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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
グレートジャーニー(玉葱とクラリオン after story)
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ヨーロッパ遭難編⑪

 その日の朝は起きた時から、体がふわふわ宙に浮いているみたいだった。ベッドから降りると足が軽くてどこまでも飛んでいけそうで、部屋の中をくるくるコマみたいに回って遊んでいたら、目が回って床に突っ伏し、ドスンともの凄い音が家中に響き渡ったものだから、お母さんが飛んできた。


 実際には体は軽いどころか重かったらしくて、熱に浮かされた脳がおかしな勘違いをしているらしかった。起き上がろうとしても起き上がれない、そんな娘の姿を見たお母さんはびっくりして、床に転がる彼女をひょいと背負うと、医者に連れて行こうと慌てて駆け出した。


 お母さんに背負われた彼女は、いつもよりも高い視点で、いつもより早い速度で、本当に空を飛んでいるみたいだと思った。いつまでも飛んでられたら良いのにと思った。


 医者から帰ってきたらベッドに寝かされて、いつもなら行儀が悪いと言われるだろうに、布団の中でご飯を食べた。面倒くさいお風呂にも入らなくて良くて、お母さんに体を拭いてもらって、美味しい果物も沢山もらって、頼んだら好きなものを剥いてもらえた。


 そんな日は、お母さんはベッドの横の椅子に腰掛けてどこにも行かないで、心配してずっとついててくれた。だから娘にとって病気は苦しさよりも嬉しさのほうが勝っていた。ずっとこの時が続いてくれるなら、治らないほうがいいのではないかと思っていた。


 でもそれは本当の病を知らないからだった。実際には病気なんてものはただ苦しくて、理不尽で、良いことなんて何一つない。なのにあんなに楽しい思い出だけが残っているのは、どんなに辛いことだって、きっと母が楽しくしてくれていたからだ。


 5歳になる頃、その母がいなくなって、彼女は祖父の宮殿に預けられた。みんな表面上は良くしてくれていたけれど、本音では彼女のことを疎ましく思っていたようだった。しかしそのことに気づくには彼女はまだ幼すぎた。そしてそれに気づいたのは、やはり病のときだった。


 人の心を知るには病にかかるのが一番なのだ。日頃懇意にしている人たちが、いざ病気や災難に見舞われた時に、見向きもしなくなる。その時、彼女は自分が周りからどう思われているかを初めて知った。この大きな宮殿の中で、本当に自分のことを大事に思ってくれてる人など居ないのだ。


 だから彼女は飛び出した。海の向こうへと行ってしまった母を追いかけて。そして……彼女たちを捨てた父への復讐のため。


 でも、宮殿を飛び出した時、彼女はまだ5歳だった。そんな彼女がもし旅先で病に倒れたら、どうすればいいだろうか。多分、そういう時があったはずだ。だが、彼女には思いつく限り、そんな記憶はとんと無かった。


***


「……気がついた?」


 目を開けたら、夜空に月が輝いていた。さっきまで灼熱の太陽に焼かれていたと思っていたのに、どうしたんだろう? そう思って体を起こそうとすると、そんな彼女のことをハルが止めた。


「まだ起きないほうがいい。体調が優れないようだから」

「ここは? 私どうしちゃったの?」


 パチパチと焚き火が爆ぜる音が聞こえて、どうやら夜営をしているようなことは分かったが、どうしてそうしているのかが分からなかった。


「船から投げ出されて、海岸に流れ着いたことは覚えてる? ここはそこから少し歩いたとこにあるオアシスだよ。昼間、トーが斥候に行った際に見つけてくれてね……君は海岸で、熱にやられて意識が朦朧としていたんだ。それで二人でここまで運んできた」


 そう言われて焚き火の反対側を見れば、背中を向けて寝そべっているトーの姿が見えた。二人で順に焚き火の番をしていたのだろうか。彼女が今度こそ体を起こそうとしたら、額から濡れた布切れが落ちた。タオルなんて上等なものは無いから、多分、ハルが服の切れ端でもちぎり取って作ったのだろう。


 その彼は落ちた布切れを取り上げると、代わりに手元にあった器を彼女に差し出してきた。手にしてみると表面はスベスベとしていて、見た目よりもずっと軽かった。どうしてこんな焼き物があるのだろうか? 器には水がなみなみと注がれている。飲んでも平気なのかと迷っていると、


「水場はあったんだけど、煮沸する方法が無くってね。流石に生水は怖いし、どうしようか困っていたら、トーがこれを見つけてきたんだよ。見ての通り、人工物だ! 大将の予想通り、この大陸には俺たち以外の人類が本当にいたみたいなんだ。驚いただろう?」


 ハルは目を輝かせながら同意を求めてくる。男って本当にこういうのが好きだなと軽く受け流しつつ、とりあえず飲んでも平気そうなので口に含むと、まるで乾いた地面が雨を吸収するみたいに喉に吸い込まれていった。その瞬間、体が活力を取り戻したみたいに筋肉が疼き出す。それでどうやら自分は相当まずい状況だったことに気付かされた。もしも、二人がいなかったら、今頃どうなっていただろうか……


「まあ、それはさておき、まずい状況には代わりないから、早いとこ本隊と合流したほうがいいだろう。それで日の出を待ってここを離れるつもりでいるんだけど、体調が悪いところ申し訳ないけど、アーニャちゃんもそれでいいかな」

「……私、行かない」


 アンナが目を伏せながらそう言うと、ハルはその返事をある程度は予想していたのだろうか、落ち着いた口調で、


「どうして?」

「………………」

「船の甲板で、トーが言ってたことを気にしてるの?」


 返事はすぐには返ってこなかった。それでも辛抱強く待っていると、やがてアンナはたっぷり沈黙してから躊躇するように、


「……だって、今更、どの面下げてあの人と会えばいいの?」


 アンナはため息を吐くと膝を抱えて、


「知らなかったのよ……お母さんは、本当に私が小さい時に家を出ていったから……周りの大人たちは、お母さんはお父さんを迎えに行ったのよって言っていたから……だから、お父さんとお母さんはちゃんと愛し合っていて、自分が間違いで生まれたなんて思ってもみなかったのよ……」

「いや、間違いってことは決して……」


 アンナは、咄嗟に慰めの言葉をかけようとするハルを手で制して、


「自分の父親が魔王だってことは、お母さんが出ていってから初めて知ったのよ。悪いやつだってみんなが言ってた。だから勝手に、お父さんが私たち二人を捨てて家を出ていったんだって、そう思ってた……そう、思い込んでたのよ。その方が楽だから……


 でも、ちょっと考えれば分かるはずよね。リディアの宰相だった魔王の過去と、そのお姫様が今も一緒にいることを考えれば、私たち母娘のほうが邪魔なんだって……あの日、船団が海に現れた時、仲良く並ぶあんたたちを見て、本当はすぐに気づいていたのよ。でも考えたくなかったんだ」

「いいや、アンナちゃん、それは違うよ」


 アンナがまるで懺悔するように自戒していると、そんな彼女を制するように、ハルが口を挟んだ。いっつもだったら彼女のことを愛称で呼ぶ彼が、何故かその時は突然アンナと呼ぶから、彼女はドキッとして言葉を飲み込んだ。彼はそのことに気づかない様子で続けた。


「君たち母娘が邪魔だなんて、彼は、そんなことは一度として考えたこともない。彼はいつもギリギリまで、君や、君のお母さんのことを考えていた。でも……同時に、あのお姫様のことも好きだったんだよ。卑怯に思うかも知れないけど、彼はどちらを選ぶことも出来なかった。それでも最後の最後には、君のお母さんの方を選んだつもりだったんだけど……でも、それは世間が許さなかったんだ」


 それで彼は魔王になってしまった。どっちも選べなかった自分への戒めとして。しかし、どうして人を好きになることに、当事者でもない誰かの許可が必要なのか。


 ハルは暫くの間、苦虫を噛み潰したような表情をしていたが、やがて思い出したかのように苦笑いをすると、


「魔王になってからも、君のお父さんは君のことを忘れたことなんて無かったよ。本当は、ずっと側にいて、君のことを抱きしめたいと思っていたんだ。でもそうすることは出来なかった。かつて君のお母さんのことを愛せなかったように、また彼の立場がそうさせたんだ。いや、彼の立場なら、本当ならもっと我儘を言っても良かったろうに。不器用なんだよ、あの人は……」


 彼はため息混じりに言った。アンナはそんな彼の顔を覗き込みながら、


「どうして、あんたがそんな風に言い切れるわけ?」


 すると彼はまた困ったような表情を浮かべて、


「忘れているかも知れないけど、君のお父さんが魔王をやっていた時は、俺が体を提供していたんだよね。彼はこの体で日々を過ごし、あらゆる決断を下してきた。その時の記憶はこの脳に刻まれ、今も俺の記憶として残ってるんだ。だから俺には断言できる。君のお父さんは、いつも心の中では君のことを考えていた。そしてお母さんにすまないって、ずっと謝っていたんだ」

「そう……なんだ……」

「ああ、本当だ。神にかけて誓うね。だからアーニャちゃん。船に帰ったら、一度ちゃんとお父さんと話してみたら? あの人は絶対、邪魔だなんて思ってないから。きっと一生懸命聞いてくれるよ。なんなら、俺も付き合うからさ」

「……うん……」


 話をしていたら、焚き火はオレンジ色の下火となって燻っていた。ハルが慌てて炎が消えないように薪を焚べると、水気を含んだ枝がパンと景気の良い音を立てた。煙がモクモクと暗い夜空に溶け込んでいく。黒煙の向こう側で薄っすらと、満天の星が煌めいていた。


 風下に立っていたハルはゴホゴホと咳き込みながら立ち上がると、反対側へと移動していった。真っ赤になった目を擦ったら、真っ黒な煤が隈みたいにくっついていた。そんな様子を寝っ転がって見上げていたアンナは、記憶を共有しているのなら、彼もまた母やあの姫様のことを愛していたのだろうかと考えた。


 もしもそうなら、彼はどちらを選んでいたのだろうか。そして今、彼はどんな目で自分のことを見ているのだろうか。多分、聞いても答えてはくれないだろう。そして自分から聞くのも、なんだか怖かった。


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