品とは知らず思わぬ出費になったが……あの時、トーに咄嗟に買い物を付き合ってもらって正解だった。次の商品のヒントにもなったし。
……しかし、あの時の彼は、一体何をしていたのだろう。あの但馬の名を冠する女性は? 本当にトーはただの銀行員なのだろうか……
そんな風に、謎が尽きないなとあれこれ考えていたら……対面でじっと上目遣いをしながら、但馬の顔色を伺っているアナスタシアの視線と交錯した。
彼女は少し躊躇いながら、
「……先生、何かあったの?」
と聞いてきた。彼女からそういう言葉が出るのは結構珍しい。どうやら顔に出ていたようである。但馬は心配かけまいと、
「いや、なんでもないよ……」
と言いかけたが、すぐに思い直して、やはり彼女に相談してみることにした。
「アーニャちゃん……アーニャちゃんは、その……友達が自分に何か隠し事してるって分かったらどうする?」
「それは悪いこと?」
「ん、いや……それも分からない。分からない何かを隠してるとしたら」
彼女はいつもの困ったような上目遣いでじっと考えてから、
「なら黙ってる」
と言った。
「あたしは……大事な人にも隠しておきたいことって、あると思う」
それは、どういう意味だろう? と尋ねかけて、すぐに言葉が引っ込んだ。
それは大事な人に隠し事をしていると言ってるわけじゃない。隠せるなら、隠したほうがいいこともあると言ってるのだろう。何しろ彼女は元水車小屋の住人で、隠し事など出来ない立場だった。そして隠す必要などなく、誰もがそういう目で見た。親だろうと親戚だろうと友達だろうと。そういう人たちがあそこには居るわけだ。
「そうだな」
誰にだって言いたくないことくらいあるだろう。それを彼女が言うと重みが違う。但馬は頷くと、5歳も年下の14歳の子を見くびっていたのかなと、己を恥じた。
ブリジットに相談した時、あまりにも召使いと連呼するものだから怒ったら、『じゃあ、どういう関係なんです?』と逆に問い返された。自分は、但馬と付き合いやすいとも言っていた。
それはブリジットのことを対等の友達だと思っていたからだろう。
対して、自分はアナスタシアのことをどういう風に見てたのだろうか。
彼女は犬猫じゃない。可愛がっているつもりでいたが、ちゃんと一個人として向き合ってきたと言えるのだろうか。奴隷奴隷と言われる度にムカついてきたが、それは自分の身から出た錆じゃないのか。
一度、包み隠さず、ちゃんと話した方がいいかも知れない。けど、何から話せばいいのか……但馬は少し沈黙してから、結局は何もかも最初から言わないと分からないだろうなと思い、ここへ至るまでの長い経緯を訥々と話しはじめた。
「アーニャちゃん。俺は、みんなには南の島から来たって言ってるんだけど……みんな信じてくれないんだけどね……本当は、もっと遠い国からやって来たんだ。こんなこと言ったら、もっと信じてもらえないかも知れないけど……本当なんだ」
「……うん」
「それは例えるなら、地球の裏側よりももっと遠いところでさ」
「地球って?」
「……まあ、説明が難しいけど、あまりにも遠すぎて、船や馬車をいくら乗り継いでも、帰れないような場所なんだ」
「ふーん……」
アナスタシアはくわえていたスプーンを皿に戻すと、まだ食べかけのアイスクリームに手を触れず、但馬の話を真剣に聞こうと体勢を変えた。
但馬はそれを首を振って静止すると、リラックスして聞いてくれと、話を続けた。
「どうしてリディアに来たのか、実は自分でもよく分かってなくて。で、右も左も分からないこの地で、当面暮らしていかなきゃならなかったんだけど、正直、どうしていいか分からなくてさ。そんな時、シモンが君のことを助けたいんで手伝ってくれって言ってきて。だから俺は、あいつの夢に安易に乗っかっちゃったんだよ。君のことを助けたいとか、助けなきゃとか、そんなことはこれっぽっちも思って居なかった」
結局は他人事だったのだ。いくら可愛くて、自分好みだったとしても。それだけで下心も無く大金を出す馬鹿はいない。
「でも、そのシモンが死んじゃって、俺は目標を見失ってしまったんだよ。その直前までは、仕事も順調に行ってて、金もある、今じゃ地位も名誉もある。そんな矢先に目標の方がどっか行っちゃった。それじゃどうしようって周りを見回してみても、俺の周りには誰もいない。自由気ままと言えば聞こえはいいけど、俺は結局は異邦人で、一体どこへ行けば良いのか、どこから来たのか、帰る場所が無かったんだ」
何もないあの砂浜にいきなり飛ばされて、そろそろ5ヶ月が過ぎようとしている。途中、CPNなどの怪しい痕跡は見つけたが、元の世界に帰れるほどの手がかりはまだ何も掴めてない。自分は相変わらず、それが見つかるまでは、この国でどうにかこうにか生きていかなければならないのだ。
「だから、それはシモンの夢だったかも知れないけど、夢の続きが見たかった。自分勝手な願いかも知れないけど、君が自由になるところを見たかった。でもこういうやり方は上手く行かないんだなって……今はそう思ってる。だから、これはただのお願いなんだけど……」
本当は、ちゃんと相手の顔を見て反応を確かめた方がいいのだろうけど、但馬は俯いたまま続けた。
「今度こそ君が自由になるための手伝いをさせては貰えないか。君が、俺から自由になるための手伝いを、俺にさせてはくれないか。変な言い方かも知れないけど。シモンみたいに、俺と一緒に会社作ってさ、いっぱい働いて、金儲けして、そんでその金で自由になったら……」
そして彼は困ったように、後頭部を手で掻きながら言うのだった。
「出来れば、俺が元の国に帰れるまで、手助けして欲しいと。一緒に居て欲しいなと。そんな風に思ってるんだけど……駄目かな?」
アナスタシアの皿の上ではアイスクリームが溶けてしまって、今では水面のように広がったそれにアルコールランプの弱い光が反射して、クリーム色の光がほの明るく揺れていた。そこに彼女の顔が映ってないかなと探してみたが、そう都合良くはいかず、仕方なく顔をあげたら、彼女も但馬と同じように、皿の上のアイスクリームをじっと見ていた。
駄目かな……
但馬は気恥ずかしくなって椅子から立ち上がると、赤くなる顔をパタパタと手で仰ぎながら、
「あー……せっかく風呂入ったのに汗かいちゃった。また入ってくるわ」
と言って、ドギマギしながら彼女の横を通り過ぎようとした。
するとギュッと上着の裾を掴まれて、
「……もし」
「え?」
「もし、先生の国に帰れる方法が分かったら……あたしも一緒に連れてってくれる?」
その質問は考えても見なかったので、但馬は面食らった。一緒に行けるのかな? 密入国になっちゃわないかな? 他にも色々頭を過ぎったけれども、今はそんなことを気にしてる場面では無い。但馬はオズオズと言葉を繋いだ。
「ああ、もし一緒に帰れるんなら、もちろん……でも、いいの?」
「うん」
じっと見つめる彼女の瞳はまっすぐで、嘘はないように思えた。確かに、但馬は異邦人で、この世界で一人だった。でも、一人ぼっちなのは自分だけでは無かったのかも知れない。
「そしたら、今日から俺たちはパートナーだ」
そう言って小指を付き出したら、何だろう? といった感じに、アナスタシアは首を傾げて見ていた。多分、指切りなんて慣習がないないからだろう。但馬は苦笑いしながら、
「明日から、忙しくなるぞ」
「うん」
但馬は緊張がバレないように、ゆっくりと深呼吸をすると、裾をつかむ彼女の手を握り返して、新たなパートナーに握手をした。
そうして再度風呂に向かおうと足を向けると……背中にポンと暖かい何かがぶつかってきた。
振り返らなかったが、多分、アナスタシアが抱きついてきたんだろう。ドキドキとする心臓の音は隠しようが無かった。
「ありがとう、先生」
彼女と暮らし始めて結構経つが、お礼を言われたのは、多分、これが初めてだったと思う。
「あと……アンナじゃなくて、アナスタシア」
対して、これはもう何回目だろうか。但馬は苦笑いすると、綻んでしまって締りのない顔を見られないように、そそくさと脱衣所へ入っていった。
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翌日からアナスタシアはS&H本社組に合流した。彼女を連れて出社すると、シモンの親父を始め、みんなが目を丸くした。理由を問われ、今後彼女のことを女中兼社員として働かせると宣言したら、みんな妙に納得していた。
立場をはっきりさせたことが功を奏したのか、それ以来、パッタリとトーもブリジットも奴隷だの召使いだのと悪口を言わなくなったので、やはり、但馬自身がはっきりさせなかったことが悪かったのかも知れない。
アナスタシアは生まれも育ちも庶民だったが、父親が発明家だったお陰か、読み書きはお手の物で、ついでに簡単な計算も出来たので、フレッド君の下につけて主に書類仕事をさせることにした。一人で番頭仕事をやっていた少年は大層喜び、某お姫様はショックを受けたらしく、以来、家でこっそりと勉強をしているらしい。
と言うわけで、彼女も仕事を始めたことから、一日の生活習慣が変わり、最近はすれ違いも結構発生している。彼女は朝、エリオスたちとトレーニングをして朝食を一緒に取ってから、但馬が出社すると家事をこなし、午前中に遅れて出社するとフレッド君の下につき書類仕事、時に社員のお使いをこなしてから、午後に市外の水車小屋へ巡回診療へ行き、夕方に食材を買って家に帰り、家事をこなすと言うハードスケジュールを送っている。
たまにお風呂から上がると、ウトウトと居眠りをしている彼女を見かけるようになり、少し働かせ過ぎかなと思うのだが、本人は至って充実してるらしく大丈夫だというので、もう少ししたらサマになるのかも知れないと静観していた。彼女のためにも、一日も早く冷蔵庫を開発してあげようと心に誓う。
トーの方はあの路地裏での一件以降、ボロを出す……と言ったら変かもしれないが、何者かと接触している形跡は見せなかった。一応、但馬はちゃんと面接の時に、社員のステータスを確認しているのだが……
『Toe.Male.Human, 180, 72, Age.20, 100, 89, 95, Alv.0, HP.102, MP.0, None.Status_Normal,,,,, Class.Banker, Lydian,,,,, Sword.lv3, Communication.lv8, Intelligence.lv6,,,,,,,,,』
その時は後ろの方の特性を見ても、口が達者で頭がキレる銀行員程度にしか思わなかったのだが……今にして思えば、Intelligenceには諜報と言う意味も含まれたはずだ。これはそう言う意味だったのかも知れない。
彼がどういう人生を歩んできたかは知らないが、今後は少し気に留めておいた方がいいだろう。特に、例の路地裏で接触した女性に関しては、但馬自身も気になっており、もしも危険が無いのならば接触を持ちたいのだが……紹介してよと言ったところで何が起こるかわからないので、今のところは要注意案件として、心に留めておくしかないのが現状だった。
そんな具合に、いくつかの問題を抱えながらも時は進み……
商品開発も順調に進み、白熱電球もそれなりの物が作れるまでになってきた。
その頃には工場の部門再編を行っており、製紙部門、石鹸部門、電球部門と商品のラインを元にしたグループと、錬金部門、鍛冶部門、ガラス部門と扱う素材のグループといった感じに人員を分けた。
統括するのはシモンの親父だが、そろそろ若手も育ってきており、仕事を任せられるようになって楽になったと言っていた。彼には会社の立ち上げからずっとお世話になりっぱなしで頭が上がらない。
電球は竹のフィラメントを使い、よくあるネジの形をした口金と言う金属部分に電気部品を取り付け、ガラスの球体で覆って空気を抜き、バーナーで密封する。それをソケットにクルクルと挿入して点灯という方法で作った。そのまんま、どこの家庭にもある電球を作ったと思って差し支えない。
そんなこんなで、出来がいいものは一ヶ月使っても稼働し続けるまで至ったので、そろそろ商品化しても良いだろうと、アーク灯に目をつけて商談に訪れた方々に打診を入れた。
彼らは待ってましたとばかりにすぐに話に乗ってきたが、発電とメンテナンス込みの価格設定をかなりふっかけたから商談は少し難航した。が、レストランやホテルは競合他社との競争があるので、結局は他社の出方の方が気になるらしく、大抵の場合こちらが有利に商談を進めることが出来た。
しかし、そうなってくると問題は送電線のことだった。
エジソンの方式にあやかって、後の電力需要を見据えて発電施設の独占を図ったわけだが、発電機の方はともかく、それを送る電線を街中に通そうと思っても、そもそもこの国どころか世界に電柱はない。
送電線は危険物だから建てるなら建てるで周辺住人への説明も必要だし、勝手に建てるわけにもいかないから官庁にお願いに行って、サービスカウンターみたいなところで、どこへ相談に行けばいいですかね? と尋ねていたら、いきなり近衛兵に囲まれた。
「わっ! なんだ、おまえたち! 最近は本当に何も悪さしてないぞ!? ……っていうか久々だね、君ら、元気してましたか?」
「……何を言ってるのだ、貴様は。陛下がお呼びだ」
そんなわけで、お馴染みになった近衛の騎士鎧に囲まれながら15階の階段をえっちらおっちら上がっていくと、国王の話というのは、まさにここへやって来た理由そのものであった。
『リディア王ハンスはS&H社但馬波留に対し、以下を求める。
一、インペリアルタワー内の電気照明の敷設
一、リディア中央公園の電気照明の敷設
一、ローデポリス内幹線道路の街灯設備の敷設
以上を完遂せし場合は金1000を褒美として与える』
敷設費用は別途応じるとのことだ。国王がいくらでもふっかけるが良いと言ったら、大臣の顔が青ざめていた。
国王はインペリアルタワーで公務を執り行っている関係で、このところ目の前の公園で日夜光り輝くアーク灯を見ては、ずっと気になっていたそうだ。
はて、あの太陽と見紛うばかりの明るい光は何だろう? 孫娘に訪ねてみたが、以前のこともあって守秘義務が厳しくなって答えては貰えず、風のうわさで但馬の会社が照明設備を作ってるらしいと聞いて、質問がてら今日は呼び寄せたらしい。
あれは街灯であって、明かりが強すぎるから現在は室内灯を開発して売り込んでる最中だと言ったら、それなら庁舎もやってくれと話がトントン拍子に進んだ。
国王様からの直々の依頼だからお安くしておきますよ……と言いながら、但馬は内心では公共事業化してくれたことにほくそ笑んでいた。これなら誰も電柱を設置すると言っても嫌がることもないだろう。渡りに船である。
案の定、工場から伸ばした最初の電線をつなぐため、近所の商店に尋ねてみたら、
「国王様もやるの? じゃあうちもやってくれないか」
好印象どころか、仕事が向こうの方から勝手に舞い込んできた。
そんな具合に新事業は徐々に拡大の一途を辿り……
忙しいままにどんどんと時は過ぎていき、但馬がリディアに来てから9ヶ月の月日が流れていこうとしていた。
**********************
その日、リディア中央公園の沿道には大勢の人々が詰めかけて、今か今かとその時が来るのを待っていた。
夕刻、陽は傾き、もう間もなく地平線の向こうへ消えようとしている。そんな宵闇の中、年初の出陣式に勝るとも劣らない人だかりが、これから始まるリディア始まって以来の大イベントを待つ光景はかなり異様で、事情を知らぬものが見たら、きっと天変地異の前触れのように思ったかも知れない。
何しろ、こんなに暗いのに、篝火一つ焚かれてないのだ。
人々は隣にいる人の顔を見分けるのも困難な薄闇の中で音を立てず、黙って時が来るのを待っていた。
と……その時、広場の中央に建てられた櫓の上に人影が揺らめいた。そわそわする人々の間で、ため息のようなざわめきが起こる。
そして次の瞬間、パッと花が咲いたかのように、突然、櫓の上を照らすまばゆいサーチライトの光が灯ると、
「おおおおおおおおお」
っと、あちこちから地響きのような歓声が沸き上がり、それが波のように沿道を突き抜けて遥か彼方まで続いていくのだった。
「静まれっ! 静まれーっ!!」
街角の所々に立って人々を誘導する憲兵隊が、必死に叫ぶ。しかし、そんな彼らの努力もむなしく、人々は初めて見る太陽にも劣らない明るい光にどよめきが収まらない。そして中央の櫓に国王が姿を表すと、もはや命令する声もかき消されて何も聞こえないほどの大歓声が沿道を支配した。
国王は耳がつんざかれるような激しい歓声の中、にこやかに手を振ると、それが収まるのをじっと待った。
興奮冷めやらぬ人々の歓声が静まるのに数分間を要し、ようやくそれが収まってくると、近衛兵が恭しく差し出す剣を手に取り、鞘から切っ先の欠けたその剣を抜くと、胸の前に構え、彼の前に跪く男の両肩を、ポンポンと剣の腹で優しく叩いた。
「リディア王ハンスは我が国民・但馬波瑠を騎士に叙する」
「謹んで拝命いたします」
今、中央公園の櫓の上で、新しい騎士の叙任式がとり行われていた。リディア王国が自前で与えることの出来る爵位・準男爵に次ぐ地位で爵位ではないが、これにより但馬は本物の貴族になった。
遠目には気づかれなかっただろうが、但馬は左右の耳横を剣が通り過ぎる度に、ビクリビクリと肩を震わせ、おっかなびっくり返事を返すと、大臣に手渡されたマントと勲章を肩にかけて、沿道に集まった人々の方に顔を上げた。
国王とは雲泥の差であったが、それでも但馬のために疎らな拍手があちこちから上がり、一際盛大な歓声がすぐ目の前の櫓の下……社員の集まる場所から届いてきて、彼は思わず苦笑いした。
ブリジットが目を輝かせて、一生懸命もの凄い速さで手を叩いている。隣にはシモンの親父とアナスタシアが居て、そのまた隣でトーがカメラのシャッターを切った。エリオスはなんか背中を向けている……泣いているのか?
櫓の中央に立たされた但馬は、沿道に集まった人々に向かって言った。
「えー……沿道にお集まりの皆さん。今日はわざわざご足労ありがとうございました。俺の晴れの日をこれだけの人たちに祝ってもらえて、とてもうれしく思っています……っていうか、もう待ちきれないでしょう。俺が長々とくっちゃべって台無しにしてもなんですし、ご挨拶はこれまでとして、さっさとメインイベントに移っちゃいましょう」
待ってましたと言わんばかりにあちこちから拍手が起こった。それはウェーブのように沿道から沿道へと飛び火していって、もう日が完全に暮れて真っ暗の街中で、本当のさざ波のように聞こえるのだった。
これ……ちゃんと声届いてるんだろうか。
不安に思っても仕方ない。彼はもはや気にせず、沿道に向かって大声で叫ぶように言った。
「それじゃお待ちかね、皆さん、どうぞ御覧ください。これがリディアの新しい光です!」
但馬がそう宣言すると、中央公園を取り巻く柱に、蛍のような小さな光が灯った。それらが暫くチラチラと弱い光を放っていたかと思うと……次の瞬間、真っ白な光が周囲を照らしだし、公園広場を余すところ無く白く染め上げた。
人々がそのまばゆい光に心を奪われたのも束の間、気がつけば今度はリディアインペリアルタワーのあちこちから光が溢れだして来て、夜だと言うのに庁舎の輪郭を薄っすらと浮かび上がらせるのだった。
庁舎の植え込みからも光が溢れ、ライトアップされたインペリアルタワーはとても幻想的で、集まった人々を子供みたいにウキウキさせた。
そして、その幻想的な光にうっとりと見とれていると、急にパッと自分自身が光に照らされていることに気づき、人々はビックリして辺りを見回す。
すると沿道に建てられた電柱の一つ一つに街灯が取り付けられており、まるで光の川のように、どこまでも続くメインストリートを真っ白な光で照らしていくのを見るのであった。
それは現代人からすればただの電灯の光だったかも知れない。
しかし、リディアの人たちは初めて見る美しい光景に、我を忘れ、新しい時代が始まることを感じ取るのだった。
気が付くと、誰からとも無く拍手が起こり、それがいつまでもいつまでも絶え間なく続いていく。
本当は式典がまだまだ続くはずだったのに、沿道に集まった人々が、浮かれはしゃいで、大声で歌い、愉快に踊りだしてもはや収拾が付かないので、国王は空気を読んで式典を閉会とし、国民に大いに楽しむように言って公園から去った。
近衛隊がもみくちゃになりながら、国王の退路を確保する。
そして彼らがインペリアルタワーに入ると、沿道の往来禁止が解除され、公園内に人々がどっと押し寄せてきて、いよいよ本当のお祭り騒ぎが始まった。
但馬が櫓から降りると恐らく工員が用意していたのだろう、青や黄色やピンクの紙吹雪が舞って、商魂たくましい屋台のおっさんらが、どこにそれを隠してたのかと言いたくなるようなタイミングで屋台を引いて駆けつけ、仮装行列みたいな一団が鼓笛を鳴らして通り過ぎると、それを追いかけて子供たちが駆けていった。
どこを見回してみても、音、音、音、音の洪水で、目が回りそうになる。
あっちこっちから知り合いが次々とやって来て祝辞を述べ、ついでに一発引っ叩いて去っていった。なんで? と思いつつも心が浮かれてるからか、そんなに痛くない。
メインストリートには数メートル置きに街灯が取り付けられ、今は昼のように地面を照らしていた。それはホテルやレストランのある街区まで続いており、すでに電球を導入していた彼らは、大盤振る舞いで料理を提供し、普段は店内でしか演奏しない楽団を外に出して、お祭り騒ぎに彩りを添えた。
まあ飲め、まあ食えと、次々やって来る人々の祝福に、引っ張りだこになった但馬はナイトのマントを翻しながら街を練り歩いた。
浮かれきった人々によるお祭り騒ぎは一晩中続き……まるで覚めない夢のようにいつまでもいつまでも続くのだった。
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深夜、日付が変わり、いつの間にか昇っていた2つの月が夜空に慎ましく並んでいた。
今日はどことなく元気無く見えるそれは、地上のお祭り騒ぎに遠慮してなんだろうか?
そんな風に思いながら空を見上げていたアナスタシアの元に、ようやく祝福の押し売りから解放された但馬が、酒でフラフラになりながら千鳥足でやって来た。
「おーい! アーニャちゃん!」
「……先生。だいじょぶ?」
人々の喧騒を離れ、まだ街灯の取り付けられてない港へ続く道路を歩きながら、但馬はアナスタシアに手渡されたジュースをゴクゴクと飲み干した。ぶっちゃけ、飲み過ぎで味は感じられなかったが、清涼な空気が口いっぱいに広がった感じがする。
ここへ来てから9ヶ月。そろそろ酒にも慣れてきたが、流石に今日は度を越えていた。みんな口では祝福や賛辞を述べていたが、但馬が酒に弱いことを知ってるから、酔い潰そうとする魂胆が見え見えで難儀した。もらったばかりのマントをゲロまみれにしたら殺されると言って、どうにかエリオスに助けてもらい逃げ出してきた格好だ。
エリオスはエリオスで酔っ払っていたのか、テンションが上がりきっていて、但馬をヒョイと担ぎ上げたかと思えば、肩車をして、
「ウオオオオオオーーーー!!!」
とか大声で叫んで、いきなり街をダッシュした。ビビった但馬がギャアと叫び、人々が指をさしてゲラゲラ笑った。そのままギャハギャハと笑い合う人々の輪から連れだしてもらうと、彼は人気の無い路地裏で、いきなり但馬のことをギュッと抱きしめると、
「ありがとう! ありがとう!!」
と、なんか知らないが男泣きしながら但馬の背中をバンバンと叩いた。犯されるのかと思ってケツ穴がキュッとした。
一息つくと、但馬は手近にあった階段に腰掛けて、ふぅ~っとため息を吐いた。それにしても、こんなにお祝いされるのは生まれて初めての経験だ。と言うか、普通に生きていれば祝われることなど滅多にない。入学式とかは形式張って祝われてる気がしないし、誕生日のお祝いも、遥か昔の思い出になってしまって実感が湧かなくなっていた。
クスクスと、隣から忍び笑いが聞こえる。
「先生、なんか顔がニヤついてるよ?」
「え? そう?」
変な顔でもしてたかな? と思い、顔をペチペチやったりほっぺたをつねったりしていたら、隣に座るアナスタシアがじっと夜空を見上げていることに気づいた。
中空には2つの月がのぼり、いつものリディアの空を形作っていた。しかし、アナスタシアには違って見えるので、
「先生……あのね? なんだか、今日は空が少しおかしい気がするんだけど……なんでなんだろう」
「え? そう? どう変なのかな」
「……なんだか、少し元気がないような……」
彼女のキャラクターからして『今日は風が騒がしい』とか言ってるわけじゃないだろう。
そう言われ、じっと意識して空を見上げた但馬の目には、元気が無いどころか、何か懐かしいような、それでいていつも以上にくっきりとした夜空に見えた。なんで見る人によって違いが感じられるんだろうか? と思いながら、尚もじっと星空を眺めていると……
「あ……そうか」
「……わかったの?」
但馬は空に星が沢山集まっている場所……天の川を見つけると、そこに一際明るい3つの星、即ち、はくちょう座のデネブ、こと座のベガ、わし座のアルタイルを見つけて指差した。
「夏の大三角形だ。そうか……なんか懐かしいなと思ったら、自分がよく見ていた星空に、良く似てたからなんだな」
「……どういうこと?」
「今日の空は、俺のいた国の空に似てるんだよ……俺の国は、星の殆ど見えない国でね。見えるのせいぜい、あそこに見える三角形くらいだった」
「へえ……先生の国はとても夜が暗いんだね」
ポカーンと口を半開きながら、アナスタシアが天の川を見上げている。
「いや、逆なんだ。俺の国は一晩中街が明るくてね……ほら、今日は夜なのに地上が明るいでしょう? そうすると、夜空の星がその光のせいで見えなくなって、まるで空が暗くなってしまったように見えるんだよ」
都市の過剰な光により天体観測に障害を及ぼすことを、公害になぞらえて光害と言った。
但馬は生まれも育ちも大都会千葉、都市部なので、普段から殆ど星のない空の下で暮らしていた。だから、一度林間学校で田舎に行った時、同じ空のはずなのにものすごい数の星が見えてびっくりした記憶がある。
但馬が今見ているリディアの空がまさにその時の星空に匹敵するのだが……普段はもっともっと宝石箱をひっくり返したような溢れんばかりの星の海を見て育ったアナスタシアには、逆に今日の夜空が寂しく見えたのだろう。
「ふーん……じゃあ、これからはこの空が普通になるの?」
「ん……まあ、そうなっちゃうな……市街から離れたら元の星空が見えるけど。どのくらい離れたらいいんだろうか……それにしても懐かしいな。そうだ。この国にも星の逸話とかってあるの? 織姫と彦星みたいなの」
「……?」
アナスタシアは首を捻っている。
「あの、特に星が沢山輝いてるとこ、あれを川に見立てて、天の川って言ってたんだけど。そこにある3つの一際明るい星があるでしょう」
「うん」
「あれの川を挟んで対岸にある2つの星は恋人同士で、その昔、二人があんまりにもイチャイチャしすぎて仕事しないもんだから、怒った神様が二人を川の両岸に引き裂いちゃったんだ」
「自業自得だね」
「う、うん……そういやそうだね。まあ、そんなわけで引き裂かれちゃったふたりだけど、それじゃあんまりにも可哀想だからって、1年に一回だけ、7月7日の七夕の夜だけ会える約束にしたんだよ」
「神様もケチだね」
「……俺も、そう思う」
身も蓋もないアナスタシアの感想を苦笑いして聞きながら、但馬は星空を見上げ、よく見知った星座を目で結んでいった。
と言っても。星座のことなど殆ど知らない。せいぜい分かるのは、Wの形をしたカシオペア座や、それから北極星を挟んだ向かい側にある、おおぐま座の北斗七星。あとは車のマークだからおぼえている、日本ではスバルと呼ばれるプレアデス星団や、それからオリオン座……
「……って、え?」
と、その時、但馬は星座を結びながら、何か自分がとんでもないことをしているような、どうしようもない不安に駆られた。
「……どうしたの? 先生」
「いや……」
なんだろう、この気持ちは……2つの月に並ぶようにして見える、夏の大三角形をじっと見据えながら、但馬はその違和感の正体を探り……そして、その正体に気がついた。
さっきから自分は一体何を見てるんだ?
何で、地球と同じ星座が、この得体のしれない惑星から見えるんだ?
ガバッ! っと、但馬は立ち上がると、有無を言わさず海岸までダッシュした。ビックリしたアナスタシアが、酔っぱらいを一人にしてはならないと言った感じに急いで追っかけてくる。
「先生! 先生ってば!」
但馬は背後からかかる声に答えずに、
「デネブ、アルタイル、ベガ……」
夜空にある見知った星を片っ端から見つけて行った。
「カシオペア、北斗七星、スバルに……あれがシリウス。えーっと、冬の三角形ってなんだっけ……あれ? あれれれ??」
確か、全天の一等星の中で最も明るいおおいぬ座のシリウスと、こいぬ座のプロキオン、それからオリオン座のα星ベテルギウス……
「……無い」
呆然と夜空を見上げる但馬に、ようやく追いついたアナスタシアが非難がましく尋ねた。
「先生、どうしたの、一体……何が無いの?」
「ベテルギウスが、無い……」
中心の三連星が特徴的なオリオン座。その左肩にあるはずの真っ赤な星ベテルギウス……全天21の一等星の一つで、地球から約642光年と近く、脈動変光する赤色超巨星。恒星寿命の末期にあるとされ、その巨大な質量は、いつ超新星爆発を起こすかわからないと言われている。
そのベテルギウスがどこにも無かった。
オリオン座の右下には真っ白な一等星リゲルが煌々と輝いて、その存在感を力強く主張していた。まるでオリオン座は最初から三角形の形をしていたと言わんばかりに……
そしてオリオンの左肩は、ポッカリと黒く塗りつぶされていて、とても無残な姿を晒していたのである。
(第二章、了)