ウルフには素質がない
ウルフ・ゲーリックはリディア王太子の父と、エトルリア貴族の母の長男として生まれた。将来のリディア王と嘱望された赤ん坊は両親のみならず、祖父である国王、臣民たちに愛されてすくすくと育った。
しかし彼は幼い頃から病弱で、身体能力が同年代の男子に比べて著しく劣っており、やがて成長してそれが発覚すると、剣豪であった父親をひどく落胆させた。ウルフはその父親の期待に応えようと頑張ったが、生まれついての体の弱さが祟って、剣を振るっても怪我をしてばかりで、ついには父親に失望される始末だった。
そんな彼のことを母親は溺愛したが、そのことがまた父には女にかばわれる軟弱者と映ったらしく、物心つく頃にはすっかり父親からの期待は失われ、いてもいなくてもどちらでも構わない、無関心の対象にされていた。
剣が駄目でも勉強が出来たから、彼はそっちのほうで必死に気を引こうとしたのだが、母親は褒めてくれたけれども、父親はやはり殆ど興味を示さなかった。そんな時、妹が生まれた。
妹は生まれついての天才だった。まだ年端もいかないのに魔法を駆使して戦うと、大人顔負けの実力を発揮して父親を大層喜ばせた。そして妹が男の子だったら良かったのにと、嘆く父親の声を聞きながら育ったウルフはいよいよ屈折し、ますます勉強にのめり込んでいった。勉強をしている間は、不愉快な現実を見ないで済むからに他ならなかった。
リディア王ハンスはそんな孫を不憫に思い、息子を窘めると色々と世話を焼くようになった。そもそも為政者としては、腕っ節よりも政治や学問の方が重要なのは言うまでもない。勉強が好きなら、そっちの方を伸ばせばいいという方針から、彼は孫に早くから国政を学ばせようと便宜を図ってくれた。
こうして、兄は学問を、妹は剣術と、兄妹はそれぞれ別の道を進んだ。兄は父親の失望を隠さない態度から、少々ひねくれて育ったが、兄妹はお互いに違う道を歩んでいることから競争心などが全く無く、傍目にもかなり仲の良い兄妹に育っていった。
兄は頭の良さから、ヤンチャで野生児のように遊びまわる妹を少々馬鹿にしていたきらいもあった。まだ年端もいかないエトルリア皇女を引き連れて、毎日のように騎士ごっこをして遊ぶ妹と自分とは、住む世界が違うのだからと、そうやって密かに心の整理をつけていた。
しかし、そんな時、北の大陸で勇者が死んだ。
その噂は大陸中を駆け巡って、やがてリディアにも届いた。
その死についての情報はひどく曖昧で、とても信じられない勇者信奉者たちは動揺した。リディアは元々勇者に助けられて建国したような国だったから、国内に勇者の信奉者はかなり多く、実はリディア王太子もその一人だった。
彼は勇者の死の真実を知りたがり、国王の制止を聞かずに北へと向かった。国王も結局は、聡明で剣の腕前でも鳴らした彼に何かあるとは思わず、強くは止めずに楽観視していたのだ。しかし、結果は知っての通り……王太子は北の地でその短い生涯を終える。
その知らせに国中が動揺し、国王は意気消沈し、王太子妃である母は寝込んだ。ウルフもショックを受けたが、正直なところ、うるさい父親がいなくなってホッとしていた面もあった。だが、父親の死を心底嘆き悲しんで、毎日のように泣いている妹を見ていると、自分がひどく薄汚れたもののように感じられた。
王太子を亡くしたリディア王は、自動的にウルフを後継者として選んだ。彼は父の死が伝えられてから間もなくして、宮殿でそのように告げられた。行く行くは父親の跡を継いで国王になる定めだった。思わぬ事態にそれが早まったが、彼はすでに決意を固めており、祖父にそう言われても特に何も思わず受け入れた。
彼のことを唯一気をかけてくれていた母親は、あれ以来反戦運動に熱を上げるようになり、精神的にかなり危うい感じが見受けられた。ウルフは一日も早く自分が大人になって、家族を守れるようにならねばと決意を新たにした。
だが、現実は無情だ。彼は程なく、理不尽な挫折を味わうことになる。
リディア王の継承権を得たウルフは、すぐに継承の儀式を行うことになった。リディア王家にはエトルリア貴族だったころから代々受け継がれた聖遺物があり、その継承を持ってゲーリック家の当主とするのが習わしだった。
当然、リディア王の後継者として選ばれたウルフも、その聖遺物を受け継ぐ必要があったのだが……聖遺物は魔法道具、魔法の素養を持たぬものが持ったところで、何の役にもたたない代物であった。つまり、聖遺物を受け継ぐということは、それが使えることを示さねばならないことを意味していた。
しかし、リディア王より聖遺物を下賜されたウルフは、それを使うことが出来なかった。
彼には魔法の素養がなく、聖遺物が応えてくれなかったのだ。
彼の父親は魔法使いで聖遺物を自在に操り、母親も拙いながらも回復魔法の使い手だった。その二人から生まれた子供なら、ほぼ間違いなく素養は受け継がれるはずだったのだが……彼には魔法の素養が無かったのだ。
ウルフは動揺した。確かに生まれつき体は弱かったが、魔法の力まで無いとは思わず、何かの間違いではないかと、藁にもすがる思いで様々な文献を当たり、胡散臭い占い師などの言うことを聞いて、体に鞭打って修行をしたりもした。しかし、彼があがけば足掻くほど、結果は彼に現実を突きつけてくるのだった。
ウルフには素質がない。魔法が使えない。
その事実にリディア王は王太子妃の不義を疑い、夫を失ったショックもまだ癒えていなかった彼女は二重のショックでいよいよおかしくなっていった。彼女は自分の気を害する王宮から離れて反戦運動にのめり込み……そして、無防備な彼女は暗殺者の格好の的になったのである。
父親の死から続く悲劇に、いよいよ追い詰められたウルフは満身創痍の中、自分の不甲斐なさを呪った。彼の唯一の理解者であったはずの母親を失ったことは、特に彼の心に深い傷跡をつけた。
自分がこんなに弱くなければ、誰も傷つかなかったはずなのに。自分が魔法さえ使えれば、母親が疑われることはなかったのに。
そんなとき、追い打ちをかけるかのごとく、継承問題に新たな火種が投下された。
妹のブリジットが聖遺物を使いこなすことが出来ることが判明したのだ。
それどころか彼女は古の伝承でしか存在の知られていなかった技を自在に操った。彼女が聖遺物を扱えば、刀身が嘘みたいに光輝き、金剛石さえ容易く切り裂くのである。
それは誰の目にも明らかに、リディアの後継者はウルフよりもブリジットの方が相応しいと思わせた。
他ならぬ、ウルフが一番それを理解していた。
そして彼の心は崩壊した。
輝かしい才能に満ち溢れた妹と、出がらしのような兄。両親は死に、祖父にももう期待されていない。自分にはもう何も残っていない。幼い彼の心は真っ黒な感情に塗りつぶされ、もう何も見えなかった。
プライドをずたずたに引き裂かれた彼が復活するのには一年以上の月日がかかった。
度重なる不幸で心身を病んだ彼は、長い引きこもり生活から復帰した時には、人が変わったように殺伐とした性格に変貌していた。常に何かに対して怒り、自分を害する何かに対して、決して油断しないように神経を研ぎ澄ませていた。
彼は特に規律を求め、己を律することにやっきになった。その姿はまるで修行僧のようで、周りの者はそんな彼を気遣ったが、耳もくれずに彼は自分を痛めつけることに終始した。それが弱さを認めた彼の処世術だったのだ。
体を鍛えて鍛えて鍛えて、どんなに鍛えても彼は決して強くはなれない。どんなに修行して修行して修行しても、彼が魔法を使える日は絶対にやってこない。彼には才能がないから。どんなに努力しても無意味である。
しかし、それが努力を怠る理由になるのだろうか。無意味であるから頑張らないなんてことは、諦めた人間の言い訳ではないのか。
自分は王家の長男として生まれ、その王位継承を当然の物と受け止めていた。しかし、その本当の意味を考えたことがあっただろうか。こうして、王位継承権を失ってみて初めて気づいたことがある。王位を継承するということは、この国を守る義務を負うということだ。しかし、この国を守るのに、王である必要はないではないか……
なら、王になれなかった自分は、せめて国を守る盾になろう。
いずれ国王になる妹のために、彼女の支えとなる知恵となろう。
自分にはもう何も残されていないから、いつか来る彼女の門出のためだけに生きようと、ただそれだけを考えて生きてきたのに。
ある日、妹は外からやってきた胡散臭い男に唆されて、この国をあっさりと捨てると言うのである。
これが怒らずに居られるだろうか。悲しまずに居られるだろうか。
彼女の行為はこの国への裏切りだ。今まで彼女を育んできてくれた人たちに対する、れっきとした裏切り行為だ。許しがたい。
でも本当は彼女が誰かに尽くそうとする気持ちも分かるのだ。自分もこの国に縋っているのだから。本当なら自分が代わってあげられれば、それが一番いいのだ。しかし、自分には実力がない。資格が無い。不甲斐ない自分のせいで、この国はもうほかに選択肢がないのだ。
だからブリジット、そんな簡単に国を捨てようとしないでくれ。この国をそんな簡単に見捨てないでくれ。
「くっ……殺せっ……」
この国を出奔し、新しい主の下へと行きたいと言う、そんな妹が尽くしたいという男が目の前に居た。あの妹が認めた相手だ。自分なんかじゃ、きっと敵わないだろう。だが、せめて一矢だけでも報いたい。その思いだけでかかって行ったというのに……
「くそ……くそ……くそ! なんでこんな奴に……! なんでこんな奴なんかに!」
なのに、その男は自分をなぶるように弄んだ。自分になぞ本気を出すまでもないと、お遊び半分で……
「俺がどんなに弱いか分かって気が済んだか!」
ウルフは叫んだ。
「俺なんか初めから相手にもならなかったろうに……どうして手加減なんかしたんだ」
「いや、手加減なんか」
「なら、どうしてこんな下らないやりかたで俺を貶める!? おまえは魔法使いだろう。初めから、俺など相手にならなかったはずなのにっ!!!」
やられるのは覚悟していた。腕の一本や二本ならくれてやるくらいの覚悟だった。何故なら、彼の実力は知っていたから。かつてリディアの丘陵地帯で、彼が魔法を行使する姿を目撃したことがある。その圧倒的な力は今も忘れていない。忘れられるはずがない。自分の求めた力を、彼は何の苦もなく使ったのだから。
だから、その圧倒的な力にやられるなら納得もいった。
だが、彼は魔法を使うこと無く、剣だけでウルフの相手をし、そして卑怯な手を使って勝ったのである。
馬鹿にするのもいい加減にしろ……
ウルフは弱々しく震える腕で投げ出された剣を掴むと、それに必死にすがりついて体を起こした。そして、痛む体に鞭打って、剣を構えた。
但馬はため息を吐いた。剣を構えるウルフが何を望んでいるのか、それが分かってしまったから。彼は初めからやられるつもりだったのだ。でもそれは、但馬が使った卑怯な手ではなく、正々堂々の勝負でだ。
しかし、そんなものを望まれても、但馬にはどうしようもない。みんな、但馬の実力を買いかぶり過ぎなのだ。
「高天原、豊葦原、底根國……」
そうして詠唱に入った彼の姿を、ウルフは一生忘れることはないだろう。
魔法使い特有のオーラを放った但馬は、かつて見たことのある、あらゆる魔法使いよりもずっと濃い緑色のオーラを放ち、そのあまりにも濃密な光で毛が逆立ってゆらゆらと揺れるのだった。
そんな光景など見たこともなかった彼が絶句していると、やがて彼の指差す上空に、金色の光点が現れた。
それは世界を覆してしまいそうなほどの圧倒的な炎の塊だった。太陽よりも明るく輝き、溶けた鉄を押し付けられたような暴力的な熱さが身を焦がす。灼熱の炎に本能が恐れおののき、手にした剣を地面に落とした。
「…………、……、…………」
但馬の詠唱はもう聞こえてこない。元々小さな声だったのもそうだが、あまりの熱さに、恐らく空気の流れがおかしくなっていたのだろう。自分が落とした剣の音さえ聞き取れなかったくらいだ。
そして、ここにいては危険だ……と思った時には、もう彼は路地の反対側まで吹き飛ばされていたのである。
灼熱の業火に全身を叩きつけられて。
それは但馬が適当に上空に向けて放ったものなのに、あさっての方向に放たれた魔法によって、地面を這いつくばっていたウルフは吹き飛ばされた。その炎は彼の肺の中の空気まで全てを奪い去り、地を裂き、天を穿った。
今、ローデポリスの上空で、地獄の釜が蓋を開けたかのようなとんでもない炎が渦巻いていた。窓ガラスのことごとくが割られてジャリジャリと地面に突き刺さり、高い建物の屋根は焦げ付き、最も酷い被害を受けた建物などは、溶けてさえいた。
そして、遅れてきた轟音が耳をつんざく。
それはまさに、荒ぶる神のなせるわざであった。
ウルフは平衡感覚を失って、目を回した。視界が反転して、ろくに周りが見えない。
ブリジットは聖遺物で自分の身を守りながら、隣に居たトーの頭を引っ叩いて気絶させていた。恐らく、但馬が魔法を使う場面を見られないように気を遣ったのだろう。
ようやく炎が収まった時には、路地裏は台風でも通り過ぎたかのようにゴミが散乱し、その殆どは焦げて黒く炭化していた。
誰もかれも一歩も動けずに、ただ今起こった出来事が信じられなくて、放心状態に陥っていた。そんな中、但馬一人だけが平然と、
「別に手加減したわけじゃないんだ。いや、手加減したんだけどさ……俺は魔法を手加減出来ないんだよ。ああ~~……何言ってっか、わけわかんねえなぁ」
但馬はボリボリと後頭部を掻きむしると、
「手加減出来なきゃこんなの使えても、何の役にも立たないだろ?」
そう言って、呆然とするウルフを残してさっさと立ち去った。寄り道に時間を食ってしまったが、アナスタシアが水車小屋で待っているはずだ。早く行かないと、帰りに食材を買って帰る事ができない。
立ち去る但馬を、ブリジットが追いかけようかどうしようかとオロオロと迷い……結局はウルフの元に走ってきて、傷ついた兄にヒール魔法をかけてくれた。
ウルフは呆然と口を開いたまま、何も言えず放心していた。
自分は何に喧嘩を売ったというのだろうか。
彼は知らず知らずの内に握りしめて固まってしまった指を、一本一本引っぺがすように開くと、自分の手のひらをワキワキとさせてみせ、生きている実感を確かめるのだった。そして、
「……くっ……くっくっく……」
自分のそのあまりの小ささに、自然と笑いがこみ上げてきて、もうそれを止めることなど出来なかった。
「ワハハハハハハハハ!!!」
ブリジットは突然笑い出した兄に奇異の目を向けた。彼はその視線に気づくと、更におかしそうに声を張り上げた。
ウルフは妹がどうして但馬についていこうとしたのか、その理由が痛いほどよく分かった。一目見ればその理由は分かる。あれは尋常ではない。
それが分かってしまったら、何だかもう、とりとめもなく笑いがこみ上げてきて、収拾がつかなくなってしまった。国だとか王位継承だとか、自分の価値観が根底から覆されてしまうような、そんな出来事が、今目の前で起きてしまったのだ。
ウルフはただ笑っていた。その笑いが収まる頃には、夜の帳が下りて、辺りはすっかり真っ暗になっていた。