ゲロと涙とゴキと但馬
「夢を見たんだ……うんちがうんちが床に散らばってた!」
「なにを言ってるんだ、あんたは」
「もう、いやだっ!! あんな思いは……もう、懲り懲りなんだよ……うぅ……」
翌朝、まだ暗いうちから、眠ってるのか起きてるのか良くわからない状況で叩き起こされた但馬は、猛烈な筋肉痛の中で抵抗を試みたが、
「社長。早朝訓練とドブさらいは関係ない。往生際が悪いぞ」
「あががががが! いたい! いたいたいたいたい!! ちょっ、マジ無理だから! わたし、二日目は重い方だから!!」
しかし、鬼軍曹と化したエリオスに哀願しても聞き入れては貰えなかった。彼は尚も布団から離れまいと抗ったが、何しろ子どもと大人ほどの体格差があるものだから、問答無用で引きずり出されて、また昨日のように外壁沿いを延々とランニングさせられた。
顎を上げるな、腕を振れと言われても、体が全く言うことを聞かない。エリオスが横であーだこーだとアドバイスをし、仕方なくなんとか応えようとはするのだが、まるで他人の体になったみたいにギクシャクしてて、まるでパントマイムのようだった。
しかし目も虚ろになってきた但馬に、流石のエリオスもいきなり飛ばし過ぎたかなと、反省しかけた時、やっぱり昨日と同じように、無理やり付き合わされたアナスタシアが追い越しざまに、
「え……もう終わりなの?」
と、思春期の青年には言ってはならないセリフを吐きながらクールダウンのストレッチを始め……但馬はそれをなんだかそろそろ癖になりそうな気分で聞きながら、
「うわあああああああああ~~~~!!!!!」
っと絶叫すると、猛烈にダッシュを決めるのであった。
その後、隙があるならいつでもかかってきなさいと言うエリオスに剣で軽くひねられ、また朝食抜きのまま出社した。朝礼を済まし、取り敢えず用意しておいたサンドイッチを腹に入れて、いい感じの疲れが眠気を誘い、ウトウトとしかけたところでタイミング悪くエリックとマイケルがやってきて、ゴネる間もなく問答無用に路地裏に連れて行かれた。
生き地獄である。
しかし二日目ともなると路地裏の雰囲気にも随分慣れた。暗く、ジメジメした通路も住めば都だ。あたり一面に漂うウンコの香りも気にならない。多分、自分自身がウンコの臭いを漂わせているからであろう。
カサカサ……カサカサカサ……
「やあ、クロ、ワモン、ヤマト、スズキ、そしてミヤコ。おはよう、今日もゴキげんだね。昨日は良く眠れたかい。俺は最悪の目覚めだったぜ、HAHAHA」
ちゅうちゅう……ちゅうちゅう……
「おっと、小鳥のさえずりかなって思ったら、アルジャーノンじゃないか。おまえ……よく見ると可愛い顔してるよな。え? 照れるなって、HAHAHA」
そんな風に精魂尽き果て虚ろな瞳の但馬が、路地裏の仲間たちと挨拶を交わしていたら、それを遠巻きに眺めていたエリックたちは……
「……ゴキブリと会話してやがる」「やばいな……あいつ、いよいよおかしくなってきたぞ」「どうしよう。気味悪くって声かけらんねえよ」
と不安そうに呟きつつも、でもまあ実害ないよね? と放置を決め込んだ。
彼らも2日連続ウンコ掃除には辟易していて、流石に今日中には終わらせたいから、アホにかまってる余裕など無かったのだ。そして昨日と打って変わって真面目になった面々は、黙々と作業に没頭した。
掃除の手順は、基本的にトンボのようなもので路地裏の汚物をかき集め、それを手桶や手押し車に詰めて川に捨てに行く、その繰り返しだ。精神的にも肉体的にもきついことを除けば、作業自体は単純でわかりやすく、気が狂っていてもなんとかなった。いや、寧ろ気が狂っている方が作業がスムースだった。
未だにウンコやゴキブリに抵抗感がある三人と違って、何かが振り切れてしまった但馬は一躍路地裏のエースに躍り出ると、嫌がる三人を引っ張って精力的に働いた。
ウンコをギュンギュンかき集める但馬を遠巻きにしながら三人は、
「……知ってるか? あいつ、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの会社の社長なんだぜ?」「う……先生……」「どうしてこうなった」
悲しそうに会話を交わすのだった。
そんなこんなで仲間に呆れられたり、路地裏の住人たちと交流したりしながら、作業を続けていくと、やがて作業分担のようなものが出来てきた。川に捨てに行く係と、トンボをかける係である。
川に捨てに行く係は基本的に一人で事足りるので、一番真面目そうなマイケルが担当し、残った三人はトンボをかける係として路地裏に残って作業したが、一箇所に固まってダラダラ掃除してても仕方ないから、そのうち自然とバラけていった。
気がつけば但馬は一人で、クロやワモンたちとキャッキャウフフしながら汚物をかき集めたり、ごちそうに群がりウゾウゾと蠢くヤマトたちが折り重なる様を、ひとつの生き物のように見たてて、
「まっくろくろすけでておいでー」
などと歌いながら汚物をかき集めていた。すると、その歌に釣られたのだろうか、路地裏にひょっこりと近所のガキどもが顔を覗かせた。
普段、こんな場所に入ってくるのは清掃夫か彼らくらいのものである。故に、彼らは但馬たちの姿を見てすぐに引き返そうとしたが、しかし自分たちのホームが綺麗になっていることに気づくと、
「ぎゃっ! おまえ、誰に断って俺達のシマ荒らしてんだ、このルンペンがっ!?」
などと凄んでくるのであった。
「誰がルンペンじゃ、口縫い合わせるぞ糞ガキがっ!」
「ここにあったウンコの山はどうしたんだよ~。今日まで、俺たちが大事に大事に育ててきたのに……う、う、うええええぇぇぇ~~~~ん!!!!」
「はあ? どうして急に泣き出すんだよ……」
号泣している子供たちが言うには、どうやら彼らは普段から路地裏に出入りして、落ちてる貴金属やらを集めて小遣い稼ぎしていたらしかった。てっきり裕福な家庭のお子様かと思いきや、市街にいてもピンキリらしく、こいつらはここで稼がない限り遊ぶ金が無いらしい。
それじゃ死活問題だろう。何とかしてやりたいが、しかし、そんなこと言われても、金目の物なら昨日あらかた片付けてしまった後だし、もう何も残っていない。施しをくれてやるのは簡単だが、同情すると図に乗りそうだしなあ……と逡巡してると、
「おい、何子供泣かしてるんだよ」「どうしたどうした?」
と、エリックたちがやってきた。子供を泣かすとは人聞きが悪い。わざとじゃないんだし、泣いてる理由の一端は彼らも負ってるのだ。但馬がムッとして、彼らに弁解しようと振り返ったら、
ドンッ!
っと、完全に油断していた背中を思いっきり押されて……
ビチャッ!
っと、但馬は顔面から、なにやらヌルっとしたこげ茶色の山に突っ込んだ。
「バーカバーカ!!」
子供たちは捨て台詞を残すと、尚も山に突っ込んだまま動けない但馬の尻を思い切り蹴飛ばして、一目散に逃げるように去っていった。
路地裏に沈黙が流れた……
エリックもトーも、身動き一つ取れなかった。
こげ茶色の山に顔面から突っ込んだ但馬はピクリともせず、生きているのか死んでいるのか分からない。でも確かめる気も起きなかった。
おっかなびっくり、
「お、おい……社長、生きてるか?」
その生死を問いかけると……やがて、ゆらりと動き出した但馬が、起き上がるために右手をヌチャっと山に突き刺し……続いて左手もビチャっと汚物を掴んで……ゆっくりと顔面パックされた無様な顔を晒した。
笑えねえ……
何と言って声をかけていいのか分からない男たちが、一歩二歩と後退る……但馬がブルブルと顔を振るうと、その飛沫が飛び散って、
「ぎゃあああああ!! やめろやめろ!!」「今、水桶とタオル持ってくるから待ってろ!!!」
と言って、彼らも一目散に路地裏から飛び出していくのだった。
一人取り残された但馬は、もはやこれ以上は汚れようもあるまいと、泣きながら地面に腰を下ろすと、
「うげぁ~~うあわあああががばばうえら……えろろろろろろろ……」
ゲロと涙を滝のように地面に浴びせかけたのだった。
数分後、胃の内容物をあらかた吐き出し、もはや精魂尽き果てた但馬は地面に突っ伏すようにぐったりとしゃがみこんでいた。水を取りに行った二人は未だに帰ってこない。水場が遠いのもあるが、そろそろ夕飯時、炊事の用意をする主婦たちで順番待ちの行列が出来ているのかもしれない……
日が傾いてきたせいか、真っ昼間でも日の当たらない路地裏は周囲に増して真っ暗になり、ぼちぼち作業をするにはきつい感じだった。もう少しで終わりそうなのだが……また明日もウンコさらいは嫌だし、後でエリオス辺りに松明でも持ってこさせようか。
「つーか、一体俺は何をやってるのだ……」
このリディアに来て約4ヶ月。それなりに上手くやって来たと思うのだが、気がつけばウンコまみれで泥を啜ってる。全身筋肉痛で、同居人にはクッサと言われ、部下にしごかれ、友達には遠巻きにドン引かれて……そういや、森で死にかけたこともあったな。
あれ? おかしいぞ? 自分はテンプレ異世界転生みたいなことしてて、王様と懇意にしてもらってて、Gカップのお姫様と友達で、超すっごい魔法を使えて、大金持ちの会社の社長のはずなのに……なんでウンコにまみれてるんだよ。
「鬱だ……死のう」
暗くてジメジメする路地裏にうずくまって己の人生を振り返っていたら、なんだかとんでもなく弱気になってきた。大体、なんで自分がこんな目に遭わなきゃならんのか。但馬は華の大学生だぞ。本当なら今頃キャンパスライフを楽しんでたのに……楽しんでるはずだ……自分みたいな劣等種が楽しめるはずが……
いかんいかん。こう暗くては気が滅入る。頭を振るって、何か灯りは無いものだろうかと、キョロキョロ辺りを見渡してみたら、辛うじて路地から西日が差す場所があって、陽の光に照らされてキラリと何かが光った。
なんだろう? と近寄ってみたら、地面を抉るようにスコップが突き刺さっていて、どうやらエリックたちが置いていったもののようだ。
なんだ、つまんねえの……と思いつつ、スコップを引き抜いて地面をザクザクと掘り返す。長いこと汚物に晒されていたせいか、土は真っ黒に変色し、地面の深い部分まで達しているようだった。
その土に面した壁は汚物に埋もれていたらしき場所と、それ以外で明らかに色が違い、但馬たちが片付けたお陰で露出した壁面は薄っすらと白い埃のような、糸のような粘菌が付着していて、どうやら土壌の汚染が壁にまで達していたように思えた。
「これ……崩れ落ちたりしないだろうな? マジで何かやばい化学反応とか起こってるんじゃ……」
……と考えたところで、但馬はガツンと頭を引っ叩かれたような衝撃を味わった。
別に物理的に殴られたわけじゃない。
どうしてこんな簡単なことに今まで気づかなかったのかと言う、己の浅はかさに頭がクラクラしただけだ。
今、汚物の取り除かれた地面は、黒い土がむき出しになっていた。それはヘドロが乾いた感じのざらついた地面で、ところどころ波打っている。いつからこの土は糞尿に晒されていたのか? そして日の当たらない路地裏は、密集した住宅の軒に覆われており、見上げても殆ど空が見えない……
但馬は光の差す通路に飛び込むと路地裏から表通りに出て、
「エリオスさん! エリオスさん! エリオスさ……エリオーーーーッッス!!!」
彼は護衛だから、こんなアホなことをやっていても必ず近場に居るはずだ。そう思い、思いっきり叫んでみると、どうしたどうした!? と、大慌てのエリオスが、あり得ないスピードですっ飛んできた。
しかし、頭の先から爪先までウンコまみれの但馬の姿を見るや、巨漢に有るまじき敏捷さでくるりと体をねじって避けると、
「わっ! 確かに、今朝はいつでもかかってきなさいと言ったが、これはたまらん。卑怯だ! 汚い!」
「何を言ってるんですか、そんなんじゃないですよ、もう。いいからちょっと事務所までひとっ走りして、俺のかばんと工具一式を持ってきてください」
「かばんと工具? そんなものを何に使うんだ。それよりちゃんと掃除は終わらせたのかい? トーとエリックがあっちの方で休憩してたが」
「く……あいつら……いいからとっとと行ってきてくださいよ。大至急! あと、あの馬鹿どもを半殺しにしてこっちに戻るように注意してきてください」
そう言うと、但馬は有無を言わさずエリオスを走らせた。エリオスは堅物だが、言われたことはきっちりとこなす。暫くすると頬を腫らして涙目の二人が帰ってきて、無言で但馬に水をバシャーっと浴びせた。いや、おまえら、自業自得だと思うのだが……
続いてゴミ捨てに行っていたマイケルも帰ってきて、やがてエリオスが言われたとおりに荷物を持って戻ってくると、但馬は道具一式を持って路地裏に逆戻りし、アルコールランプに水を入れたビーカーをかけて、暫く温めた後に路地裏の土と藁灰を投入、それをぐるぐるとかき混ぜた。
その液体を布でろ過して、また別の土を入れ……そうやってどんどん土の中の成分を濃縮していくと、やがてビーカーの底に白いクリーム色の結晶が溜まってきた。
「……もしかして、出来るかなと思ったけど。漫画で読んだ知識がこんなところで役に立つとは……うひひ、これさえあれば、これさえあれば……」
「さっきから何やってんだ? なんだそれ、うんこからラードでも抽出してんのか」
いきなりエリオスを走らせたり、謎の行動をしはじめた但馬を黙って見ていたギャラリーだったが、但馬が一人で納得していると、イライラしながらトーが訪ねてきた。
「ちげえよバーカ。まだ確定したわけじゃないから何って言えないけどさ」
これがもし、但馬の考えてる通りのものだとすれば……クックック。但馬はほくそ笑んだ。
「これさえあれば、俺達の会社に新しい利益をもたらしてくれるはずの、素晴らしい機械が作れるのさ」
但馬はそう言うと、一人満足そうなニヤニヤ笑いを浮かべて、もはや掃除なんかしてられるかと言わんばかりに、土を掘り返す作業に夢中になるのであった。
結論から言ってしまえば、この時、彼が夢中になって集めていたこの白い沈殿物こそは、硝酸カリウム……いわゆる硝石と呼ばれるものであった。
硝石とは言わずもがな、硫黄と木炭を混ぜて燃やすと激しく燃え上がる……火薬の原料のことである。