日本訪問編⑪
「先生……先生なんでしょう?」
但馬が調子に乗って旅の目的をペラペラ話していたら、いつの間にかアナスタシアにガン見されていた。じっと上目遣いに見つめるその瞳に懐かしい記憶を刺激されつつ、見とれてしまいそうになるのをどうにか堪えて、辛うじて視線を逸らした彼は明後日の方向を向きながら、
「なんのことかな?」
「一度火がついたら、人を置き去りにして話し続けるとこなんて、全然変わってないよね」
「誰のことです、それは。そんな失礼な奴なんて知りませんよ」
「今、現代人が絶対知らないような古代の話を、得意げに語ってたじゃない」
「あれはリオン博士から聞いたことです。いやあ、博士は凄いですね。私たちが知らないようなことをなんでも教えてくださる」
「……もうバレバレなのに、そうやって強引にしらばっくれるとことか」
「そんなこと言われましても。私には何が何やら?」
アナスタシアはムスッと唇を尖らせると、眉間にしわを寄せて睨みつけた。途端に但馬の額からは汗が吹き出し、彼はまるで蛇に睨まれたカエルのように固まってしまった。それでも覗き込もうとする彼女の視線から逃げるように、瞳孔だけがくるくるとあっちこっちへ飛び交っている。
もうこんなの白状しているようなものなのに、どうやっても、自分の正体をバラすつもりはないようである……アナスタシアは、往生際の悪い相手に向かってため息をつくと、富士山の方を指さし、
「じゃあ、どうしてチョモランマを見て懐かしそうに泣いてたの?」
「……チョモランマ?」
「この島の住人だって、まだそんな感動するほどチョモランマに思い入れはないよ」
「失礼……チョモランマとは何のことです?」
「もう! またそうやってしらばっくれる! チョモランマはチョモランマだよ、あの山のこと。ほら!」
アナスタシアは何度も富士山の方を指さしている。その指の先には他にどんな山も見当たらない。間違いなく、彼女は間違えているのだ。但馬は困惑気味に、
「ちょ、ちょっと待って? あれがチョモランマ山ですか?」
「そうだよ。先生が教えてくれたんじゃない。先生の故郷には、チョモランマっていう素敵な山があるんだって。私、ここに来て一目であれのことだなってわかったよ」
「そ、そうですね。確かにあれが、きっとその、彼の言う素敵な山なんでしょうが……チョモランマ? 名前が違うのでは?」
「そんなことないよ。私は先生の言ったことを聞き間違えたりしないよ。村のみんなだって、今ではもうちゃんとチョモランマって呼んでるんだよ」
「村のみんなも……!?」
但馬の顔はみるみるうちに青ざめていった。やばい……どんな手違いがあったか知らないが、いつの間にか日本人の心である富士山に、とんでもない名前がつけられている。このままでは山岳協会とかユネスコとか、様々な方面からお叱りを受けてしまうだろう。彼は慌てて否定した。
「いや、アナスタシアさん? 聞くところによると、あれはチョモランマっていう名前じゃなくて、富士山っていうんじゃないかと思うのですが……」
「うん、知ってる。富士山」
すると、さっきまでチョモランマと連呼していたアナスタシアは、あっさりと彼の言葉に頷いて、
「村のみんなも、ちゃんと富士山って呼んでるよ。先生が、そう教えてくれたから」
「ああ、そう……なの」
但馬は暫くの間、口をパクパクしてから、はぁ~……っと大きなため息をついて項垂れた。どうやら、アナスタシアに一杯食わされたらしい。こうまでされては、もう言い逃れも出来ないだろう。
彼はその場にしゃがみ込むと、地面に腰を下ろして、後ろ手に両手で体を支えながら、その富士山の頂上の辺りをじっと見つめた。アナスタシアは、そんな彼の背中に問いかけた。
「どうして隠そうとしたの……?」
そよ風が通り抜け、穏やかな空に鳥の声が響いていた。じっとしていてもじんわりと汗がにじみ出てくるような陽光の下で、但馬はたっぷりと一分くらいは沈黙してから、おもむろに口を開いた。
「俺の顔を見ても、懐かしくもなんともないだろう?」
「そんなことは……」
否定したくても否定できないものがそこにはあった。リディアのあの家で暮らしていた但馬と今の但馬は、明らかに別人であると断言出来るくらいに違った。実際に、彼らは遺伝子から何から何まで全部違うのだから当たり前だ。
彼は薄く笑うと、
「一緒に暮らしてた頃と、姿かたちが変わってしまったからね。どんな顔して出てきゃいいのかわからないじゃないか」
「………………」
「それになにより……アンナちゃんに合わせる顔が無かったからな」
「……アーニャに? どういうこと?」
そのアーニャという言葉の響きに、一瞬、但馬は虚を突かれたような目をしていたが、すぐにまた元の能面みたいな表情に戻り、
「……俺は彼女に恨まれても仕方ないと思ってる。それだけのことをしてきたから」
天空のリリィが、太陽を覆うダイソン球をパージするためには、造物主である人類の許可が必要だった。しかし、太陽系が安全になった時には、既にその太陽系から人類はいなくなっていた。
地球には、かつて人類と呼ばれたものの成れの果てであるエルフしか住んでおらず、彼らとの意思疎通は不可能であると判断したリリィは、再度、理性を持つ人類を地上に溢れさせようとして、自ら行動を起こすことにした。だが、その目論見は間もなく頓挫する。
聖女リリィとして地上に降臨し、新人類たちを率いてきた彼女は、現在のエトルリア首都アクロポリスの地で疑念に駆られた。
確かに彼女が復活させた新人類には理性があり、自分で考える脳みそを持っていたが、決して自ら行動していたわけじゃない。彼らはリリィを聖女と崇め、その忠実な下僕として行動していたに過ぎなかった。
やがて聖遺物を持つ者が貴族化し、持つものと持たざるものの格差が生まれ、覇権争いが始まった。人々はいくつもの国家に分裂し、国境争いが絶え間なく続いた。そんな彼らに、地球の行く末を決める重要な判断なんて出来るものだろうか……?
永遠の命を求め、自らの肉体を改造し、理性を失ったエルフと……
データベース上に残されていたヒトゲノムから生成したクローン人間……
どちらが正当な地球の後継者と呼べるのだろうか……?
その後もティレニア、メディアと、エルフから土地を奪い続けた彼女は、しかしついに判断に窮して、それ以上先に動けなくなってしまった。
彼女は自分の考えを正当化する拠り所を欲していた。そして彼女は、その判断を、かつて唯一自分が主人と認めた但馬波瑠に求めることにした。
彼女はデータベース上にあった但馬の遺伝子を操作し、救世主として地上に降臨させようとした。地上のすべてのエルフを駆逐し、人類を力強く先導し、千年王国へと導く、救世主に仕立て上げようとしたのだ。しかし、そうして復活させられた彼の体は不完全だった。リリィが不必要に能力を与えようとしすぎて、最初から人間として破綻していたのだ。
そして、ただの増殖するタンパク質として復活した但馬の地獄が始まった。
彼は自分が何のために復活させられたのかも理解できず、ただ苦痛の中でさまよい続けた。神経が擦り切れ、精神が崩壊し、肉体が滅びても、すぐ強制的に復活させられ、彼はただひたすら苦痛を伴う死を繰り返し続けた。
故に、何百年も続いた地獄の果てに、ようやくその苦痛を誤魔化す方法を見つけた彼の目的は、当初リリィが求めたものとはかけ離れてしまっていた。
……彼はただ死にたかったのだ。
リリィの要件を満たすだけなら、エルフを根絶出来さえすればいい。なら自分はエルフの王として人類に倒されて消えてしまおう。
しかしチート能力を与えられた彼は、人間の力で殺害するには強大すぎた。しかも彼は自殺することが出来ないのだ。
唯一、可能性があるとしたら、それは彼の血を分けた子孫に殺させることだった。そうすれば彼は自殺することもなく、彼の力(を受け継いだ子孫)を残すことが出来るから……
その方法に気づいた時……
彼は地球を滅ぼすか、娘を不幸にするか、選択しなければならなくなった。
「最初はリーゼロッテさんに期待した。彼女なら、魔王となった俺のことを傷つけることも出来るんじゃないかって……でも、無理だった。多分、彼女は前の勇者の娘だったから、血縁という意味ではもう遠すぎて、赤の他人と変わらなかったんだろう。
そうすると残るは、アンナちゃんに賭けるしかなかった……でも、まだ幼くて保護を必要とするような彼女を、母を殺した魔王を憎むように誘導するのは苦痛でしか無かった。まともな人間のやることじゃない。
だから、正直、迷っていた。世界は、そうまでして救わなければならないものなんだろうか……?
そもそも俺はこの世界の住人じゃなくて、本当の俺はとっくの昔に死んだ人間でしかない。その頃の人類はもう十分に繁栄していて、滅びは自然の成り行きだったんじゃないか。そう割り切って、滅びゆく世界で、親子三人寄り添って、逃げ回るように生きていくことだって出来ただろう。
でも……その時にはもう、ブリジットが犠牲になっていて……
エリオスさんも、クロノアも、トーも、みんな死んでしまっていた。
滅びゆく世界には、大切な人たちがいくらでもいた。リーゼロッテさんやリリィ様や、ランさん、アトラス、フレッド君、タチアナさん。エリックとマイケル。それに……お袋さんも……
その人達だけでも救えれば良かったんだけど、そんな都合のいい選択肢はなかった。世界が滅びるか、俺が魔王として倒されるかの二択だ。
タイムリミットは迫っていた。もしここで俺が決断を下さなければ、地球は確実に滅びるだろう。そして本物の太陽が燃え尽きるその日まで、太陽系は宇宙をさまよい続けるだろう……
だから最終的に、娘に全部押し付けてしまったんだ。きっと、彼女は恨んでいるだろう……」
風に靡く前髪を手で抑えながら、彼の横顔を盗み見た。相変わらず彼の瞳は、山の頂きを見据えたまま、微動だにしなかった。瞬き一つせずに深く考え事をしているようなその瞳は、実際には何も映し出していなかっただろう。絶景を楽しんでもらえればそれで良かったのに、不要なことを聞いてしまったんじゃないかと彼女は後悔した。
しかし、それは誤解だ。彼女も、そして彼女の娘もまた、彼が思うほど弱くはない。もちろん、強くもないけれど……
「先生、それは先生の考えすぎだよ。アーニャは事情をちゃんと理解しているし、先生のことを恨んでなんかいなかったよ。だって、先生が船に乗ってやって来たって知ったあの子は、真っ先に私に知らせに来たんだから。もし恨んでるなら、そんなことしないでしょう?」
「……そうかなあ」
「あの子には何のわだかまりも無いはずだよ。なんなら、直接聞いてみたらどう? あの子も、本心ではお父さんに会いたがってると思うし」
しかし、但馬は黙って首を振って、
「そんな虫の良いことは考えられないよ」
彼は立ち上がると、腰を伸ばして、アクビをしながら両手を挙げて目尻を拭った。
「俺が来たのがあまりに急だったから、今はびっくりしてお母さんのことを優先してるだけで、落ち着いたら、やっぱり許せなくなると思うよ。だから、俺はこのまま消えた方が良いと思ってる」
「そんなことないと思うけど……」
アナスタシアはもう一度否定しようとしたが、すぐに言葉を引っ込めてしまった。
別に、但馬の意見に同意したわけではない。単に、そういえば彼はこういう人だったなと思いだして、あまり押し付けないようにしようと思ったのだ。
但馬は大胆で決断力があるように見えるけれど、その実、繊細で内罰的でいつもくよくよ思い悩んでいる。多くの人に期待されて、それに応えることに精一杯で、周りがあまり見えていない。何でも一人で解決しようとする。
アンナとそっくりなのだ。
多分、今必要なのは、自分が慰めの言葉を掛けることじゃないだろう。父娘が、ちゃんと互いに大事に思い合っていることに気づくことだ。
それにはどうすればいいだろうか?
「君には迷惑をかけた……」
アナスタシアが父娘のことに頭を悩ませていると、但馬から謝罪の言葉が聞こえてきた。
「本当なら、母子二人で何不自由なく暮らせていたはずなのに、娘の一番かわいい時期に一緒に居られなくしてしまって……」
「それは私が自分で決めたことだから」
「いや、あの時リディアにやって来た君を、リーゼロッテさんと一緒に追い返すことは出来たんだ。ただ、そうするとアンナに復讐心を抱かせることは出来なかっただろう……俺は、身勝手に君たち母子のことを引き裂いてしまった。それは、絶対に許されていい行為じゃない」
「ああ……」
アナスタシアは小さく頷いた。自分としては、リディアに行った直後から記憶が飛んでしまっているから、実際なんとも思っていなかったのだが……
但馬とアンナの間には、アナスタシアが知らない10年間があるのだ。そのことについて、彼が罪悪感を持つのは仕方ないことだろう。
かと言って、やはり自分には但馬のことを責める気持ちはなかった。寧ろ彼は人類のために、良くやってくれたと、頑張ってくれたと、褒めてやりたいくらいである。でも、そんな言葉は、きっと彼を傷つけるだけだろう。
「本当は君の前に現れるつもりは無かったんだが、こうなってしまったのも何かの縁だろう。もし、俺に出来ることがあるなら、何でも言ってくれ。力になる」
彼は苦痛に耐え兼ねているような、そんな絶望的な表情で懇願した。そんなに謝らなくても、本当に気にしてはいなかったのだが、そう言っても彼は納得しないだろう。
彼の気が休まるのであれば、ここはきっと、本当に何かお願いをするのが正しい選択かも知れない。ちょうど、この島の医療について相談しようとしていたところだし、せっかくだからその辺りのことをお願いしようか……
しかしアナスタシアは、ふと思いついて、気がついたらこんなことを口にしていた。
「それじゃ先生。もしよかったら、これからはアンナのことを、アーニャって呼んであげて?」
その言葉が彼の耳に届いた瞬間、但馬は虚を突かれたように目を見開いた。それから泣き笑いのような感じで表情を緩めると、昔良くしていた素振りで後頭部をポリポリとひっかきながら、困ったように彼は言った。
「それは難しいな……」
続く彼の言葉は、富士山に向かって拭き上げる風が耳の辺りでくるくる騒いでいて、よく聞き取れなかった。でもアナスタシアには、その懐かしい表情から、彼がなんと言ったか良く分かっていた。
だから彼女も懐かしい顔で返事した。上手く笑えただろうか。
「先生。何度も言ってるけど。私はアンナじゃなくて、アナスタシアだよ」