北極海周遊編②
「下手っぴ」
エーリス村のハルがタンカーの舳先に立って、気持ちよくラッパを吹いていると、背後から容赦ない声が聞こえてきた。ムッとして振り返ると、そこに娘のアンナが立っていた。
まさか彼女だとは思わなくて、抗議するつもりでいたものだから、急にどんな顔をしていいか分からず、彼は左の眉毛と右の眉毛が盆踊りでもしてるような、おかしな表情で振り返ってしまった。
その顔がツボに入ったのだろうか、彼女がフフッと小さな笑い声を上げると、それだけで何でも許せてしまいそうな、彼にはそんな気がしていた。
「下手くそなのは分かってますー! だからこうして練習してんじゃん」
ハルは不貞腐れるようにそう言うと、アンナは少し意地悪だったと思ったのだろうか、考えるように一拍置いてから、
「ちゃんと誰かに教えてもらったら? 独学だと、変な癖がついちゃわない?」
「いや、教えてもらってこれなんだよ」
「ウソ」
「ホントだって」
「……とても信じられないんだけど」
「ちぇっ、才能のある人にはわからないんだよ。一体何が悪いんですかね」
ハルはそう言うと、またパープーパープーと、チャルメラでも吹くかのようにラッパを鳴らした。それは誰が聞いても素人丸出しの拙い演奏だった。
実際のところ、彼の言う通り、ハルは演奏方法を然るべき人にちゃんと習っていた。海軍の伝統で、起床時間や食事や清掃、船の上で行う全てはラッパを使って伝達するから、この船に乗っている船乗りは全員、最低限の演奏は出来るのだ。
彼は船に乗る際に、そんな船員たちから手ほどきを受けていた。だから本当なら、もうそれなりの演奏が出来なくてはおかしいはずなのだが、どうにもこうにも彼には才能が無いらしく、今もこの体たらくというわけだった。
「朝晩のラッパは俺の仕事なんだ。でもよく音を外すもんだから、おまえのせいで一日が腰砕けで始まっちゃうって嫌みを言われるんだ。だから早く上手になりたいんだよね」
「ふーん」
アンナはハルのことをフラットな表情で見上げている。若い頃のお母さんに、本当にそっくりだなと思いながら見ていると、ふと、彼女がギターを背負っていることに気がついた。
「あ、ごめん。アーニャちゃんもギターを弾きに来たの? 邪魔だったらどっか行くね」
「ううん。そのまま続けて」
彼女はそう言うと、無言で階段を上ってきて、ギターケースからギターを出した。階段に腰掛けた彼女は軽くチューニングを済ませると、ギターを構えて、ハルのことを見上げた。まるで早く吹けよと言ってるようである。
邪魔にならないのかな? と思いながらハルが練習を再開すると……すると彼女はその調子外れな音に合わせてギターを演奏し始めた。
彼は目を見開いた。
それはただコードを押さえているだけの演奏に過ぎなかった。それでも、初めて誰かと一緒に演奏をした彼には、雷に撃たれたような衝撃だった。自分の拙い演奏に誰かの音がくっついてくる。2つの音が重なりあって、現在進行系で新しい何かが生まれていく。
自分の演奏はやっぱり下手くそで、ところどころ音を外してしまうのだが、そんな時でもアンナのギターは崩れることなく、落ち着いてハルが再開するまで音を繋いでくれている。それが最初はプレッシャーになって、彼は何度も同じ間違いを犯してしまったが、それでも微動だにしない彼女の演奏に、今度は逆に心強くなってきて、彼の演奏も徐々に安定し始めた。
ハルが無心に簡単なメロディーを反復して、アンナがその音を支える。そうやって続けていくうちに、二人のセッションは段々と様になってきた。
真剣な表情でラッパを吹いているハルのことを横目にしながら、アンナは自分が初めてギターを弾いた日のことを思い出していた。どの弦をどの指で押さえればいいのか、丁寧な説明を受けながら、どうにか不格好に押さえた指先から、調和の取れた和音が響いてきたとき、嬉しくて嬉しく仕方なかった。また次の音、また次の音と奏でていたら、あっという間に外が暗くなっていた。
今のハルもあの時の自分と同じような、時の加速を感じているのかも知れない。その真剣な横顔を見て、そう思った。
この船に乗っている人々の中では、ハルはなんとなく打ち解けやすかった。初めは見た目が魔王だから、一番警戒していたくらいだったのだが、一度話してみたら本物の父親よりもずっと話しやすくて、今ではこうして気楽に喋ることも出来た。
あっちとは一言交わすことさえ困難なのに……どうしてなんだろう?
「もう! アンナの馬鹿! 私を売るなんてヒドイわよ!」
そんなことを考えながらギターをかき鳴らしていると、口を尖らせたアトラスがやってきた。
さっきブリジットの犠牲に捧げてきたから、それを怒っているのだろう。彼は暫くプンスカしていたが、アンナと一緒にいるのが誰であるかに気づくと、
「あら、父娘で演奏していたの? だいぶ仲良しになったわねえ」
「別にそんなつもりはないわ。ただの気まぐれ」
その誂うような口調に、意識をしてしまったのか、アンナがギターを弾くのをぱったりやめてしまうと、ハルもラッパを下ろしてしまった。二人の間に余所余所しい空気が流れる……
邪魔するつもりはなかったアトラスは、悪いことをしてしまったとオロオロしていたが、ふと、彼はハルの手にしているクラリオンが目について、
「……あら? それってもしかして、エリックのものじゃない?」
彼がそう尋ねると、ハルはそれを軽く掲げて、
「ああ、そうだよ」
「やっぱり。懐かしいわね、エリックは暇さえあればそれを手入れしていたから、よく覚えているわ。一度、勝手に触って怒られたことがあるの。その日は一日中口を聞いてもらえなかったわ」
「そうなんだ」
黄昏戦争の最中、アーサーの従者のエリックは、何故かいつも使いもしないラッパを腰にぶら下げていた。その割には手入れを欠かさず、いつも新品同然にピカピカにしていたから、どれだけ思い入れがあるか知らないが、きっと大事なものなのだろうと思っていた。
実際のところどうなのかは、それを聞く前に別れてしまったから少し気になっていた。
「あのエリックがよくそれを貸してくれたわね。あ、もしかして、元々はあなたの物だったのかしら?」
アトラスが探るように尋ねると、すると今度は彼は首を振って、
「いいや、違うよ。俺も借り物だ」
「あら、そうなの。それじゃエリックはどうしてそんなに大事なものを、あなたに託したの?」
「あいつにとっても借り物なんだよ。俺たちは、一生、借りっぱなしなんだ」
「一生って……?」
どこか意味深なセリフに、気安く踏み込んでいいものかどうか分からず、アトラスが続く言葉を探していると、その時、甲板の出口のところに人が現れ、誰かを探すようにキョロキョロ周囲を見回してから、大きな声で叫んだ。
「あー! てめえ、いやがったな、このデカブツ!」
その声に驚いて振り返ると、遠くの方からこの船の副長でもあるトーが肩を怒らせながら走ってくるのが見えた。何をあんなにプリプリしているのだろうか? と、ポカンとしていると、彼は三人のところへ来るなり、いきなりアトラスの頭をポカリと叩いて、
「ちょっとこい、この馬鹿野郎! てめえ、戦時中だったら銃殺ものだったんだぞ!」
「いったーい……私が何をやったっていうのよ!!」
いきなり叩かれたアトラスが怒ってトーのことを突き飛ばすと、彼はギロリと睨み返しながら、
「しらばっくれんな! てめえ、ここ数日、船の食料を勝手に食べてただろう! 厨房がえらい騒ぎになってるぞ」
「はあ!? なにそれ、私知らないわよ。誰かと勘違いしてるんじゃない?」
「嘘をつけ。お前以外の誰がこんなことするってんだ。いいからちょっと来い!」
「嫌よ! 濡れ衣よ!」
アトラスとトーは押し問答している。突然のことに対応しきれず、その様子を呆然と見守っていたハルは、我を取り戻すと二人の間に割って入り、
「おいおいおい、ちょっと待て、トー。何があったか知らないが、彼はやってないと言っているぞ」
「おまえはすっこんでろ、これは船の問題だ」
「話くらいは聞けって言ってるんだよ。っていうか、そもそも何があったのかすらよく分かってないのに、いきなりお前のせいだは無いだろう。まずはお前が冷静になれ」
「……なにぃ?」
「そうよそうよ、もっと言ってやって頂戴」
「とりあえず何があったのか、もう少し詳しく話してくれないか?」
頭に血が昇っていたトーは、ハルからそう言われて少しは頭が冷えたらしく、チッと一回舌打ちをすると、苛立たしげにタバコに火を点けてから、事の顛末を話し始めた。
「今朝になって厨房が、日本を発ってから食料の備蓄の数が合わないって言い出したんだよ。食料、だけだ。こんなの誰かがつまみ食いしているとしか思えないだろう? しかし今まで一度もそんなことは無かったんだから、犯人は日本から乗ってきた奴しかいないじゃないか」
「ふむ……なるほど」
「このデカブツは見た目通りの大飯ぐらいで、いつも食堂で腹減った腹減ったと言ってやがる。可哀想に思って多めにくれてやっていたのに、恩を仇で返しやがって」
「だから私は知らないって言ってるじゃないの!」
「じゃあ、なんだ? アンナ、お前がやったのか? どうなんだよ?」
「ふざけないで」
それだけで人を凍りつかせてしまうような強烈な眼光でアンナが睨みつける。それを臆せず真っ向からトーが睨み返す。ハルは今度はこっちの二人の間に割って入りながら、
「待て待て、そうやってすぐ決めつけるんじゃないって言ってるだろ? どうしてお前はそういつも喧嘩腰なんだよ」
「じゃあ、他に誰がいるって言うんだよ? 言ってみろよ」
「それは分からないけどさ……」
ハルは困ったぞといった感じに愛想笑いしながらも、ふと何かに気づいたように、
「そういえば、トー。お前、厨房は今朝になって気づいたって言ってたよな?」
「ああ、そうだが。それがなんだ」
「二人が合流してから今日で3日が経つけど、どうして今朝まで気づかなかったんだ。おかしくないか?」
「ああ、それは、この3日間は厨房に設置してある冷蔵庫の中身を調理していたからだ。それが足りなくなってきたから、補充するつもりで倉庫に行ったら食料が足りないことが発覚したんだ。冷蔵庫は鍵が掛かっているから、こいつは倉庫からちょろまかしたんだろうよ」
「だから濡れ衣だって言ってるでしょう!」
「それもすぐはっきりするさ。船にはこういった時のための捜査道具だってあるんだからな」
トーとアトラスはお互いの胸を突き合わせて睨み合っている。ハルはそんなトーの説明に首を傾げて、
「いや、待て、トー。一つ気になるんだが」
「……何がだ?」
「アトラスが食料を盗んだとして、それは食べるためだろう? でも倉庫にある食材って、生で食えるような物なのか?」
「………………」
アトラスを睨みつけていたトーの目が、あっちこっちへ飛び回る。
「保存に適した穀物とか、冷凍された物ばかりだろう。調理しなきゃ食えないだろうが、厨房にそんな痕跡があったのか? いや、そもそもそんな悠長なことしてたら、作ってる最中にバレるんじゃないか」
「……確かに」
トーはアトラスから体を離すと、手にしたタバコを一息吸って、フーっと長く煙を吐き出してから、
「悪かったな、疑ってよ」
「まったくよ! 人の話を聞きもしないで、今度やったらただじゃ済まないからね!」
アトラスはフンと鼻息を鳴らしてそっぽを向いた。トーはタバコを持つのとは反対の手で髪の毛を掻き乱しながら、
「じゃあ、一体誰がやったんだ? 現実に食料は消えてるんだぞ?」
「そんなの俺にも分からないよ。それこそ、捜査でもしたら?」
「……ったく、大事になっちまったな。しゃあねえ、現場検証のついでに、一度提督に報告に行くか」
トーはそう言い残すと、手のひらをヒラヒラさせながら来た道を戻り始めた。その後をアトラスが続き、遅れてハルとアンナがついていく。艦橋の入り口まで戻ってきたトーは、自分の後ろに三人がゾロゾロついてきていることに気づくと、
「おい、なんでついてくるんだよ?」
「濡れ衣を着せられたのよ。何があったのか、私には知る権利があるんじゃない」
とアトラスが抗議し、
「私は単に気になるから」「面白そうだから」
アンナとハルが続く。
トーは心底嫌そうな目つきをしてみせたが、結局は自分の早合点が蒔いた種だと諦めたのか、溜め息を吐くと、何も言わずに先を急ぎ始めた。