北極海周遊編⑥
基地の完成後、少数の人員と物資を残して、探検船団はグリーンランドを出発した。本来ならばこの後アイスランドを調査してから欧州に向かうはずだったが、船は一直線にノルウェーへ向かう進路を取った。目指すはロシア、そしてシベリアである。
提督の予想では、ユーラシア大陸には人類が生存している可能性があるという。ここに来るまでに得た情報からそう判断したという彼の言葉に、乗組員たちは半信半疑といった感じであったが、本当に居るかどうかはともかく、ちゃんと調べておいた方がいいだろうという意見は一致していた。その方が後ろ髪を引かれずに済むからだ。
仮にもし、本当に人類が居たとしたなら、それはどんな人種であるのだろうか……そんな期待と不安の入り混じった思いが錯綜し、船団は少々浮足立っていた。
そんな道中。大陸がそろそろ見えてくるかといった頃。
白波を立てて大海原を突き進む船の上から、伸びやかなクラリオンとギターのセッションが聞こえてきた。2つの音が絡み合い、それは海鳥の鳴き声のように遠く響いていた。
あの日、初めて二人で演奏してから、ハルとアンナはよくここで練習をしていた。練習というか、ほとんどアンナが付き合ってやってるといった感じではあったが、お陰で下手くそだったハルの演奏も、この頃ようやく様になってきた。
メキメキ上達している最中の今が一番楽しい盛りだろうか。全神経を演奏に集中して、ハルは回りには目もくれずに一心不乱に吹き続けている。アンナは自分がギターを弾き始めた頃のことを思い出して、そんな彼のことを微笑ましく思いながらも、心の中では少々別のことを考えていた。
それは自分がこの旅についてきた、目的のことだった。
彼女はオホーツクの森の中でブリジット話してから、ずっとそのことについて悩んでいたのだ。
彼女のそもそもの目的とは、今はジョンストン提督と名乗っているあの男、実の父である但馬を母の元へと連れ帰るということだった。そのためには、父の現在の伴侶であるブリジットの存在は邪魔でしかなく、この旅の間に、どうにかして彼女を引き剥がさなければならないと考えていた。
ところが、オホーツクで話し合ったところ、敵だと思っていたブリジットは、実は父と母のことを応援していたのだ。
ブリジットに、父のことを独占するつもりはなくて、なんなら母と重婚すればいいと思っているらしいのだ。日本でならそれが可能なので、自分も一緒に移住するから、3人仲良く暮していければそれでいいと考えているそうなのだ。
言われた当時は、何を馬鹿なことを言ってるんだとしか思わなかったが、今になって冷静に考えてみれば、それは当事者の気持ちの問題でしかなく、本人たちが良いと言うのであれば、他人が口出しするようなものじゃない。それに重婚ならアトラスという前例もある。
本音を言えばアンナとしても、既に結婚をしている父とブリジットを別れさせるのは気が重かったのだ。人間そこまで悪人になりきれるものではない。ブリジットは決して悪い人じゃないみたいだし、母も彼女に対して好意を持っているようだった。
ならば……
もう目的を達成してしまっているのではないか?
あとは時期を見計らって、父に日本に来るように言ってみればいいんじゃないか。
ブリジットもこう言ってるから、なんなら自分も3人の仲を応援していると言ってやれば、父も考え直すのではないか。
でも、父とは何を話していいかわからなかった。未だに艦内で鉢合わせた時、お互い無言で通り過ぎることしか出来ないくらいだ。もう一人の方とは、わりかし早く打ち解けたというのに、どうしてあっちの方は苦手なんだろうか……
「どうしたの? アーニャちゃん。今日はなんだか気もそぞろのようだけど、悩みごとがあるなら聞くよ?」
そんな事を考えていたら、今日何度目かのミスを犯していた。様子がおかしいことに気づいたハルが問いかけてきたが、
「別になんでもないから。練習を続けましょう」
そう言って彼女は強引に会話を切ろうとしたが、すぐにまた同じようなミスを連発してしまい、こうなってしまうと流石に隠しきれず、バツが悪そうに話し始めた。
「実は、ちょっと前のことなんだけど、あのお姫様と話をする機会があって」
「それってブリジットのこと?」
「うん」
彼女はさっきまで考えていたことを、目の前の男に聞いてもらうことにした。それは彼女にとっては本当に何の気もない、ただの愚痴みたいな相談のつもりであった。
ところがそれを聞いていたハルの表情は、段々と優れなくなっていった。
彼女は話しながら、彼の様子がおかしくなっていくことに気づき、次第にトーンダウンしていったが、やがて彼女は目の前の男が、元魔王の体の持ち主であり、父と記憶を共有していたことを思い出して、
「……ごめん。あんたに聞かせるような話じゃなかったかも知れない」
「いいや、俺は別にいいんだけどね」
「とにかく、私は可能性があるなら、一度あの人に話してみてもいいかなって思ってるの。お母さんは、あの人が生きててくれればそれだけでいいって言ってたけど、本当なら一緒に暮らしたいんだろうし……あのお姫様もいいって言ってるんだし……」
この際、自分の気持ちを押し殺してでも、平和的な解決を望むつもりで、彼女はそんなことを言ったのだが……
「いや、駄目だ。それだけは絶対に避けたほうがいい……それするくらいなら、ブリジットと喧嘩してたほうがまだマシだよ」
「どうして?」
ところが、ハルの口から思ったよりも強い反対の言葉が出てきて、アンナは困惑した。彼はどちらかといえば自分に味方してくれると思っていたのに、しかし理由を聞いても、ハルは険しい表情をするばかりで一向に話してくれそうにない。
どうして彼はそんなに辛そうな顔をするのだろうか?
それはよほど話せないような内容なのだろうか?
もしかしてやっぱり、実はハルも母のことが好きだったのかなと、彼女がそんな風に勘ぐっていると……
突然、誰かに脳天を殴りつけられ、目から火花が飛び出るような衝撃が走って、彼女は目を瞬かせながら振り返った。
「いった~……なにするのっ!?」
「それはこっちのセリフだ、どアホウ」
振り返れば、いつの間にか背後に副長のトーとかいう名の男が、苛立たしそうに舌打ちしながら立っていた。
口が悪くて常に不機嫌そうな顔をしていて、とても仲良くなりたいとは思わなかったので、船に乗ってからこれまで一度も絡んだことすらない男だった。
そんなのがいきなり暴力を振るってきたことに、アンナは腹を立てて抗議しようとしたが、
「おまえは、誰に何を言っているのかちゃんと理解してるのか? いや、理解してればそんなセリフは口が裂けても出てこねえよな」
「理解? 理解ってなんのことよ? 分けの分からない理由で人のことを叩かないで!」
「ああ、そうかい。分からないってんなら教えてやるよ」
「おい、よせよ!」
アンナが挑むような目でトーに突っかかっていくと、彼の方も喧嘩なら買ってやるよと言わんばかりに、胸を突き出して睨み返してきた。そんなトーをハルが止めようとするが、彼は苛立たしげにそれを振り払って、
「こいつだってもう子供じゃないんだ。真実を知ったところで傷つきゃしないだろう。またうっかり頓珍漢なことを言いだす前に、自分がどうして生まれてきたのか知っておいた方がいい」
「おい、勝手なことするなよ。そんなの大将は望んじゃいないぞ」
「だからこそ、俺から言ってやらなきゃならないんじゃないか。こいつが船に乗ってきた理由も、そしてそれが絶対に叶わないってことも、お前だって分かってるんだろ?」
「……ねえ、どういうこと? 一体、何の話をしてるの?」
アンナは困惑するような表情で二人のやり取りを見ている。トーはそんな彼女の無邪気な顔に、イラッとした表情をして見せると、
「おまえ、本当に何も知らされてないんだな……いいか? よく聞け。おまえの父親がどうして魔王を名乗っていたのか。娘であるおまえに倒される道を選んだのか。生きていたにも関わらず、どうして今まで姿を隠していたのか……それはそれで、あいつなりの贖罪だったんだよ」
「おい、トー! やめろって言ってるだろ! 彼女にはもう関係ない話だ」
「黙れよ。それはこいつが決めることだ」
トーは羽交い締めにして止めようとするハルを乱暴に突き飛ばすと、
「いいか? 覚悟して聞けよ? お前は自分がみんなから祝福されて生まれてきたと思ってるんだろうが、真実は違う。お前はお前の両親の不義で生まれてきた子供だ。本当なら、生まれてくるはずがなかった子供だったんだよ」
考えてもいなかった強い存在否定の言葉に、アンナの視界が強烈に歪み始めた。足元がグラグラと揺れだして、立っているのが難しいくらいだった。
「お前の父親、但馬波瑠は、アナトリア皇帝ブリジットの正式な婚約者だった。帝国の宰相として重責を担っていたあいつは、先代に重用され、兄王子にも認められて、ゆくゆくは公私共に皇帝を支える王配として、帝国臣民の頂点に立った。
だが、そんなあいつが本当に好きだったのは、皇帝ブリジットではなく、おまえの母親の方だったんだ。
今となっては伝説の帝国とまで呼ばれているが、実際には誕生したばかりの帝国は脆弱で、常に諸外国に狙われてて、おまけに国内ではその地位を妬むものが溢れかえり、お前の父親の足を引っ張った。血反吐を吐くような激務に身を晒していたお前の父親は、ある日ついにポッキリと心が折れて魔が差してしまう……そうして生まれたのがお前なんだよ。
お前の父親が犯した不義密通の噂は瞬く間に広まり、足を引っ張ることしか考えてない連中の政争の具にされた。お前の父親は責任を問われて失脚、政権から外され島流しにされる。ところが、こうして帝国がぐらついた隙をクーデター勢力は見逃さなかった。混乱の中で瞬く間に帝国は崩壊し……
そしてお前の父親は魔王となった。
お前が生まれてきたことが切っ掛けで、帝国は滅び、世界は暗闇に閉ざされたんだ」
足元がぐらついていたアンナはついに耐えきれずに甲板に腰を打ち付けた。思ったよりも強い衝撃音に驚いて、ハルが彼女の体を支えようと駆け寄る。
「過ちを犯したとはいえ、お前の父親はお姫さんのことも好きだったんだよ。じゃなきゃ、そもそも婚約なんかしないだろう。だから魔王として打倒された後、あいつはお前たち母子の前からは姿を晦まして、彼女と正式に結婚したんだ。
お前……そんな男に母親と重婚しろなんて言ってみろ。
とても受け入れられるわけがない。
仮に野郎が最低で、そうしようとしたところで、お前の母親が受け入れるわけがない。だからもう、お前はあいつらの仲を引っ掻き回すんじゃない。親父が生きていた。それで良かったじゃねえか。それ以上求めようとするなよ」
アンナは、彼女の体を労ろうとするハルの手を払い除けてフラフラと立ち上がると、視点の定まらない表情をして、ブツブツと虚空に呟くように、
「だって……知らなかったんだもん」
彼女の顔は真っ青を通り越して、真っ白になった。
「だって……お母さんはお父さんと愛し合ったから私が生まれたんだって……だって……お爺ちゃんは、お父さんはお母さんのことが世界一好きだったって……魔王になってしまったとしても、そうなんだって……だって……そう言ってたもん……だって……」
「お、おい……アーニャちゃん! おい! 大丈夫か? しっかりしろ!」
どんなにハルが呼びかけてもアンナは何も答えようとしなかった。何もない空中を見つめたまま、フラフラと風に吹かれるススキのように頼りなく揺れていた。その顔は血の気が失せており、意識は完全にどこかへ吹き飛んでしまっていた。
まるで人形みたいに正体を無くしてしまった彼女の体を支えながら、ハルはなんてことをしてくれたんだと、トーに向かって非難の言葉を浴びせかけようとした。
しかし、そうして口を開いたまでは良かったが、そこからはどんな言葉も出てこなかった。
トーの言う通り、彼女は知るべきだった。彼女が望んでいることは、決して叶うことのない夢だと知るべきだった。彼女の無邪気な行動が、父母を傷つけるだけだということを、彼女は知るべきだったのだ。
だが、なんて胸糞が悪いのだろう。もう少し、言葉を選ぶことは出来なかったのか。今言うべきことだったのだろうか。
しかし、そんなことをいっても、どう伝えれば彼女が傷つかずに済むかは分からなかったし、いつまでも言わずに済ませることも出来なかった。そうしなければ、彼女はやすやすと踏み越えてしまうだろうから。
ハルはぎりぎりと奥歯を噛みしめると、せめて自分の口から伝えてやれたら良かったのにと……またトーに嫌な役を押し付けてしまったと……自分の不甲斐なさを呪った。
と、その時だった。
「お、おい……なんだあれ?」
血の気を失い固まってしまったアンナを前に、不貞腐れたようにそっぽを向いていたトーが、突然、何かに怯えているような、そんな緊迫した声を上げた。
自分の言葉に後悔したというわけではない。彼は何かもっと別のことに気を取られているみたいだった。ハルは不審に思いながら、その視線の先を探ってみると、
「……え?」
船の欄干の向こう側、つまり大海原のど真ん中に、異様に大きな影が見えた。
それはこの船を覆い尽くしてまだ余りあるほど巨大で、正体不明の謎の物体が、海面下をゆらゆらと蠢いている。
魚群……ではない。クジラだとしても大きすぎる。蛇のように細長い影が、うねる波のように揺れながら海面下にいる。もはや島としか思えない、何か単一の生物らしき影が船の下を通過していくのだ。
そんな、まさか? と目を疑った次の瞬間、ドン! っと強い衝撃とともに、立ってられないくらい強い揺れに、ハルもトーも堪えきれずに甲板の上に膝をついた。
支えるものがなくなったアンナが、まるで糸の切れた操り人形のようにパタリと地面に突っ伏し、そのまま滑り台みたいに滑り落ちていく。
気がつけば冗談みたいに船が傾いていて、膝立ちで前を向いているつもりだったのに、いつの間にかハルは空を見上げていた。
そしてまた次の瞬間。大津波でも発生したかのような、ザアザアとさんざめく波の音が聞こえてきて、一瞬の浮遊感の後に叩きつけられるような衝撃が走って、滝のように海水が滴り落ちたかと思うと、今度は粉雪のような水滴がスクリーンのように世界を覆い尽くし、日輪が虹のように輝いて、そしてその先に、とんでもなく巨大なウミヘビのような影を映し出すのだった。