日本訪問編⑫
それから一夜明けて、湾内に浮かぶ三隻の船からは、ひっきりなしにボートが行き交っていた。村長ジュリアの厚意で上陸許可を得た探検船団は、船と浜を往復しながら物資の補給を終え、間もなく日本を離れようとしているところだった。
浜辺では、博物学者のリオンが旧知の獣人たちに囲まれながら、別れの挨拶を交わしている。その直ぐ側にはブリジットとハルが居て、ランとアトラス親子となにか話をしている。ジュリアがその両方の輪を行ったり来たりして忙しそうだった。
船員たちは彼らの邪魔をしないように、遠くの方で積荷の上げ下ろしを続けていたが、その中にジョンストン提督……つまり但馬の姿は見当たらなかった。結局、彼は滞在中一度も村に立ち入ることなく、娘とは顔を合わせずにこの島を去るつもりのようだった。
村と浜を結ぶ坂道の途中で、アンナは沖に浮かぶ船と村の方角を交互に見ながら、焦れったそうに貧乏ゆすりを続けていた。
きっと、父はあの船のどこかで、こちらの様子を窺っていることだろう。なんて薄情な男だ。娘の顔を見ずに去ろうとする父のことなんてどうでも良かったが、しかし、母のことまで置いていこうとしているのは、正直、彼女には理解出来なかった。
昨日、ブリジットの配慮で父との再会を果たした母は、晴れやかな顔をして帰ってきた。詳しいことは聞けなかったが、いろんな話が出来たという彼女は、喪失感が消えてホッとしているようだった。
3年前にまた母と暮らし始めてから、そんな彼女の顔は見たことが無かった。彼女にとって、父はそれほど特別な存在なのだ。だからきっと、このまま彼の船団についていくと言い出すと思っていたのだが……
しかし、出航の時間は迫っているというのに、彼女はついていくどころか、見送りにさえ来ていないのである。
母は今朝も診療所を開けて、来るかどうかわからない患者のためにシーツを干していた。娘の前で照れ隠しでもしているのかと思っていたが、このままでは本当に船団は母を置いて行ってしまうだろう。
そうしたらもう、金輪際、父とは会うことが出来なくなるかも知れない。これが最後のチャンスであるかも知れないのに、母はそのことが分かっているのだろうか……?
アンナはぎりぎりと奥歯を噛みしめると、焦れったそうに踵を返した。別に自分が会いたいわけじゃない。ただ、母にやせ我慢するなと言いたくて、彼女は急いで村へと駆けていった。
その頃……
当のアナスタシアはというと、今朝、アンナが見かけたときと変わらず、診療所のシーツをウキウキしながら干していた。なんでこんなにご機嫌なのかと言えば、実は三年前に持ってきたシーツが、どれもこれも繕うのも限界で困っていたところ、船団から新品の提供を受けたのだ。
この産業も何もない島で、清潔なシーツは黄金やダイヤに匹敵する貴重品だった。それを惜しみなく大量にもらえるなんて、思い切って但馬に相談してよかったと、彼女は鼻歌混じりに真っ白なシーツに顔を埋めて喜んでいた。
「アナスタシア、医療品を持ってきたぞ。これはどこに置けばいい?」
そんな彼女のところへエリオスがダンボールを担いでやって来た。これまた但馬に頼んでいた消毒薬や医薬品を、エリオスが持ってきてくれたようである。彼女は浮かれた姿を見られてしまったかなと、ちょっと恥ずかしげにモジモジしながら、
「ありがとう。診療所の中に置いてくれる? すぐ棚にしまうから」
「わかった」
エリオスは重そうな荷物を両肩に乗せても涼しい顔で、ズシンズシンと足音を立てながら診療所の中に入っていった。その腰のあたりには小さい子供たちがセミみたいに引っ付いていて、爺ちゃん遊んでとせがんでいた。
そんなエリオスの姿は短パンに開襟シャツという、どう見ても旅に出るような服装ではない。アナスタシアは小首を傾げながら、
「あれ? エリオスさん。もうじき出発でしょう? そんなにのんびりしててもいいの?」
するとエリオスは荷物を下ろして腰をトントンと叩きながら、
「いや、俺とランはここに残ることにした」
意外な返事にアナスタシアが目を丸くしていると、エリオスは目尻を下げて子供たちの頭を撫でながら、
「知らない内に、こんなに沢山かわいい孫が出来てたからな。暫くはこっちに残って、孫や嫁の面倒をみてやることにしたんだ。社長にも許可を得た」
「そうなんだ」
「ああ。代わりに船団には、アトラスを同行させることにした」
これまた意外な言葉に驚いていると、エリオスは少し真面目な表情をしながら、
「ランのお陰でアトラスは優しい子には育ったが、優しさだけでは誰のことも幸せには出来ないからな……あいつは、この獣人しかいない島で、子供をたくさん作るということの意味が分かっていないんだ」
「意味……?」
アナスタシアにもその意味がよく分からなかったが、エリオスはすぐには答えず、ちらっと持ってきた物資に目をやってから、
「親はなくとも子は育つが、国はそうはいかないだろう。アナスタシア。おまえもそれを今、如実に感じているんじゃないか?」
「そう……だね」
文明から離れて暮らしていると、いかに自分たちが文明にどっぷり浸かっていたかを実感させられる。今はまだいいが、今後、自分たちがいなくなった後に、子供たちがどうなるかはわからない。
「だからあいつを社長に預けることにしたんだ。偉大な二人の王の背中を見ることで、王者とはどうあるべきかを、あいつに学ばせてやろうと思ってな」
「ふーん……」
「まあ、あいつは良く分かってないみたいで、さっきまでさんざんゴネていたが。地球を一周して帰ってくる頃には、少しはマシになっているだろう」
そう言うエリオスの顔は真剣で、ただ孫に甘いだけのお爺ちゃんではなさそうだった。思えば、彼こそがその王者の下に長年仕え、その一挙手一投足をずっと見守ってきたのだ。息子に欠けている何かを、彼は主人に見出しているのかも知れない。
今度はエリオスが、診療所の中をぐるりと見回してから、そこに置いてある荷物を見ながら尋ねてきた。
「ところで、君こそこんなところでのんびりしていてもいいのか? 旅支度はもう済ましてあるようだが」
「ううん、それは私のじゃないよ」
その言葉に、今度はエリオスのほうが目を丸くする。
「なに? 君は船団と一緒に行くつもりだったんじゃないのか?」
するとアナスタシアは首を振って、
「私が島を出ていっちゃったら、誰が病人の世話をするの? この島に医者は私一人しかいないんだよ。子供たちもまだ小さくて病気に罹りやすいのに、それを放り出してどこかに行ったりなんて出来ないよ」
「そのために医療品を欲しがっているのだと思っていたんだが」
「これは将来のためにだよ。私の魔法だって、いつまで使えるかわからないでしょう」
「そうだな。社長に言わせれば、本当ならもう使えないはずなのだが……」
エリオスはまとめられた荷物を見ながら、
「それじゃあ、これは誰のための荷物なんだ?」
「それはね……?」
「お母さん!」
アナスタシアが答えを言おうとした時だった。バタンと大きな音を立てて、診療所にアンナが飛び込んできた。建付けの悪い建物がグラグラと揺れて、その勢いにびっくりしたエリオスの孫たちがキャアキャアと声を上げている。
アナスタシアは目に入った砂埃をこすりながら、
「アーニャ! ここは病院なんだから静かにしなさいって、いつも言ってるでしょう!」
「ご、ごめん、お母さん。でも、急いでて……」
血相を変えて飛び込んできたアンナは母に怒られて小さくなったかと思うと、今度はそこにエリオスが居ることに気づいてまた恥ずかしそうに縮こまった。彼女はちびっこ達に恥ずかしいところを見られてしまったなと、暫くモジモジしていたが、すぐに当初の目的を思い出して、
「そうだった。お母さん! いつまでこんなところでのんびりしてるの? 急がないともうすぐ船が出ちゃうよ!」
「急ぐってなんで?」
「もう! 魔王に……お父さんについて行くんでしょう!」
「ううん、行かないよ?」
その言葉はアンナには予想外過ぎたのか、彼女は少しの間、母が言っていることの意味が分からなくて混乱していたが、
「はあ? 行かないって……船に乗らないってこと?」
「そうだよ」
「なんで!? お母さん、お父さんが死んじゃったって、あんなに悲しんでたじゃない。せっかく生きて再会できたのに……」
アナスタシアは過去の自分のことを思い出して、ちょっと苦笑いしながら、
「生きていたんだから、もう悲しむ理由もないじゃない? お母さん、お父さんに会えてホッとしたから、もう無理についてくこともないって思ったんだよ」
「そんな……会えただけで十分なんて、そんなの嘘だよ。やっぱり、あの女が一緒にいるからって、遠慮してるんでしょう?」
「えっ? 姫様は全然関係ないよ?」
アナスタシアは娘の言葉を否定しようとしたが……しかし、言い得て妙かも知れないと思い直した。実際問題、仮に自分がついて行ったとしたら、自分ではなくブリジットのほうが遠慮する可能性があるだろう。
彼女は、いたずらっぽい笑みを浮かべると、
「うーん……もしかしたらそうかもね」
「やっぱり……待ってて、今私が話をつけてくるから」
「無理だよ。昨日、こてんぱんにやっつけられちゃったんでしょう?」
「うっ……」
アンナは悔しそうに歯ぎしりしている。アナスタシアはそんな娘の頭をポンポンと撫でると、用意していた旅支度を手渡し、
「はい、これ」
「……これは?」
「だから、アーニャがお父さんについて行って、あの怖いお姫様から、お父さんを取り返して来て?」
「ええ!? ちょ、ちょっと待ってよ、お母さん? 私に一人で行ってこいって言うの?」
アンナは驚いて荷物を突き返そうとしたが、アナスタシアはそんな娘に安心するように笑顔を向けながら、
「大丈夫。船にはアトラスも乗っているし、リオンにもお願いしといたから。きっとみんな、良くしてくれるよ」
「でも!」
「でも、もし私が船に乗るって言っていたら、アーニャも一緒について来るつもりだったんでしょう?」
アンナは返答に窮して黙りこくった。実際、母の言う通りだった。だから彼女は、いつまでもやって来ない母に焦れて、こうして迎えに来たのだった。どうやら、そんな娘の気持ちなど、母にはお見通しだったようである。
アンナは散々迷ったが、最後には不貞腐れるように荷物をギュッと胸に抱くと、
「……わかった。じゃあ、お母さんの代わりに、あいつを打ちのめして、さっさと魔王をここに連れて帰ってくる」
「うん。姫様によろしくね」
「どうして、ライバルに頭を下げるようなことを言うの!」
アンナがプリプリ怒りながら荷物を引ったくるように背負うと、ちょうどその時、浜の方からボーッと甲高い汽笛が響いて、船が出航の合図を送ってきた。
置いていかれると焦った彼女は、いそいそと診療所のドアに手をかけると、母と浜の方を交互に見ながら、
「それじゃ、すぐに戻ってくるつもりだけど……お母さんも元気でね?」
「うん。アーニャも怪我しないようにね……お腹を冷やさないように注意しなさい。それから、ご飯もいっぱい食べて、夜更かしはあまりしないように」
「もう! 子供じゃないんだから!!」
アンナは叫ぶようにそう言い捨てると、背中を向けて浜へ向かって駆けていった。エリオスにしがみついていた子供たちが、バイバーイと呑気に手を振っている。アナスタシアがそんな娘の背中に手を振っていると、エリオスがその隣に並び、
「あれは、アンナの旅支度だったのか」
「うん。ずっとお父さんと一緒に行きたそうにしてたから、昨日、姫様にこっそり頼んでおいたんだ」
「そうか」
エリオスは意外そうな表情をして、それからチラリチラリと彼女の横顔を盗み見るような視線を送ってきてから、少し言いにくそうに、
「俺もアンナのことを言えないが……実際、君は社長と姫が一緒にいても、気にならないのか? その……一度は愛し合った相手だろうに」
するとアナスタシアはおやっとした表情を見せてから、
「エリオスさんの口から、そんな際どい言葉が飛び出してくるとは思わなかった」
「すまんな。言いにくいなら聞き流してくれ」
「ううん」
アナスタシアは首を振って、
「気にならないかって言えば嘘になるけど……嫉妬とかそういう気持ちはないんだよ。例えばもし、私もこのまま先生について行って、またそういう関係になったとしても、きっとアーニャ以外に子供が欲しいとは思わないと思う……
あの子が言っていた通り、先生が死んだと聞いたときは悲しくて、悲しくて、仕方なくて、どうしてもまた逢いたいって願っていたけれど……こうして再会できた今は、逆にお互い遠く離れていても、元気でやっていてくれればそれでいいって思える。私たちはお互いに、別々の場所で別々の仕事をしながら、たまにこうして会って近況を報告しあえれば、それが一番いい関係かなって。
思えば、リディアにいた時から、ずっと先生はそういう関係を望んでいたんだと思う。人はまず生きて、愛し合うのはそれからなんだ。私は自分がやりたいことが見つからなくって、それが分からなかったのかも知れない」
そういう彼女の表情はさっぱりしていて、未練のようなものはどこにも見当たらなかった。エリオスはそんな彼女の横顔を見て、ほんのちょっぴり口元を緩めると、
「そうか……君も大人になったんだな」
「こう見えて、私も一児の母だからね」
アナスタシアが冗談めかして言う。二人はクスクスと笑った。
彼女はひとしきり笑った後、眩しそうに空を見上げながら、
「それに、変なこと言うかもだけど……今は早く二人の子供が見たいんだ。アーニャの弟か妹になるか分からないけど、姫様の子ならきっと可愛いと思うんだ」
「ああ、それはいいな。俺もずっとそう思ってる」
エリオスはそう同意しておきながら、急に難しい顔をして、
「しかし、社長はあれだろう? 奥手と言うか、根性なしと言うか、変態性欲者でもあるから……これがなかなか」
「……エリオスさん、凄い辛辣だね」
「お母さん! 絶対にあいつから魔王を奪ってくるから! 期待しててね!!」
浜辺へ駆けていったアンナが途中で振り返って、ブンブンと大きく手を振っている。
アナスタシアもそんな娘に大きく手を振り返しながら、そうなっちゃ困るんだけどと、心の中で呟いた。
海の方からは、また急かすような汽笛が響いてくる。浜へ向かう坂を駆け下りるアンナの背中は、もう見えなくなっていた。ジュリアの小学校からは、今日も元気な子供たちの声が聞こえている。多分、探検船団が地球を一周して帰ってきた後も、村は何一つ変わっていないだろう。
アンナはどんなに変わっているだろうか。母には、それが今から楽しみだった。