北極海周遊編③
出来る限り船員の邪魔はしたくなかったのだが、狭い船の廊下をゾロゾロ4人連なって歩いていればそうもいかず、あっちこっちで衝突しては肩身の狭い思いをしながらブリッジまで上ってきてみれば、艦長はそこにはいなくて船底の会議室にいると言われて挫けそうになった。
もうお前ら帰れよと、不機嫌そうにボヤくトーを無視して、言われたとおりに会議室までやってきたら、今度は中からお経のような意味不明な単語の羅列が聞こえてきて、そのまま眠りに落ちそうになった。
部屋の中を覗いてみれば、そこには提督とリオン博士の二人がいて、ホワイトボードに書かれた謎の記号を前に何やらディスカッションをしていた。
「そして彼は4つの方程式を完成させたわけだが、アンペールの法則の式に現れる変位電流の磁場と、ファラデーの電磁誘導の磁束の変化による起電力が互いに誘導し合うという関係が、あたかも波のように空間を伝播していくと捉えると、2つの関係式を波動方程式に当てはめたとき、その速度vが真空の誘電率と透磁率を掛けた平方根に反比例することになる。その値が、当時知られていた光の速さとほとんど一致していたから、マクスウェルは光の正体は電磁波であると予言したんだ」
「媒質のない波が、何もない空間を伝わっていくのですか?」
「いや、何もないんじゃなく、場があると考えるんだ。すべての力は、空間に存在する場を伝って広がっていく。そして重力も電磁気力も遠隔力ではなく、近接力って考えるわけだ」
「でも、それでは世界は光で満ち溢れてしまいませんか?」
「その通りだ、リオン。実際にそうなんだよ。この世は光に満ち溢れている。君は今、光を可視光に限定して捉えているんだろうけど、知ってると思うが、光ってのは人間が見える赤から紫の色のことじゃなくて、例えば日焼けの原因にもなる見えない光があるだろう?」
「紫外線のことですね」
「そう。紫外線は可視光よりも波長が短くて強力な光だ。逆に可視光より波長が長くて微弱な光が、この艦隊の無線通信でも使われている電波なわけで……」
会議室の中で二人の議論が続いている。それをドアの隙間から覗いていたアンナは、眉間にしわを寄せて困った感じに、
「二人が言ってることがまるで分からないんだけど。あれは何をしてるの?」
そうしていると本当に母親にそっくりだなと、ハルは苦笑しながら、
「あれは大将がリオンに講義を行っているんだよ。つまり……家庭教師さ」
「家庭教師ぃ~? なあに? こんな海の上にまで来て、お勉強をしているってわけ? 変わった人たちね……」
アトラスがボヤくようにそう言うと、それを聞いていたトーが無言で彼のみぞおちに一発入れながら、
「あのなあ、お前が乗ってるこの船も、レムリアという国家が存在するのも、全部、博士があいつの言葉を翻訳してくれたお陰なんだぞ。感謝しろよ?」
「……どういう意味よ?」
「お前らも知っての通り、提督は古代人で稀代の発明家だった。いま人類が当たり前のように使ってる技術は、殆ど奴が過去から持ってきたものだ。ところが困ったことに、そんなあいつの技術や理論を、ちゃんと理解できる人間はいなかったんだよ。奴も一度は後進を育てようとしたんだが、頓挫して、結局いくつかの本に残すに留まった。混乱の最中、その本をリディアから持ち出したのが、リオン博士だったんだ。
レムリアに逃れた博士は、その後地道に本の研究を続けて、そうして得た知識はレムリアの建国にとても役立った。更に彼は、自分が本から得た知識を分かりやすい言葉に書き直して、後進の育成に尽力したんだ。それは現在のレムリアの大学の教科書になっている。そのお陰で、現在のレムリアがあると言っても過言じゃないんだぞ」
「へえ、そんな経緯があったのね」
アトラスは感嘆のため息を吐いた。トーはその通りだと頷いてから、
「ところが、そうして科学理論を後世に伝えた博士だったが、但馬が本に残していた古代の知識は、まだほんの入り口でしかなかったんだ。それを知った博士は、復活した奴から直接学びたいと言って、この探検船団に乗り込んだのさ。で、但馬もそれを承諾して、時間が空いている時にこうして特別講義を行っているってわけだ」
「知らなかった……」
部屋の中を覗き込んでいるアンナの瞳がキラキラしている。それを見ていたハルは、まるで自分のことのように誇らしそうに言った。
「今の俺たちからしてみれば、大将は雲の上の存在のように思えるけど、きっと後世の人たちからすれば、リオン博士の方がそういう風に見られるようになると思うよ。いずれ伝記とか書かれるんだろうな」
「未来の偉人ってわけね。今のうちにサイン貰っとこうかしら」
「そこに居るのは誰だ? 用があるなら入ってこいよ」
アトラスがそんなゲスい事を言っていると、部屋の中から声が掛かった。少し騒ぎすぎただろうか。トーはバツが悪そうに顔を歪めると、肩をすくめながらドアの中に入っていった。
「提督、ちょっといいか?」
「構わないが……どうした? やけに大所帯だが」
但馬はやってきたのが4人もいて、しかもアンナやアトラスまで混じっているとは思わなかったようで、少し意外そうな顔をしていた。リオン博士が席を外そうと立ち上がりかけたが、トーはそれには及ばないと手で制しながら、
「ちょっとした報告なんだが、どうも船内で盗難事件が起きたらしくてな」
「……詳しく聞かせてくれないか?」
「ああ、実は今朝調理人たちが食材の補給に倉庫に行ったら……」
但馬はトーの説明をじっと黙って聞いていた。最初はアトラスを疑ったのだが、ハルに指摘されてそれはあり得ないと結論した。しかし、実際に食材は無くなっているのだから、何が起きているのか調査が必要である。
話を聞き終えた彼は、
「……厨房に荒らされた形跡はないんだな?」
「ああ、そういった報告はされていない。倉庫の食料だけが消えている状況だ」
「ふーん、誰かがつまみ食いしてるのでなければ……なら、何者かが船にこっそり乗り込んでいるんじゃないか?」
そんな但馬の答えを聞いて、トーがギョッとした表情に変わる。
「まさか! こんな大海原の上でそんな可能性はありえないだろう?」
「必ずしも人間が乗り込んだとも限らないだろう。例えば野生動物とか。調理した形跡がないという時点で、そいつは恐ろしく頑丈な胃袋の持ち主なんだろうな」
「まいったな。魔物の類だったら洒落にならんぞ。すぐ乗組員に知らせて艦内を隈なく捜索しようと思う。悪いが提督はブリッジで待機しててくれないか」
「いや、その必要はない。ちょっと待っててくれ」
トーが慌てて捜索をすると言いだすと、そんな彼のことを但馬は制して、何やら自分のコメカミを指で押しながら、険しい表情をして押し黙ってしまった。
一体何をしているのだろう? と、アンナが身を乗り出して様子を窺おうとした瞬間、突然、ズシンと自分の回りの空気が圧迫されるような感覚がして、彼女は異様に居心地の悪い気がしてきて、思わず身を竦めた。
気づけば、利き手が勝手に、いつも剣を差している腰の辺りを探っていた。心なしか寒気を感じるかと思えば、逆に背筋を冷たい汗が落ちていく。見れば、隣に佇むアトラスの額にはびっしょりと玉のような汗が浮かんでおり、どうやら彼も何らかの得体の知れない力を感じているようだった。
アンナはこれ以上ここに留まるのは危険だと判断して、ジリジリとすり足で後退し始めたのだが、
「大丈夫だよ」
そんな言葉と共に、ポンと肩に手が乗せられた瞬間、居心地の悪さは一瞬にして解けてしまった。よほど緊張していたのだろうか、呼吸を止めていたらしい彼女が、大きく深呼吸しながら振り返ると、ハルの苦笑する姿が見えた。
「あれは何をしてるの?」
「あれは大将が空気中のマナを操作して、艦内の生体反応を調べているんだよ」
「……そんなこと出来るの?」
マナの操作といえば、それは剣聖の剣技の真髄であった。弟子であるアンナとアトラスは、彼女からその技を伝授されて空気中のマナをある程度なら操作することが出来た。だが、それは自分の回りの極僅かな範囲のことだけで、とてもじゃないが船全体などという広範囲には及ばなかった。
つまり、それだけ大量のマナが不自然に反応していたから、マナの変化に敏感な二人はそれを異変として察知してしまったのだろう。種明かしされた今はもう恐怖を感じていなかったが、逆に誰かに見られているような気がして落ち着かなかった。
「本当なら天空のリリィのサポートが必要なんだけどね。なんか出来ちゃうみたいだね。それにしても懐かしいな。リディアに居たとき、あれにはいつも助けられてたんだ」
ハルはどこか遠い目をしながら懐かしそうに語っている。
アンナはその横顔を見ながら、眉をひそめて下唇を軽く噛んだ。
つまり……父はまだ魔王の力を使えるというのか?
「見つけた」
但馬の瞳が怪しく光る。彼は誰の目にも可視化されていない何者かを、その第三の目で捉えているようだった。
***
深夜。少数の見張りを除いて廊下に人影は無く、艦内は静まり返っていた。規律が重視される軍隊では、消灯後の勝手な行動は厳罰のため、出歩く者などどこにもなく、ほぼ全ての乗組員が自分の寝台で眠っている状況だった。
そんな静かな船の奥、航海物資を積み込んだ倉庫の片隅で、何やらゴトゴトと金属の擦れる音が響いていた。やがてキンと何かが外れる音がすると、天井のダクトに通じる鉄格子が外され、中からヌッと人影が現れた。
人影は真っ逆さまにダクトから落ちてくると、空中で一回転して、音もなく地面に着地した。倉庫内の空気が渦巻き、舞い上がる埃が収まるのを待ってから、人影はゆっくり立ち上がると、コソコソと倉庫の中を移動し始めた。
初めは穀物や日持ちのする根菜などが詰められた木箱を漁っていた人影は、段々気が大きくなってきたのか、そのうち大胆に冷凍倉庫を開け放って、中の生鮮食品を物色し始めた。
凍った食材はすぐに食べることは出来ないが、自然解凍すれば普通に食べられた。人間と違って、その人影は生食が大好物だった。そんな彼女が今日はお肉にしようか、お魚にしようか、どうしようかな? などと迷っていると……
「そこまでだ!」
ガシャン! っと金属を叩きつける大きな音が響いて、続いて目も眩むような強烈な光を浴びせられ、完全に警戒を怠っていた不審者は身を硬直させた。強烈な光を見たせいで、視界は真っ白くなって何も見えなくなってしまっていた。このままじゃ動けない。
だが、それは愚策であると気づいた彼女は、慌てて身を翻すと、迫りくる乗組員たちの手を気配だけで掻い潜りながら、記憶を頼りに、侵入経路を逆に天井のダクトへ飛びつこうとした。
しかし、そんな彼女の手はダクトを掴むことが出来なかった。どうやら彼女の行動は読まれていたようで、そこには予め蓋がされていたのだ。手がかりを失った彼女は、そのまま真っ逆さまに地面に落っこちてしまった。
「捕まえろっ! 絶対に逃がすなよっ!!」
地面に落下し、腰をしたたかに打ち付けた彼女が身悶えていると、あちこちから刺股が突き出してきて、あれよあれよという間に彼女は拘束されてしまった。
「やだやだ、はなせーっ!」
彼女は拘束を解こうとして必死に力を込めて暴れ回ったが、いくら力自慢の彼女でも、大の男数人がかりで取り押さえられては為すすすべがなかった。やがて彼女は疲れ果てると、がっくりと項垂れた。
そんな彼女のことを、男が上から覗き込む。
「……亜人だったか。日本から、こっそり乗ってきたんだな」
彼女の敵意むき出しの視線を浴びると、但馬は苦笑いしながら敵意がないことを示すように一歩下がった。隣にいたリオンが代わりに彼女の前に進み出て、
「あれ、この子は……」
「知り合いか?」
博士は頷きながら、
「はい。小さい頃、一度だけお父さんに、メディアに連れて行って貰ったことがあったでしょう。その時に知り合ったお友達です」
「ああ……」
そんなこともあったかなと思い出していると、今度はハルが、
「ほら、滞在中に砂金を持ってきてくれた子たちがいただろ。覚えてないか?」
「ああ、覚えてる覚えてる。そうか、君か……」
但馬がその時のことを思い出しながら、マジマジと侵入者のことを見つめていると、当の本人は向けられた視線に怯えて、助けを求めるように背後にいるハルに懇願の眼差しを向けながら、
「王様! 助けて! 殺される!」
と命乞いを始めた。どうやら亜人の彼女には、提督の正体が異質であると本能的に感じ取れるらしかった。しかし、具体的にそれが何かまでは分からないようだ。
「いや、だから俺は王様じゃないんだけどね」
ハルは、その怖い男の方が本物の王様なのだが……と思いつつも、怯える彼女に代わって但馬に、
「大将。どうだろう。俺に免じて放してあげてくれないか? 少なくとも彼女に敵意はないようだし、このままじゃ可哀想だ」
「僕からもお願いします」
ハルだけではなく、リオンからも懇願された但馬は少々意外に思いつつも、元々手荒な真似をするつもりもなかったので、彼らの要望を聞き入れることにした。
彼は、王様の名に誓って暴れないことを条件に拘束を解くと、倉庫の床にへたり込んでいる彼女の目線に合わせて腰を落としてから、穏やかな口調で言った。
「君は日本に住んでいた亜人だね。どうしてこんなことをしたの?」
問われた彼女は目の前の男から放たれるプレッシャーに怯えながらも、おずおずと口を開き、
「私もリオンくんみたいに、王様と一緒に冒険がしたかったの」
「冒険?」
「うん……それを村のみんなに言ったら駄目って言われたの。どうして? って言っても、みんな教えてくれないし、船の人に言ったら村の人が許してくれないなら駄目って言うし……でも絶対来たかったの」
「それで勝手に乗り込んじゃったのか」
侵入者はコクリと頷いている。聞いてみれば非常にシンプルな答えだった。シンプルであるが、それだけにどう処理していいか難しい問題でもあった。但馬は腕を組んで唸り声をあげた。
じゃあ、連れて行ってあげるよと言いたいところだが、簡単に受け入れるわけにはいかない。
第一に、この探検航海は物見遊山の観光ではないのだ。乗組員はみんなレムリア海軍の元海兵で、大統領の命を受けて任務を遂行しているプロフェッショナルたちだ。そうでない者も少数乗艦してはいるが、特に何の技能も持たない亜人を乗せては、乗組員に示しがつかないだろう。そもそも密航は、時代が時代ならサメの餌だ。
だが……提督はちらりとリオン博士のことを見た。
リオン博士は、リディア時代のまだ一般人だった自分が保護した子だった。養子にして育てていたといえば聞こえはいいが、殆ど人任せだったし、人間だらけの街の中で亜人の彼は友達も出来ず、いつも寂しい思いをさせていた。
そんな博士が、彼女のことをはっきり友達と呼んだのは、非常に珍しいことだった。いや、本当に初めてのことである。ならば、親として彼女の同行を認めてあげたいところであるが……
ちらりとハルの顔を見れば、彼の瞳もそうしろと告げていた。提督は再度うーんと唸り声をあげると、じっと彼女の目を見ながら続けた。
「君がこの船倉に隠れて勝手に飲み食いしていた食料は、俺達にとっては非常に貴重なものだった。ろくに補給を受けられない世界一周の旅の途中で、俺たちはいつもぎりぎりの生活を強いられている。君が考えなしに食べてしまったせいで、このままではいずれ食料が不足するだろう。もしかしたらひもじくて死んでしまう人が出るかも知れない。君がやったことはそれくらい悪いことなんだ。わかるか?」
「ごめんなさい……」
彼女はシュンとうなだれている。ちゃんと反省は出来るようだ。彼は続けた。
「犯した罪には罰が与えられねばならない。しかしここは海の上で裁判が出来ない。だから俺がこの艦隊の責任者として、君に罰を与えることにする」
「大将……」
ハルが嗜めるつもりで口を開くが、提督はそれを手で制して、
「君は亜人だから狩りは得意か?」
「うん」
「今言った通り、この船に君が食べる分の食料はない。だから、もし君がこの旅についてきたいと言うのなら、自分の飯は自分で確保しなきゃならない」
「う、うん……」
「なら、次に上陸したとき狩りを行って、自分の力を証明してみせろ。今回、君が食べてしまった分も、その際に補填するように。その働き次第では、船団に同行することを許可しよう」
「ほんとう?」
提督がそう言うと、彼女の瞳がパーッと明るく輝き始めた。二人のやり取りを聞いていたリオンの顔も、ホッとしたように綻ぶ。
「良かったね、許してもらえて」
「うん!」
彼女は飛び上がって喜びをあらわにすると、手を差し伸べるリオンの腕に嬉しそうに抱きついた。驚いている博士の顔はぎこちない。提督はそんな息子の様子を微笑ましく思いながら、ふと肝心なことを聞いてないことに気づいて、
「……そういえば、君。まだ聞いてなかったが、名前は?」
「エルフ!」
すると彼女は弾けるような笑顔で言った。
「エルフはエルフだよ!」
その無邪気な声に、周囲を取り巻く乗組員からどよめきが起こった。提督もハルも、思わず目を丸くして絶句した。きっと彼女は、自分の名前が、人類の宿敵と同じであることを知らなかったのだろう。
なにはともあれ、こうして船団にはまた新たな居候が増えることになったのであった。