ヨーロッパ遭難編⑩
おまたせしました。ヨーロッパ遭難編後半はじまります。7回更新予定です。よろしくおねがいします。
水の色は透明だと言うけれど、水槽が置かれたその部屋は青かった。
幼い頃、祖父の大きくてシワシワの手に引かれて、ブクブクとアクアポンプが規則正しいノイズを立てる部屋に入った。その中央には大きな水槽が置いてあって、色鮮やかな魚の群れが、まるで空を飛ぶかのようにグルグルと泳ぎ回っていた。目に見えない流れでもあるのか、小魚の群れは規則正しく、みんな同じ方へ向かっている。その間をゆったりと大きな魚が泳いでいて、彼はアンナの近くまで寄って来ると、くるりと尾鰭を翻して、反対方向へと去っていった。小魚からすればどこまでも広い空が、彼には狭い檻のようだった。
円筒形の水槽の高さは3メートルくらいはあって、全面が透明なガラスで覆われていた。アンナの向かい側には、水槽に指紋をベッタリとつけながら食い入るように覗き込んでいる子供がいて、その背後には両親らしき男女が、彼を抱きしめるように並んでいた。反射のせいで両親の顔は見えなかったけれど、その表情はよく分かる。見上げる彼の顔は照明のせいで病人みたいに黒かったけれども、どこまでも幸せそうなキャアキャアとした笑い声が聞こえてきて、彼らにはこの光景が、いつまでも美しい記憶として残っていくのだろうと、そう思った。
丁度、地球の裏側は夜、みたいな、そんな感じがした。見たことはなかったのだけれど。
「魚が好きか?」
そんな風に水槽の向こう側をじっと見つめていたら、祖父が聞いてきた。多分、熱心に魚の群れを観察していると思われたのだろう。しわくちゃの手をギュッと握り返したら、祖父はしわくちゃの顔を更にくちゃくちゃにして、彼女に微笑みを返してきた。
アンナはその顔が好きだった。でも同時に、不安でもあった。祖父が彼女にその顔を向けるたび、宮中の空気がピリピリしたからだ。
「別に……好きでも嫌いでもないわ。ちょっと可哀想に思っただけ……」
だからいつも素っ気ない態度を返すしかなかった。
「可哀想?」
「もし世界がこれだけの空間しかないのだとしたら、きっと私には耐えられないわ。彼らもいつか狭い壁を乗り越えて、どこまでも自由に飛んでいければいいのにね。あの……空飛ぶイルカみたいに」
それからしばらくして、彼女は祖父の手から飛び出した。
***
「……ーニャ……ん!」
どこか遠くから、声が聞こえる。狭い井戸の底に落ちてしまった彼女のことを、誰かが上から必死に呼びかけてる。そんな感じがした。
「ニャちゃん! アーニャ……ちゃん!!」
そんなことを漠然と考えていると、徐々に意識が覚醒してきて、いつの間にか声はすぐ側から聞こえて来るようになっていた。
パリパリと脳の中で静電気が弾けるような音がして、睡魔に抗うようにゆっくりと目を開けると、ザザンと波の音が響いて、白い波濤が上下逆さまに砕ける光景が見えた。それは世界がひっくり返ってしまったからではなく、自分がひっくり返っていることに気づくのに数秒を要したあと、彼女は弛緩する体に命令して体を起こそうとした。すると鼻の奥がツンとして、急に吐き気が込み上げてきて、堪らず咳払いをしたら、喉の奥から透明な液体がドバドバと流れ出てきた。
「おわわ!? 大丈夫かい?」
涙腺が刺激されて視界が滲む。吐きたくもないのに胃が収縮して酸っぱいものが込み上げてきた。彼女がそれを気合で押し込めると、胃のムカつきと共に口の中には塩辛さが広がっていった。どうやら意識を失った後、海水を大量に飲んでしまったらしい。
「……ここは? どこ?」
全てを吐き切った後、ようやく周囲を見回す余裕が出てきた。アンナがキョロキョロしていると、いつの間にか彼女の体を支えるようにして背中を擦っていたハルが答えた。
「覚えてない? 俺たちは航海中に、突然、怪獣に襲われて海に投げ出されたんだ。なんとか船に戻ろうとしたんだけど……大将たちは応戦しててそれどころじゃないみたいで、俺もそんなに泳ぎが上手いわけじゃないから、そのまま流されちゃって……気づいたら、この海岸に流れ着いてたんだ」
その言葉を聞きながら周囲を見渡せば、海岸線に沿って白い砂浜がどこまでも続いていて、それは真っ白い砂漠と地続きに繋がっていた。見渡す限りの白が続いており、緑色は殆ど見当たらない。
朽ち果てた流木があちこちに散らばっていて、生物の陰は殆ど無く、そう言えば、海に流されたという割にはアンナの衣服はとっくに乾いていて、鼻の頭が太陽光線でチリチリしていた。
今までに通り過ぎてきた動物たちの楽園とは打って変わって、ここはまるで死後の世界のようだった。
「おーいっ!!」
海岸線と平行に走る丘陵を眺めていると、その丘の向こう側からひょっこりと人影が現れた。彼が手に持つ何かに太陽が反射して見えづらかったが、多分、声の感じからしてトーのようだ。海に投げ出された時、彼も同じ場所にいたから、きっと一緒に流されてきたのだろう。アンナは彼の姿を認めると、バツが悪そうに背中を向けた。
彼はそんなアンナの姿には目もくれず、肩に担いだライフルを背負い直すと、砂の丘を滑るように駆け下りて、二人のいる場所まで走ってきた。ハルはそんな友人を出迎えると、
「どうだった? 船は見つかったか?」
「駄目だな。目についた一番高い丘に登ってみたんだが、海の方は見渡す限りの水平線だったぜ」
怪獣の巻き起こした津波に押し流された三人は、海流にでも乗ってしまったのだろうか、みるみる内に船から遠ざけられて、どうにかこうにか陸地に辿り着いた時には、乗ってきた船はどこにも見えなくなってしまっていた。
それでも流されきた方角くらいは分かるから、どこか高い場所に登れば船が見えるだろうと期待していたのだが、戻ってきたトーの話では、どうやら残念な結果で終わってしまったようである。
「向こうからもこっちは見えねえだろうから、救助は期待できないだろうな。あっちはあっちで、今はそんな余裕もないだろうし」
「そうか……なら仕方ない。地道に歩いて船団に戻る方法を考えよう。幸い、道に迷う心配はなさそうだしな。海岸線に沿っていけば、いつかは合流出来るだろう」
「ああ、あっちもどうにかして上陸を試みている頃だろう。問題は、俺たちがどれくらい流されてきたかってことだ。海流は意外と早いからな」
「でも数十キロってことはないだろうよ」
「だといいがな」
方針を立てると、ハルは背後を振り返って、
「それじゃアーニャちゃん。今、起きたばっかで申し訳ないんだけど、移動をお願い出来るかな? 俺たち水も食料も持ってないから、早いとこ合流しないとまずいんだ」
彼がそう言っても、アンナは二人に背を向けて地べたに座り込んだまま動こうとはしなかった。ハルがどうしたんだろう? と思って、回り込もうとしたら、彼女はまるでそれを拒絶するかのように、
「私、行かない……」
「え? 行かないって……ここで救助を待つつもりかい? まあ、体力を温存するって意味なら悪くはないけど。多分、向こうもそんな余裕はないと思うよ?」
「………………」
「まいったなあ……どうしてもって言うんなら、俺も一緒に残るけど。でも、やっぱ行かない? 起きたばっかで、まだ体力的にきついってんなら少しくらい待つよ?」
ハルが説得するも彼女は動こうとしなかった。そんな娘の姿を見て彼が困っていると、それを遠巻きに見ていたトーが、
「くだんねえ。大方、俺に口論で負かされて、まだ不貞腐れてるんだろうよ。残りたいって言うならそうさせてやりゃいいじゃねえか。なんならそのまま日本まで歩いて帰ってくれても構わないんだぜ」
「おい、トー! おまえ、いい加減にしろよ。なんでいちいち突っかかるんだ!」
「へっ! 俺は本当のことを言ってるだけだ。別に突っかかっちゃいねえよ」
「大人げないことするなって言ってんだよ! お前も副長という立場なら、船の士気に関わるような行動は慎めよ」
「はあ!? お前に士気がどうとか言われたくないね」
トーはカチンと来たのか、挑発的に唾液を吐き捨てながら、
「大体、そんなこと言うなら、日本でこいつが乗ってきてからのお前らこそどうなんだよ」
「なにぃ!?」
「ガキのご機嫌取りで急によそよそしくなりやがってよ。おまえ、こいつが乗ってきてから、但馬や姫さんとまともに会話してるか?」
「えっ……」
ハルはそう指摘されて言葉に詰まった。言われてみれば、そんな気がしなくもない。
「姫さんは姫さんで、こいつの尻ばっか追っかけてるし、但馬なんか露骨に行動範囲が狭くなって、前は艦内の巡察に積極的だったのに、今はろくに見回りもしないから、船員たちもピリピリしてて、ひでえ有り様じゃねえか!」
「そんな……ことは……ないだろう?」
「あるね。ぜってえ、あるね。何しろ俺は副長様だからなあ! 但馬が放棄した仕事は、全部俺に回ってくる仕組みなんだよ!! ったく……いい加減、見てるこっちも恥ずかしいから、親子ゲームは家に帰ってからにしてくれないか」
トーは苛立たしげに吐き捨てた。実際、イライラしているのかも知れない。彼はさっきからタバコを探すように、頻りと胸ポケットを探っている。
ハルはそんな彼に言い返そうとしたが、売り言葉に買い言葉で口論を続けていたら、余計アンナのことを傷つけてしまうかも知れないと思い直し、ぐっと言葉を飲み込んで、深呼吸をしてから、おもむろに彼女の機嫌を窺うように作り笑いを浮かべながら彼女の前へと回り込んだ。
「ゴメンね、アーニャちゃん。意地悪なおっさんがうるさいから、やっぱり移動しよう」
「何だと!?」
「もし、動きたくないんなら、俺がおぶってってもいいから……って、アーニャちゃん?」
回り込んだハルがそれでも動こうとしないアンナの顔を覗き込むと、よく見れば彼女の顔は真っ赤でいかにも暑そうなのに、それでいて体は乾ききっていて汗一つ掻いていなかった。瞳は熱でうなされているかのように虚ろで、焦点もあっていない。
ハルがそんな彼女に気づいて慌てていると、様子がおかしいことに気づいたトーも彼女の顔を覗き込んで、
「……あーあーあー……こりゃあ、熱中症だな。ったく、どこまでガキなんだよ。面倒くせえな」
「そんなこと言ってないで、早く助けなきゃ! 海に入れた方がいいのかな?」
「具合悪いやつにそんなことすんな、アホ。あっちの方に木陰があったから、まずは日の当たらない場所に連れて行くのがいいだろうよ」
二人は動かなくなったアンナの体を担ぐと、足が沈んで歩きづらい砂の丘を、必死になって登り始めた。