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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
第二章
48/398

ブリジットにはもう二度と近づきません

 人気のない路地にある空き地に、追い詰められたブリジットの姿が見えた。


 日も陰ってきた夕方、辺りには人気が少なく、声が聞こえてこなければ、小柄な彼女の姿には気が付かなかったろう。と言うか気が付きたくなかった。


 彼女を追い込んでる主はウルフとか言う近衛兵で、


「……兄さんには関係ないじゃないですか!」


 の声の通り、どうやら彼女の兄のようだった。そう言えば大昔の話なので忘れてしまっていたが、あの声のデカい近衛兵は確かリディア王の孫と言っていたはずだ……え? マジで兄妹ですか? 恐ろしいほど似てない兄妹だなあ……


 などと考えながら、出歯亀を続けていたら、


「なんだ? レイプか? おまえも参戦しようかどうしようか迷ってるのか?」


 突如、背後から声がかかって、心臓が飛び出そうなくらいにびっくりした。


「うほっ……!? ビビった。おまえか。どこぞのお姉ちゃんのところに遊びに行ったんじゃなかったのか?」


 振り返ると我が社の不良社員(トー)が肉まんっぽいものをパクツキながら、但馬の後ろから同じように路地の中を覗き込んでいた。彼はブリジットたちの様子を関心無さそうな様子で眺めながら、ぼやいた。


「お店が始まるまで暇つぶしがてらぶらついてるのよ。そしたらおまえの姿が見えたからよ、後を尾けてきたんだ」

「なんで尾けてくんだよ。普通に声かけろよ」

「それじゃ面白く無いだろうが」


 面白いからって人のことを尾行するのかこの男は……


 呆れはするが、さもありなんと思いもする。そんなパーソナリティを持った男を雇い、一緒に出歯亀している自分もどうなのか。正直頭の痛い問題である。


 どうせブリジットの方は、兄妹喧嘩のようだし酷いことにはならないだろう。巻き込まれては面倒だし、但馬はさっさとずらかろうかと、足を向けた。


「ほう……あれは、あの時のお姫さんか。姫様がいることは知っていたがまさか、あんなことに応じるくらい気さくな人だとは思わなかったからなあ」

「そうだよな。俺は未だに信じられないくらいだ。それじゃ、アーニャちゃん迎えにいくから俺はこれで」

「お? あの男は、近衛副隊長のウルフ様か……まずいな。止めたほうがいいんじゃねえのか?」


 但馬の戻りかけた足が止まった。


「なんで?」

「兄妹つっても政敵だろ。ブリジット様は次期女王だって噂だぞ。それを快く思わない兄君が、国民へのアピールのつもりで近衛をやってるって専らの噂だ」

「……え? マジ? そんな裏事情が……」


 路地から兄妹の声が聞こえてくる。


「一体、いつまでブラブラほっつき歩いてるんだ! おまえはあんなことをされてまで、まだあの男のところへ行こうというのか!! おまえの浅はかな行動で、どれだけ陛下が心を痛めていたか、わからないとは言わせないぞ! いい加減にしろっ!!」

「そんなこと兄さんに言われたくなんかありません! 私だってちゃんと分かってます。分かってる上で、お願いしているのではないですか。一方的に押し付けてくるのは向こうの方です!」

「押し付けるとはなんたる言い草だ! おまえはこの国の国民を愛していないと言うのか!? おまえを育んでくれたこの国を、おまえは見捨てるつもりなのか!」

「そんなつもりはありませんよ! どうしていちいち曲解するんですか。私はただ、自分のやりたいことを我慢してまで、この国の女王になりたいとは思わないだけです」


 なんか、割りと重大っぽい話をしているが、こんなところで大声でやりあっちゃってもいいのだろうか……ブリジットがそもそも無名だから問題ないのか? 但馬はトーと、まあ、聞かなかったことにしようぜと目配せしあいながら、これ以上変なことを聞いてしまわないように、路地から離れようとした。


「大体、私は女王様なんて向いていません。もっと適任の人に任せたほうが良いに決まってます」

「そんな都合のいい人物などいないだろうが。向き不向きだけで、自分の責任から逃れようとするんじゃない! 世の中には、国王になりたくてもなれないやからがごまんと居るのだぞ! おまえはわがままがすぎるのだ!!」

「うるさいなあ……兄さんこそ、王様になりたいんでしょう。だったら丁度良いじゃないですか。感謝されこそすれ、非難される筋合いはありませんよ」

「なんだと……」


 雲行きが悪いな……そんな言い方したら、ただじゃ済まないんじゃなかろうか……などと考えていたら、


「きっさまああああ!!! 歯を食いしばれえええぇぇ~~~~~!!!!」

「きゃあああああっ!!」


 バチンッ!!


 っと、但馬の背後で何かが叩かれるような音がした。


 振り返ると、ウルフが拳を握りしめ、肩で息をしていた。足元には頬を押さえてへたり込んだブリジットが横座りしている。何があったかは明白で、但馬は正直ショックを受けた。


 ブリジットの鼻から真っ赤な血が垂れて、地面にポタポタと落ちた。ウルフは尚も拳を振り上げると、彼女の顔面を躊躇なく何度も何度も殴打した。


「このバカ妹が!! このっ! このっ! このぉっ!!」

「あうっ! いたっ……痛いッ! 痛いですって!!」


 ブリジットは地面に這いつくばり、容赦なしに浴びせられる殴打から逃れようと、膝をすりむかせながら必死に逃げ惑う。怒り心頭のウルフはもはや周りなど見えていない様子で、彼女のことを追いかけ回し、容赦なしに殴りつけ、その小さな体を蹴り上げた。


「ゲホッ……ゴホゴホッ……」


 その苛烈な蹴りに、ブリジットの体がくの字に折れる。


「おいっ! やめろっっ!!!」


 但馬は殆ど反射的に飛び出していた。いくら兄妹喧嘩だと言っても度が過ぎる。事情はよくわからなかったが、明らかにウルフはやり過ぎだ。但馬はむかっ腹を立てると、路地に飛び出して、尚も執拗にブリジットを追いかけ回すウルフの腰にタックルすると、彼をなぎ倒した。


 ハァハァ……と荒い息を吐いて但馬を睨みつけるウルフの顔は蒼白で、怒りを通り越して殺意でも芽生えてしまったかのように、今にも人を殺しそうな目つきをしていた。


 但馬はその瞳に一瞬怯みそうになったが、ここで引くわけにはいかないと、ぐっと拳を握りしめて言った。


「家族のことだからと黙って見ていたが、いくら何でもやり過ぎだ! ブリジットが可哀想じゃないかっ!!」

「むっ……誰かと思えば、火種の張本人がいけしゃあしゃあと……ええいっ! おまえは関係ないっ! 引っ込んでろ!!!」

「そうは行くか! 女の子の顔になんてことしやがるんだ!! こんなに真っ赤に腫れ上がって……傷が残ったら、どうするつもりだ!! もしそんなことになってみろ、俺は一生おまえを許さないっ!!」

「十字架の血がうんたらかんたら……」


 怒り心頭のまま、但馬がブリジットの腫れ上がる顔を指差したら……彼女がなにやらをブツブツ唱えたかと思うと、ポォーっと緑色のオーラが広がって、みるみるうちに彼女の傷を癒やすのだった。


 その緑色の光が収まると、ブリジットの頬はいつものように柔らかそうにプリプリしていて、スベスベツヤツヤ美白に輝いていた。睡眠とかコラーゲンとか、たっぷり取れてそうな感じである。


 ブリジットは但馬が自分を指差して固まっていることに気づくと……


「あ……なんか、すみません」


 と言ってバツが悪そうに謝った。


 出てこなきゃ良かった……


 但馬は心底そう思ったが、出てきてしまったものは仕方ない。この間をどう取り繕おうかと悩んでいたら、


「丁度いい、前々からおまえのことはいけ好かなかったのだ。俺の国で好き放題やりやがって、このペテン師。俺と勝負しろ」

「誰がペテン師だ……って、勝負?」

「抜けっ!!」


 そう言うとウルフは有無を言わさず腰に差していた長剣を引き抜いた。その刀身は研ぎ澄まされており、もう日も暮れた暗い通りなのに、やけにギラリと光って見えた。


「ちょ、ちょっと待て、勝負ってなんだ。なんでそうなる」

「貴様がブリジットを惑わせたせいでどれほど我が王家が迷惑を被ったことか……よもや知らぬとは言わせぬぞ!!」


 知りませんでした……っていうか、なんで自分のせいで彼らが喧嘩しなきゃならないのだ? しかし、そんなことを言ったらまた怒らせてしまいそうなので、但馬はしどろもどろに、


「えーっと……えーっと」

「まさか貴様、その程度の覚悟もなく、家族の諍いに割って入ったというのか。貴様のしたことは道理に反する。どこまで俺を侮辱すれば気が済むのだ! もはや我慢の限界だ!!」

「いや、確かに早とちりしたのは悪かったけど……」


 しかし、あの光景を見たら普通は飛び出すだろう? ……問題なのはこの世界に魔法とか言うデタラメな力があることの方だ……って言うか、マジでこの魔法ってなんなんだろう。ナノマシンの能力かと思いきや、こんなにも綺麗サッパリ傷を癒やしたり出来る。そんなのを見てしまうと、根底から但馬の仮説が崩れてしまったような気もしてくる。


 ともあれ、激昂し、剣を片手に威圧してくる相手をなんとかしなければならない。但馬は仕方なく、


「少々早とちりして飛び出してきたのは謝る。だが、ブリジットは俺の友達でもあるんだ。ましてや女の子がやられていたら、助けに入るのは当然だ。筋違いなんてことはないだろう」

「先生……先生が私のことをそんな風に思っていてくれてたなんて。嬉しいです!」


 なんだか潤んだ瞳でブリジットが見つめていた。おまえは少し黙ってろ。


「そんなことはもう関係ない。おまえは何度も何度もこの国を混乱たらしめた。その事実に俺は怒っているのだ。もはや我慢の限界だ。おまえが一刻もはやくこの国から出て行くか、ブリジットに二度と近づかないと誓わない限り、俺の怒りは収まらん」


 わかりました、ブリジットにはもう二度と近づきません……


 と言えたら気楽なのだが……期待するかのような、縋り付く眼差しでこちらを見つめている彼女を見ると、言った瞬間に斬り殺されそうで、とても言いだせそうな雰囲気ではなかった。かと言って、今更この国から出ていこうにも、但馬は従業員を多数抱える会社の社長だ。はい、わかりましたとは言えっこない。


 こうなっては仕方なし、但馬は覚悟を決めると彼に言った。


「くそっ……抜けと言われても、俺は剣を持ってない。これを使ってもいいか?」

「……なんだそれは……ただの棒きれではないか? ふんっ。やられた時の言い訳にしないのであれば、何を使っても許してやろう。さあ、勝負しろ!」

「……この際仕方ない。わかった、おまえとの勝負、受けて立とう。でもちょっと待ってね?」


 正直なところ、ウルフがどのくらいの使い手かはわからない。だが、ブリジットの兄だ。生半可な相手ではないだろう。そんな奴に真剣勝負を挑んだところで到底かなうはずはない……


 但馬は持っていたマスケット銃の銃口をスコスコ掃除して、火薬を詰めて、鉛球を入れて、火縄に火をつけてから、


「それじゃ、いざ尋常に勝負っ!!」

「てりゃああああーーーーー!!!」


 もはや怒りの権化と化したウルフが上段に構えて突進してくるその腹めがけて、


 ドッパーーーーーーーンッッッ!!!


 ……っと、マスケット銃をぶっ放した。


「ふぬるばらああああああああ……!!!」


 盛大に血を吹き出しながら、ウルフはもんどり打って倒れた。


 但馬は思った。わあ、痛そうだ。


「兄さん……兄さああああーーーーん!!!」


 途端に真っ青になったブリジットが悲鳴をあげて飛び込んできた。彼女は兄にヒール魔法をかけながら、


「先生、飛び道具なんて卑怯ですよっ! って言うか、なんなんですかそれ。なんという威力ですか! 初めて見ましたよ!」


 そりゃそうだろう。初見じゃなきゃ、この手は使えないから。ともかく、勝ちは勝ちだと、これ以上難癖つけられる前にずらかろうとしたのだが……


「くっ……尋常の勝負に飛び道具を使うとは……なんたる卑怯者。貴様どこまで騎士の誇りを愚弄すれば気が済むのか。もはや堪忍袋の緒が切れたぞ」


 あっという間に回復したウルフに引き止められた。回復早すぎやしないか?


「なんでだよ。何使っても良いって言ったじゃないか」

「飛び道具は禁止に決まってるだろう! ええいっ! やり直しだやり直しッ! やり直しを要求する」

「ええ~……じゃあいいよ、もう、俺の負けで……ブリジットには二度と近づかないからさ」

「っ!? 先生、酷いっ!!」


 ブリジットが捨てられた子犬のような目をしていたが、この際仕方ない。普通に勝負したら到底かないっこないだろうし。ヒールで治るとしても、切られると痛そうだから嫌なのだ。


 しかし、それでは気が済まないウルフは地団駄を踏むと、但馬の行く手を阻んで尚も勝負を挑んできた。


「勝ち逃げは汚いぞ! ちゃんと勝負するんだッ! おまえは騎士道精神がないのか」

「……でも、俺武器持ってないから」

「武器ならあるぞ。ほれ、社長、受け取れ」


 武器が無いからと言って逃げようとしたら、今まで柱の影に隠れ続けていたトーが満面に笑みを浮かべて、自分の腰に下げていた剣を放って寄越した。但馬は飛んできた剣を思わずキャッチする。おい、こら。いきなり出てきてなんという仕打ちか。


 ウルフは但馬が剣を受け取るのを見ると、


「てりゃああああーーーーー!!!」


 すかさず袈裟斬りに飛びかかってきた。恐らく、但馬がこれ以上ゴネる前に勝負をかけてしまおうと思ったのだろう。


 但馬はその突進に、咄嗟に剣を引き抜くと、


 キンッ!


 っと音を立てて、彼の斬撃を辛うじて防いだ。


「……ちぃぃっっ!!」

「おい、こら! 騎士道精神はどこへいった!」

「問答無用! 覚悟っ!!」


 キンッ! キンッ! キンッ!


 二合、三合と剣がぶつかり合う。


 但馬はいきなり始まってしまった真剣勝負に、冷や汗を垂らしながらも、なんとかウルフの攻撃を凌いだ。白刃が目の前で何度も何度もぶつかり合い、火花が散って目がくらむ。あれがもし、自分の体に食い込んだとしたら……怖気づいて手が震えた。だが、武器を取り落としてしまったら、それこそ本当に最後なのだ。彼は必死になって剣を振るった。


 但馬ははっきり言って弱い。そして竹刀を握るどころか、剣道すらやったことがなかった。ましてや真剣を振るったことなど言わずもがなだ。経験と言えばここ数日、エリオスにトレーニングという名の暴力を叩きこまれたくらいのものである。寧ろ、筋肉痛で動きは悪いはずだ。なのに、思いの外相手の攻撃を凌ぐことが出来て驚いた。


 もしかして、ほんの数日とは言えトレーニングを受けた但馬は、なにやらこの世界の不思議パワーでレベルアップでもしていたのだろうか? ヒーリングとかいうデタラメな力があるのだ。もしかしたらゲームみたいなレベルアップ法みたいな理不尽な力があってもおかしくないだろう。


 きっとそうだ。そうに違いない。体が軽い。こんな気持ちはじめて。もう何も怖くない……


 悦に入りながら剣を振るっていたら、ギャラリーの声が聞こえてきた。


「……なんか、幼稚園のお遊戯みたいだな。いや、ある意味面白いけど。あんたの兄さん、近衛副隊長でしょう?」

「お恥ずかしながら……」

「とてもそうは見えないな。あれなら、俺のほうがよっぽどいけると思うんだが」

「多分、そうでしょうね。兄さん……とっても弱いから」

「……なんで、あんた、為すがままやられてたの?」

「だって、兄さんが私に敵うわけないじゃないですか。抵抗したら話し合いになりませんもん……」

「う……うおおおおおおおおおお~~~~~~!!!!!」


 ウルフの顔がいよいよ真っ赤に染まった。心なしか攻撃も単調ながら激しくなってきた気がする。


 おかしい……真剣勝負の最中なのだが、まともに相手の顔を見れない。このままではやられてしまう。但馬は目頭が熱くのなるのを感じながら、必死に相手の剣戟を受け続けた。


「やあ! やあ! やあ!」

「てりゃ! てりゃ! てりゃ!」


 但馬はなんでブリジットのためなんかに剣を振るってるのかわからなくなってきた。かと言って、手を抜けば真剣でバッサリやられてしまう。それはゴメンだから続けていたが、モチベーションが保てない。


 もう……いいかな。切られるのは痛そうだが、どうせすぐにブリジットがヒールかけてくれるだろうし……


「先生! 手を抜いてるのが見え見えですよ! わざと負けたら回復してあげませんからね」


 そんな但馬の考えなどお見通しとばかりにブリジットが叫んだ。達人、空気読めよ。これで負けるわけには行かなくなった。但馬は泣きそうになりながら、尚もウルフと打ち合った。


 一合……二合……三合……


 カインッ……キンッ……バシッ……


 打ち合う二人は肩で息をしながら、へっぴり腰で剣を振るうと、いよいよ体力の限界が来たのか、お互いに動意づいたかのように距離を離した。


「はあはあ……どうした。息が上がってるぞ」

「はあはあ……あんたこそな」

「おまえは魔法使いなのだろう。魔法を使ってもいいんだぞ」

「……アホ抜かせ……そんなことしたら、一瞬で勝敗がついちまうわ」


 この街もろとも消し炭に変えてな……


 但馬は自分の顎が上がっていることを感じていた。多分、力を振り絞っても、次の一撃が最後のはずだ……


 それは相手も同じようだった。正眼に構えるウルフの鋭い目が但馬に突き刺さる。


 二人の呼吸が合わさり、間もなく最後の一撃がかわされるのだろう。勝負は五分五分、どっちが勝ってもおかしくない状況だった。低レベルとはいえ、その後がない状況に、ギャラリーも固唾を呑んでじっと見守っている。


 そして……


 先に動いたのはウルフだった。彼は但馬が瞬きした瞬間を捉えると、その期を逃すまいと咄嗟に動いた。それは上手く行った。


「てりゃああああーーーーー!!!!」


 勝った……ウルフは確信した。ウルフの振りかぶった剣が、今まさに但馬に振り下ろされそうになっている。


 但馬は虚を突かれ、一瞬だけ遅れてその動きに呼応した。しかし、その一瞬の遅れが命取りだった。恐らく、これからどう足掻こうとも、ウルフの剣戟のほうが先に但馬に届きそうだ。


 後手を踏んだ但馬はスローモーションに流れる景色の中で、己の負けを悟った。


 もう間もなく、自分はウルフに袈裟斬りにされて、無様に血しぶきを上げる事になるだろう。なんたる屈辱……いや、屈辱とかは別にいいのだけど、すぐ回復してもらえるとは言え、痛いの嫌だなあ……


 その痛みを想像し怯んだ但馬は、やはり潔く諦めるよりも最後まで足掻こうと、咄嗟に奥の手を放ったのだった。


「クロ! ワモン! ヤマト! スズキ! そしてミヤコ!」


 但馬が叫ぶと、その瞬間、彼の懐から黒い何かが飛び出した。


 一体何が飛び出したのか?


 速すぎて見えなかったはずなのに……なのにウルフは但馬に向かって振り下ろしていた剣を、咄嗟にその黒いものに向けていた。自分があり得ない行動をとっていることに愕然とした。


 但馬が下段に構えた剣を、地を滑るように振り上げてくるのが見えた。彼の剣が吸い込まれるようにウルフの胴を捉えていた。なのに、ウルフは今、全然別のものを切ろうと剣を振るっている。


 黒い何かを切ろうと……そう、ゴキブリを切ろうとして!


「あっ! きたないっ!!」


 ギャラリーが悲鳴のような声を上げた。おめえ、この期に及んで、まだそんな汚い手を残してたんかと言わんばかりに……


 ウルフは信じられなかった。もう、あとは重力に任せたまま、剣を軽く振り下ろすだけで勝敗は決していたのだ。なのに、気がついたらあらぬ方向に剣を向けていた。


 彼は視界の片隅に捉えたゴキブリを、それとは認識出来なかったのに、なのに今まさに命のやりとりをしている但馬ではなく、そちらの方を優先的に排除しようと動いてしまった。


 そう、それは本能なのだ。人間はゴキブリを見たら恐怖せずには居られない。人間は無意識化で忌避している何かに対しては、どんな時でも、どんな場所でも、どうしても逆らえない負の感情を抱いてしまうのだ。


 あのエリオスでさえ、ウンコまみれの但馬に対しては冷静さを失ってしまうのだ。但馬と五分五分の力しか持たないウルフでは、ゴキブリが自分めがけてダイブしてきたら、抗いようもなかっただろう。


 但馬はそれを計算して、懐に忍ばせていたゴキブリを放ったのだ(なんで懐に忍ばせていたのかは深く考えないようにしよう)


 ドカッ……!!


 峰打ちの剣がウルフの腹を叩いた。


「ゲホッ……」


 彼は肺の中の空気を全て吐き出してしまうと、力なくその場にくずおれた。


 倒れこんだウルフの顔に但馬の剣の切っ先が向けられる。勝敗は決した。


「……くっ……殺せ」


 女騎士に言われるならともかく、男に言われるのはちょっと……と思いつつ、但馬は勝負あったと剣を引っ込めた。


 ウルフはその行為に対し、情けをかけられたと一瞬怒りに燃え上がりかけたが、すぐに自分の形成が不利であることを悟ると、悔しそうに地面を叩いて叫んだ。


「くそ……くそ……くそ! なんでこんな奴に……! なんでこんな奴なんかに!」


 地面に倒れ伏すウルフは顔を真っ赤に染めながら、涙を隠そうともしないで泣き叫んだ。それは、本当に語彙の少ないセリフであったが、彼の気持ちをこれ以上無く代弁していた。


 その姿が情けなさすぎて……但馬は当事者でありながら、何だかひどく彼に同情していた。


「俺がどんなに弱いか分かって気が済んだか!」


 ウルフは叫んだ。


「俺なんか初めから相手にもならなかったろうに……どうして手加減なんかしたんだ」

「いや、手加減なんか」

「なら、どうしてこんな下らないやりかたで俺を貶める!? おまえは魔法使いだろう。初めから、俺など相手にならなかったはずなのにっ!!!」


 ウルフの叫び声が路地に響き渡った。


 なら、どうして但馬に勝負を挑んできたのだ。やられるために喧嘩を売ってきたのか。


 そっくりそのままのセリフを返すことは出来たけれども、但馬は何も言わずにただ黙って彼を見下ろしていた。辺りには誰も居らず、たまたま居たギャラリーの二人も何も言えずに立ち尽くしていた。


 ウルフはよろよろと剣を杖代わりにして立ち上がると、最後の力を振り絞って、剣を構えた。但馬はその姿を見てため息を吐くと、天に指を突き刺して、ゆっくりと呪文を口ずさんだ。


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[一言] 本来の意味で汚い戦い方…
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