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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
グレートジャーニー(玉葱とクラリオン after story)
382/398

北極海周遊編⑦

 時は数刻遡る。


 スカンジナビア半島はノルウェーを目指して、探検船団は北極海を一直線に突き進んでいた。かつては氷で覆われた海も、今は赤道直下の穏やかな内海と化しており、船を阻むものは何もなかった。船団は順風満帆に航海を続けていた。


 そんな折、キュリオシティのソナー操作員は、段々と水深が浅くなってきたことで、そろそろ陸地が近いようだとブリッジに報告した。それが伝わるや乗組員たちは少し忙しなくなってきた。


 いよいよ『人間が生存しているかも知れない』大陸へとたどり着こうとしているのだ。それはあくまで可能性の話でしかなかったが、もしも本当にいたとしたら、それらは自分たちにとって友好的なのだろうか、それとも敵対的なのだろうか……相手の出方次第では戦闘だってあり得る。そのため、船団は少々浮足立っていた。


 ところが、そんな心配などする必要はないという出来事が、今まさにこの瞬間、起きていたのだ。


 ソナー操作員はブリッジに報告をしている最中、計器が指し示す数値がパルスのように跳ね上がるのを見た。地磁気の影響か何かしらが原因で、稀にそういうこともあったが、今回のは少し様子が違った。


 そのパルスのような瞬間的な計器の狂いは一回きりでなく、何度も何度も繰り返し起きていたのだ。数値が急上昇しては下がり、また急上昇してはパタリと落ちる。こんな動きは見たことがなかった。仮にこれが本当に海底にある何かを示しているとしたら、それは海底に巨大な溝みたいなものが出たり消えたり繰り返していることになる。そんなことがあり得るのだろうか?


 ソナー操作員は、これを計器の故障と捉えるべきか判断に迷った。もしもそうなら、先の報告も間違いということになる。ぬか喜びをさせた他の船員たちに非難されるかも知れない。それは少し気が重かった。とはいえ、どちらにしろ提督に報告しないわけにもいかないだろう。彼はそう判断すると、ブリッジへ再度内線を入れた。


 しかし、彼が報告するまでもなく、ブリッジは既にその異変に気づいていたのだ。


 船の前方の海中を何か黒い影が通り過ぎていく……それはクジラのように大きい何かとしか形容が出来なかったが、本当にクジラだったとしても冗談みたいな大きさだった。


 キュリオシティの全長は100メートル、船幅は約22メートル。その半分ほどの身幅があって、船よりも大きな細長い物体が、海中をうねるように泳いでいるのだ。


「なんだあれは……生き物なのか?」


 提督のつぶやきに答える者はなく、形容しがたい不穏な空気だけが、ブリッジには流れていた。


 信じられないが、もしもあれが生物だとして、この逃げ場のない海の上で絡まれてしまったら、自分たちには為すすべはないだろう。一巻の終わりだ。


 このまま何事もなく通り過ぎてくれ……


 誰もがそう願っていた。


 だがもちろん、そうは問屋が卸してはくれないようだった。船団を追走するように、海の中を悠々自適に泳いでいたその巨大な影が、やがて先頭を走るキュリオシティの前に差し掛かると……


 突然、前方の海が山のように盛り上がって、まるで巨大な噴水のように盛大に水しぶきが舞ったかと思えば、それは津波となって容赦なく押し寄せてきた。


「総員、ショックに備えろ!」


 その声とほとんど同時に、船は一瞬の浮遊感の後に、高所から叩きつけられるような衝撃に見舞われた。


 ドン! っという音の後には、ザアザアという土砂降りのような音が聞こえて、地上十数メートルのブリッジの中にまで海水が押し寄せてくる。


 水浸しのブリッジの中では、今の衝撃で立っていられなかった船員たちが折り重なるように倒れており、中には天井に頭をぶつけて血を流して気絶しているものもいた。計器類のいくつかは機能を停止し、もちろん舵も効かない。


 何かが海の底から飛び出してきた。それくらいは分かる。でも、一体何が飛び出してきたというのか?


「見ろ!」


 誰かの叫び声に、反射的に窓の外を見れば、そこには信じられない光景が広がっていた。


 まるで大昔の船乗りの伝説に登場する、巨大なウミヘビのような生物が、うねる波を蹴立てて、鎌首をもたげて、仲間の船をめがけて一直線に突き進んでいるのだ。


「シーサーペント……」


 誰かの独りごちる声が聞こえる。驚愕の出来事に誰もが身動き取れずにそれを見守っていると、次の瞬間、ドォォーーン! と追突事故でも起きたかのような巨大な音が大海原に鳴り響いて、僚艦のボイジャーの船体が巨大なウミヘビに巻き付かれているのが見えた。


 ギシギシ、メキメキと船体が軋む音がここまで聞こえてくる。まだ随分遠くに見えるのに、物凄い力で締め付けられていることが手に取るようにわかった。元軍艦であるボイジャーがいくら頑丈といえども、このままでは無事では済まないだろう。


「提督! どうすればいいですか!?」


 通信士が真っ青な顔で提督の指示を仰いでいる。衝撃で吹き飛ばされ、水浸しになった床に膝を付きながら、但馬はどうすべきか迷っていた。


 と、その時だった。


 ドンッ!


 っと、強烈な衝撃音が走って、ボイジャーから閃光が走った。それは2度、3度と立て続けに続き、その巨大な音にキーンと耳鳴りがした。


 どうやら、襲われたボイジャーが自らの艦砲でシーサーペントを砲撃したらしい。危険な行為ではあったが、判断としては間違っていなかった。至近距離からの砲撃を受けた怪物は、その痛みに耐えきれないと言わんばかりに、


「ぐももももももーーーーぅぅ!!!」


 としか形容の出来ない不思議な悲鳴を上げて、スルスルとボイジャーから解けると、逃げるように海の奥底へと潜っていった。


 その巨体が立てる波で、キュリオシティのブリッジがまた大きく揺れる……


 風と波の音だけが聞こえる中で、沈黙が流れる……


 突然の危機に見舞われて茫然自失状態だったブリッジの乗組員たちは、やがて我を取り戻すと、慌てて大声を出しながら、自分たちの持ち場に戻って計器類のチェックを始めた。


 途端に騒がしくなったブリッジの中で、但馬は艦長席に急いで戻ると、海水でジュクジュクとしている椅子に座って通信士に指示をした。


「ボイジャー、ディスカバリー両艦に繋いで被害状況を確認しろ」


 その声を聞いて落ち着きを取り戻した通信士が動き出し、但馬は続々と報告が上がってくる各艦の状況を細かくチェックした。


 やはり直接攻撃を受けたボイジャーの被害は深刻だった。なんとか大破は免れたものの、船体には亀裂が入っていて、早急の修理が必要のようだった。スクリューは動いてはいるが、動力との間に問題が発生したらしく、全力航行はもはや不可能で、操舵にも相当影響が出ているらしい。


 方角を決めてまっすぐ進むくらいなら出来るが、細かい操縦は難しいそうだ。また戦闘が起きても、もう役には立たないだろう。ボイジャーと比べれば、キュリオシティ、ディスカバリーはほぼ無傷であったが、どちらの艦内にも怪我人が続出しているようだった。


 またあれが襲ってくる前に、早くこの海域から離脱したほうがいいだろう。但馬はそう判断すると、全艦に全速前進を命じた。


 グリーンランド基地へ引き返すのではなく、このままノルウェーの海岸を目指そうという腹積もりだった。あのシーサーペントの巨体では、浅瀬までは追ってこれないだろうという判断である。幸いなことに、陸地は目と鼻の先だった。


 やはりボイジャーの速度が相当落ちてしまっており、それに合わせるために何度も船速を落とさざるを得ずヤキモキしたが、それから15分ほど船を走らせていると、見張り台から陸地発見の知らせが届いた。


 その瞬間、弛緩した空気がブリッジに流れ、溜め息があちこちから聞こえてきた。ブリッジから陸はまだ見えなかったが、遠くの空では海鳥が騒いでおり、ソナー操作員によると水深は20メートルを切っているとのことだった。ここまでくれば、もう安全だろう。寧ろ今度は座礁に気を配らなければならない。


 但馬もホッと溜め息を吐くと、まだ濡れていて気持ちが悪い座席に全身を埋めた。


 それにしても……あの巨大ウミヘビはなんだったのだ?


 少なくとも、但馬が生きていた古代の地球にはあんな生物はいなかった。いても、せいぜい20メートルくらいが限度で、あんな船の大きさに匹敵するほどの大蛇など存在するはずがなかった。


 となると、あれは海の魔物(・・)と考えるのが妥当だろうか……?


 魔物とは、決しておとぎ話の中の生き物のことではない。世界樹が生み出すマナの悪影響を受けてしまった野生動物が、通常とは異なる進化を遂げた生き物のことである。


 ガッリアの森では頻繁に目撃され、亜人たちはそれを狩って生活の糧にしていたようだが、あのウミヘビはその海版と考えればいいのではないか。あんなのがリディアの海にいなかったことを感謝するしかない。


 そんなことよりも、今はあの化け物をどうやって避けてグリーンランド基地まで戻るかであった。このまま船団が戻らなければ、基地に残してきた人員は途方に暮れるだろう。だが、まっすぐ戻ろうにも、いつまたあれと出くわすか分からない。


 あれはどの辺りに棲息している生き物なのだろうか。少なくとも、北米を航海中はあれと出会わなかったのだから、当初の予定通り、一度ベーリング海峡まで戻って、ぐるりと北極海を一周するのがいいだろうか。しかし、その場合、ダメージを受けたボイジャーがどこまで保つかという懸念があった。


 但馬がそんなことをツラツラと考えている最中だった。


「提督! 陸です! 陸が見えます!」


 誰かのそんな声が聞こえて、ブリッジの乗組員たちの間から小さな歓声が起こった。


 やっと着いたか……と、但馬も何気なく視線を窓の外にやったが、まだ遠くに小さく見えるだけのそれを見ているうちに、なんだか妙な違和感を覚えた。


 見えているのは信じられないくらい純白の砂浜で、それが水平線に沿ってまっすぐ、延々と、どこまでも続いていくのだ。


 太陽を受けてキラキラと輝き、白波と重なり合って波打ち際は見えない。それは一見して美しい光景であったが、美しいものが孕む危うさのようなものを感じさせた。


 何がそんなに不安に感じるんだろうか? 自分の違和感の正体を探っていると、同じように感じたのであろう乗組員の間からも、おかしいぞとの困惑の声があがってきて、その違和感は確信に変わった。


 確かにおかしい……おかしいのは、そう、これだけ陸に近づいても、砂浜しか見えないことだ。普通、陸地が見えたら、その先には緑生い茂る丘なり山なりが見えてくるものである。これまで調査してきた上陸地点では、大体みんな海岸のすぐそばまで森が迫ってきていた。それがここではまったく見えないのだ。あるのは白い砂浜とそれに続く砂丘だけだ。


 これはつまり、欧州は砂漠に沈んでしまったということだろうか?


 現在の北極海は赤道直下にあって、そこで熱せられた上昇気流は大気を循環しながら大量の雨を降らし、乾いた熱波となって30度線あたりに吹き付ける。丁度かつてのサハラ砂漠のような気候条件が、この欧州に当てはまっているのかも知れない。


 しかし、そう思っていたのもつかの間、徐々に見えてきた陸地の光景に、但馬はその可能性を捨てざるを得なくなった。


 スカンジナビア半島の大地には、木々がちゃんと生えていた。大地を覆い尽くす巨木が数メートル置きに並んでいて、森の奥は夜みたいに真っ暗で何も見えないくらいだ。


 ただし、それらの木々は全部立ち枯れており、枯れ葉一枚すら存在しない、真冬の森みたいになっていたのだ。


 いや、冬なら冬で、それなら雪が樹上に積もっていることだろう。ここにはそれすらない、まるで山火事にあった後みたいな光景だった。


 無論、それらの木々は燃えて炭化したわけではなく、まだ枯れて間もない感じであった。木々は競い合うかのように密集していて、つい最近まで青々とした森林がそこに広がっていたことを想像させた。しかし、その足元には一枚の落ち葉も、腐葉土すら見えず、白い砂地が延々と続いているのだ。


 それは、ほんの短期間のうちに、何もかもが朽ちてしまったとしか思えなかった。ロディーナ大陸と同じように、この3年間で、欧州は熱波に襲われてあっという間に砂漠化してしまったというのだろうか? しかし、流石にそれは考えにくい。森はそれ自体が水を蓄えるから、ここまで急激な枯れ方はしないはずだ。


 一体、欧州で何が起きているのだろうか?


 そんな感じに、誰も彼も意識が陸の方へ向いてしまっている時だった。


 突然、足元がグラリと揺れたかと思ったら、ゴオオオオー……っという津波のような音が聞こえてきて、但馬はハッと我に返った。


 豪快に揺れる船の中で乗組員たちは必死に何かに掴まりながら、音のする方向へと振り返る。


 すると陸地とは真逆の方向から、大きなうねりが近づいてくるのが見えてきた。本当に津波でも起きたのだろうか? と思ったのもつかの間、次の瞬間、うねりは巨大な壁のように空に向かって立ち上がり、その波頭が白く砕けたかと思えば、そこから鋭い牙が生えた大きな口を開けた、大蛇の凶悪な顔が現れたのだった。


 それはさっき遭遇し、命からがら逃げてきたシーサーペントで間違いなかった。海の底へ逃げていったと思った大蛇は、実際には船団の後をついてきていたのだ。


 しかもそれは、最悪の結果だった。


 あれだけの巨体だから陸地には近づけまい思っていたシーサーペントは、実際には逆だったようで、浅瀬のほうが移動するのに適しているようだったのだ。


 それは本物の蛇がそうするように、くねくねと身をくねらせながら、浅い海の底を信じられない速度で蛇行してきた。その波状運動によって海面に巨大な波が次々と生まれて、船をグラグラと揺さぶっている。


 シーサーペントはどんどん近づいてくる。慌てて船を回頭しようとするが、今からでは到底間に合いそうになかった。


「ディスカバリー、ボイジャー各艦に伝えろ。艦砲射撃の用意!」


 慌てて通信士に指示をすると、乗組員たちはまた忙しそうに動き始めた。ディスカバリー、ボイジャーの砲塔が動き始めるが、残念ながら但馬が乗るキュリオシティには艦砲は搭載されていない。元々、この探検船団は戦闘など想定していなかったのだ。


 かつて人々は、この世界にはロディーナ大陸しか存在しないと思っていた。なのに、まさか地球の反対側に、こんな化け物が棲息してるなんて想像もつかなかったのだ。


 ドンッ! ドンッ! ドンッ!


 っと立て続けに砲撃音がして、次々と砲弾は海に突き刺さった。しかし、シーサーペントは怯むこと無く、速度を維持したまま、波しぶきを上げてまっすぐ船団へと突き進んできた。


 そしてそれが最初の犠牲者であるボイジャーの手前に差し掛かろうとした時、津波のような波しぶきが、また壁のように空へとぶち上がったかと思えば、その中から飛び出してきた大蛇は自分の体をムチのようにしならせて、艦の横っ腹へと一撃を加えた。


 その瞬間、巨大な鋼鉄の塊から、バチンと千切れるような信じられない音が鳴り響いて、総排水量3800トンという鋼鉄の船が、ウソみたいに空を飛んだ。


 それはつまり、大蛇によって押しのけられた海水によって生まれた巨大津波によって、船がバランスを失い、そのままひっくり返るようにして海面に船底を晒してしまったのだ。


 ボイジャーは、まるで直立するような格好で海底に突き刺さると、既に痛めつけられていた船の真ん中あたりから船体がポッキリと折れて、瞬く間に轟沈してしまった。


 そんな信じられない光景を前にしても、僚艦のディスカバリーは怯むこと無く、絶え間なく砲撃を続けていた。


 本来なら砲身を休ませなければならないのに、無理を承知で連続射撃を敢行していた。ボイジャーを襲うためにシーサーペントは海上に姿を現している。このチャンスを逃すまいと、ディスカバリーは砲撃を続け、それは間違いなくその土手っ腹に何発も命中していた。


 しかし、大蛇は一度食らった攻撃はもう効かないとでも言わんばかりに、悠々と体をくねらせると、まるでバタフライ泳法みたいに、海面に全身をぶつけるようにして巨大な波を立てた。


 その波のせいでグラグラと揺れるディスカバリーが、照準を合わせることが出来ずにまごついていると、大蛇は頭をドンと船の横っ腹にぶつけ、さらに船体にグルグルと巻き付いて、そのまま海に引きずり込んでしまった。


 沈没する船から逃げ出そうとする無数の人影が見える。


 投げ出されたモーターボートに必死にしがみついている者、それに乗り遅れて助けを乞う者、波間に漂う人影が為すすべもなく次々と沈んでいく。地獄絵図がそこに繰り広げられていた。


「提督、指示を!」


 そんな光景を、但馬は唖然と見ていることしか出来なかった。


 こんな巨大な生物が、浅瀬とはいえ陸上で俊敏に動いていることも、お下がりとはいえ最新式の軍艦があっという間に沈められてしまったことも、とてもじゃないが信じられなかった。


 乗組員たちが必死に対応を求めてくるが、彼にだってどうしていいか分からなかった。戦闘装備はキュリオシティには搭載されていなかったし、仮にあったとしても砲撃が効かないことは、既に証明済みだった。


 やれることはせいぜい、座礁覚悟で陸に逃げ込むくらいだったが、しかし、それでは波間に浮かぶ僚艦の乗組員たちを見捨てることになる。彼らの幾人かは、まだ助けを求めて沈みゆく船にしがみついていた。


 と、その時、シーサーペントの目がキュリオシティを捉えた。


「全員、何かに掴まれ!」


 但馬が咄嗟に叫ぶと、海の怪物はぐねぐねと蛇行しながら瞬く間に船へと迫ってきた。


 次の瞬間、ドンッ! と衝撃が走り、グラグラと暴力的な揺れが船を襲った。部屋の隅から反対側まで、人間が吹っ飛んでいき、壁に衝突して動かなくなった。机の上のあらゆるものが散乱し、ブリッジの強化ガラス窓が砕け散った。


 船はまるで遊園地の海賊船みたいにダイナミックに揺れ動き、実際に船首はウイリー走法みたいな格好で、ものの数秒で数十メートルもの高さにまで上がってしまった。


 もしもそんな場所に人がいたら、ただじゃ済まないだろう。そして最悪なことに、そこに但馬は、自分の娘の姿を見つけたのであった。


「アンナっ!!」


 おそらく、船首でギターの練習でもしていたのだろう。アンナがシーサーペントの突進によって、高い空へと吹き飛ばされ、そのまま船から外へと投げ出されていった。


 何もない虚空を掴もうとする但馬の指の先で、娘が海面に叩きつけられる姿が見えた。そして彼女の後を追うように飛び込んでいく、ハルの姿も。


 そんな二人の上を、シーサーペントの巨体が通過する。そして大蛇は二人をすり潰すかのように、その場でぐるぐると独楽のように回転しだすと、その勢いを使ってディスカバリーの土手っ腹に、強烈な尻尾の一撃をお見舞いした。


 ズガン! っと強い衝撃が走り、海の上をまるで水を切る石のように、ズザザザザーっと船が流されていく。


 その衝撃で起きた津波によって、また多くの乗組員たちが波間に消えていった。


 その瞬間、但馬の視界が、暗幕が閉じるように暗転し……


 戻ってきた彼の視界は薄暗く、そして真っ赤に切り替わった。


 頭の中でブチブチと血管が千切れるような音が聞こえ、白目は真っ赤に充血し、耳鳴りのキーンとした音でかき消されてしまい、周囲は静寂に包まれた。


 彼は自分の中に、どす黒いものがふつふつと沸き立っていくのを感じていた。


 この人間という器には収まりきらない……そんな強大な力に、彼は飲み込まれようとしていた。


***


 一方……


「アンナさん!」


 ブリッジで但馬がキレている頃、甲板にはシーサーペントの攻撃を根性で乗り切ったブリジットが残されていた。


 数刻前、彼女はことが起きると同時に真っ先に甲板に躍り出て、迫りくる大蛇の姿を目で追いつづけていた。隙あらば一太刀入れてやろうと思っていたのだが、そこにはアンナたち先客がいて、なんだか揉めてる様子に声をかけづらく、船の出口付近から遠巻きに眺めていたのだ。


 お陰で船から投げ出されずに済んだのだが、目の前で仲間が落ちる姿をただ見ていることしか出来なかった。


 アンナは但馬の娘で、身体能力がずば抜けているはずだから、大丈夫だと思うのだが……一緒に落ちたハルとトーの二人は分からない。先にやられたディスカバリーとボイジャーの乗組員たちのことも心配である。すぐに助けなきゃと思うのだが、どうすればいいのか……


 と、その時、船がまたグラグラと揺れて、あのシーサーペントが船に迫ろうとしていた。彼女は咄嗟に手近な突起にしがみつくと、ドカンと来る衝撃に備えた。


 ザーッとしぶきが甲板全体に降り注ぎ、波が彼女を海へ引きずり込もうとしてくる。


 それにどうにかこうにか耐え忍ぶと、今度は船体からミシミシという音が聞こえてきて、何の音だろうかと目を開ければ、彼女の目には巨大な蛇の鱗が飛び込んできた。


 目の前に、幅十数メートルはあろうかという肉厚の蛇の腹が見える。シーサーペントが甲板に巻き付いているのだ。


 ディスカバリーと同じように海に引きずり込もうとしているのだろうか? しかし、あっちと違って重量があるキュリオシティは、そう簡単に沈みはしなかった。


 それで諦めればいいだろうに、大蛇は押して駄目なら引いてみろと言わんばかりに、今度はその巨体で船をギュッと締め付け始めた。


 鋼鉄の船体がそれで真っ二つになるとは思えなかったが、ミシミシと悲鳴を上げるように、何かが壊れる音が辺りに響いて不安になった。


「こんのおーーーっ!!」


 ブリジットは腰にぶら下げていた刀を引き抜くと、そんな大蛇に向かって突進していった。まともな人間がやることではなかったが、意外にもそれは有効だった。


 砲撃をも弾いた大蛇が、そんなことで傷つくとは思えなかったが、彼女のマナの力を乗せた一撃は、面白いように大蛇の皮膚を切り裂いたのだ。


 おそらく、相性がいいのだろう。一撃ごとに吹き出す血しぶきで、甲板はあっという間に赤く染まっていった。


「ぐもももももももーーーうぅぅ……!!」


 それがいかほどの痛痒を与えられたか分からないが、チクチクとする痛みを嫌ったシーサーペントは、情けない声を上げると船から離れていった。


 締め付けられていた船体の一部が奇妙に歪んでいる。


 ブリジットは、なんとか脅威から脱し、ホッとしたのも束の間、しかしそれは悪手であったとすぐに悟ることとなった。


 船から逃げていった大蛇は、少し離れたところでとぐろを巻いて船の上を覗き込むと、一体何が自分を傷つけていたのか、その正体を甲板の上に見つけた。


 巨大な蛇の顔がブリジットの顔を正確に捉えている。巨大海獣が、ちっぽけな彼女のことを、敵と認識しているようだった。


 買い被りだと言いたいところだが、言ったところで逃げることは出来ないだろう。


 彼女は覚悟を決めると、攻撃に備えて上段に構えた。例え無意味であろうとも、せめて一太刀くらいはくれてやる……そう決意して。


 だが、その時だった。


『穿て、カグツチ……』


 彼女の頭の中に直接響いてくるような、くぐもった声がどこからともなく聞こえてきた。実際に、それは空気を振動して伝わってきたものでは無かっただろう。いうなれば、マナを伝って全ての人の脳に直接響いてきたのだ。


 その正体に気づいた彼女が、反射的にブリッジの方角を見上げる。


 いつの間にか周囲には、船全部を覆うように緑色のマナの光が立ち込め、それは特にブリッジの辺りに集中していた。


 その太陽のような光は、しかし直視していても目が痛むことはなく、信じられないことに冷たくさえ感じられた。海の中に溶け込んでいたマナまでもがボコボコと泡を立てて飛び出し、周囲を明るく染めていく。やがてその光が一点に集中したかと思うと……


 ジュワ……


 っと、肉が焼けるような音が一瞬だけ聞こえた。


 ブリッジに集まってきた光は、巨大なレーザービームになって放たれると、その途中にあったシーサーペントの頭を消し去って、それこそ光の速さで空へと消えていった。


 たった今、巨大な蛇の顔があった空間に、ぽっかりと青空が覗いている。


『潰せ、ミカボシ……』


 頭を潰された大蛇は、それでパタリと動かなくなった……わけではなく、体中に張り巡らされた神経が制御を失ったかのように、めちゃくちゃに暴れ始めた。


 それが船に襲いかかろうかという、正にその瞬間、空から巨大な隕石が次から次へと降り注ぎ、頭を無くしたウミヘビの体を無慈悲に引き裂いていった。


 ドカンドカンと振動を立てて、いくつもの隕石が海の中へと沈んでいき、打ち上げられた海水が宙に舞い、辺りは一瞬にして黒雲に覆われた。


 そうして降り注いだ雨には、おそらく血が混じっていたのだろう。甲板は降り注ぐ血の雨で瞬く間に真っ赤に染まっていき、それはひび割れた船体の隙間から滝のように溢れていった。


 静寂が辺りを包み、血なまぐさい臭いが充満している。


 何が起きたのかを瞬間的に理解したブリジットが、急いで但馬のいるであろうブリッジまで走ろうとすると、あろうことかその当人が、風通しが良くなった窓辺にひょっこりと姿を現し、ふらりと身を投げ出すようにして、そのまま落っこちてきた。


 まずい……慌てて駆け寄る彼女の前で、但馬の体はすっと重さを無くしたかのように静止すると、音もなく甲板へと着地して、彼はその場でへたり込むように膝をついた。


「先生!」

「大丈夫だ」


 駆け寄る彼女が肩を貸そうとすると、彼はそれを手のひらで制して、自らの力で立ち上がった。しかし、その体はどう見ても満身創痍で、とても立っていられるような状態には見えなかった。目からは血が溢れ、吐く息からは鉄の臭いがしている。


 ブリジットは咄嗟にヒール魔法を唱えた。だが、普通ならどんな傷さえ治してしまえるそれも、彼の傷を癒やすことは出来なかった。とめどなく血が流れる中で、神への祈りだけが虚しく響く。


「魔王の力を使った代償か……」


 但馬が自虐的に笑う。


「どうして、こんなことしてしまったんですか!? 使わないって約束ですよ!?」


 ブリジットが非難するも、


「そうするしかなかっただろう。他にどんな方法があった?」

「それは……」


 ブリジットは苦々しそうに下唇を噛んでいる。


「アンナを助けに行かなければ……ハルも、トーも……海に落ちた船員たちが、まだあちこちで助けを求めている。早く助けなきゃ……」

「そんな状態で何が出来るっていうんですか! わかりました! 私が指揮を取りますから、先生はそこで休んでてください! 良いですね?」

「……すまない」

「絶対ですよ!」


 ブリジットはそう言うと但馬をその場に残して一目散に駆けていった。


 間もなく、船内から乗組員たちが飛び出してきて、船体のあちこちに積まれている救命ボートを忙しそうに下ろし始めた。


 遠い海上では、轟沈した2隻の船が作り出した渦に揉まれて、漂流するボートに自力でたどり着いた者たちが、仲間を救助している姿が見えた。どうやら最悪の事態だけは避けられたようだが、あの攻撃で命を落とした者も少なくはないだろう。せめて一人でも多く、助けられればいいのだが……


 それを見届けた但馬は長い溜め息を吐くと、うめき声を上げながら、崩れ落ちるようにその場に腰を下ろした。もはや立っているのもやっとだった。体中の筋肉という筋肉が悲鳴を上げ、自分の体だという感覚すらなかった。だが、休んでもいられない。


 アンナは無事だろうか? ハルも……トーのやつは、まあ平気だろう。いや、身内を気にしてる場合でもない。


 探検船団は今回の事件で一度に2隻もの艦を失い、このキュリオシティも、おそらくもう世界一周なんて不可能だろう。しかし修理しようにも、こんな地球の裏側では直しようがないし、助けを呼びたくとも連絡も出来なければ、自発的な助けが来るような希望もない。


 こんな状況で助かったもクソもないだろう。一体、どうやってレムリアまで帰ればいいんだ?


 上陸用のボートが何艘か残されてはいるが、こんなもので未知の海域に挑むのは正気の沙汰ではない。多分、このまま進むよりも、日本に戻った方がまだマシだが、しかし、全員を連れ帰ることは絶対に出来ないだろう。


 それにグリーンランドの基地に残してきた者たちにも状況を知らせる必要がある。だが、この海域にあの怪物は、あれ一体きりだったのだろうか? 他にもいるなら、引き返すのは自殺行為だ。


 かといって、ボートに北極海をぐるりと回れるほどの燃料はないだろう。多分、全てのボートの燃料をかき集めてギリギリといったところだ。


 なんなら、ヨーロッパとアジアは地続きに繋がっているのだから、日本まで歩いていくことは物理的に不可能ではないだろうが……もちろん、そんなのは机上の空論で、出来るわけがない。


 これからどうすればいいんだろうか。何も良いアイディアが浮かばない。彼は頭を抱えた。


 と、その時だった。


 俯いた視線の先で、但馬は微かに、なにかの影が揺れるのを見た。


 海鳥でも飛んでるのだろうか……?


 彼は何の気無しに空を見上げて……そして彼はそこに予想外のものを見つけて、思わず口をあんぐりと開けたまま固まってしまった。


 彼は驚いていた。


 何故なら……そこに空を飛ぶ人の姿があったからだ。


 それは光の残像が見せる錯覚ではなく、人の形に似たなにか別のものでもなく、間違いなく服を着た二足歩行の人間で間違いなかった。


 それは宙に浮いているのだが、スーパーマンみたいに両手を伸ばして飛んでいるわけではなく、重力に逆らって空中に佇んでいるかのような、そんな印象だった。しかもそんなのが一人ではなく、複数いるのだ。


 だが、但馬を驚愕させたのはそのことではなかった。


 彼が驚いていたのは、その見た目の方だった。


 宙を舞う、その人影に、彼は見覚えがあったのだ。


 それは彼の知り合いというわけではなく、例えるなら種族だ。彼はその種族のことを、知識として知っていたのだ。しかしそれはおとぎ話の中の話であって、現実には存在しないはずなのだ。


 それは見目麗しき美貌と透き通った白い肌を持ち、風になびく金色の髪はサラサラとこぼれ、装飾の少ないシンプルな緑色の服を着ており、長身の手足は細くてとてもスマートで、そしてやけに先っぽの長い耳が左右に突き出すように顔の横に伸びていた。


「エルフ……」


 但馬の口からはそんな単語が自然と漏れた。


 そう、彼は今、それを見ていた。彼が生きていた古代の地球で、ゲームやアニメの中に頻繁に登場したファンタジー世界の住人……エルフが今、彼の目の前にいたのだ。


(北極海周遊編・了)


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玉葱とクラリオン・第二巻
玉葱とクラリオン第二巻、発売中。よろしければ是非!
― 新着の感想 ―
3日くらいかけて一気読みしました! ハルくんがアンナちゃんに優しいのなんかほっこり…。 って思ってたら急展開でびっくり
[良い点] 1巻と2巻を購入して、ここまで読みましたが、続きが楽しみです。
[一言] 人の心が無い、というより寧ろ人の心をよく理解していますね… 色んな意味で
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