日本訪問編⑧
太陽は天頂に差し掛かり、ジリジリと肌を焼くような暑さと、新緑の若葉が照り返す光が、目に痛かった。断続的に聞こえてくるさざ波と、海鳥たちの声が滅茶苦茶に入り混じって、耳に騒がしかった。白い砂浜と風に崩れる白い波頭がまるで絨毯のようにどこまでも広がっている。穏やかな風が頬を撫でつけ、散歩するにはうってつけの日だったが、残念ながらそんな景色を楽しめるような心の余裕は、双方ともに無かった。
アナスタシアはトーに頼まれた手前、言われたとおりにこの不審な男を見晴らしのいい高台へと案内しようとしていたが、男は静かというか無口というか、先を歩いていても背後からの気配が全くしないものだから、定期的に振り返らねばならなかった。
おまけに、男はちゃんと後からついてきているのだが、何故か絶対に目を合わせようとはせず、振り返る度に彼女の眼を避けるようにしてパッと顔を背けるから、そのうち悪いことをしてるような気がして参ってしまった。
女性があまり得意ではないのだろうか。それとも本当は乗り気じゃなかったのだろうか。気を使えとまでは言わないが、せめて話しかけやすくして欲しかったが、男が黙々と歩き続けているので、仕方なくアナスタシアも黙って歩き続けるしかなかった。
ただ、目的地に辿り着いた時の男の反応から、別に来たくなかったわけじゃないことはわかった。
男は高台に到着するや否や「おお~」っと感嘆の声をあげたかと思えば、ポケットに忍ばせていた小型カメラを取り出して、いきなりパシャパシャと写真を撮り始めた。
その様子からしても、本当にあの山を気に入ってるのが分かり、少し誇らしげな気分になったが……しかし、どうして彼はそこまでこのローカルな山のことが気になるのだろうか?
最初に見た時、確かに男は泣いていたように見えた。そういえば、トーが故郷がどうとか言っていた気もする。だが、ここは未だかつて人が足を踏み入れたことのない秘境の地。懐かしむなんて気持ちとはかけ離れた場所のはずである。その辺のことを突っ込んで尋ねてみると、
「いやいや! 単に自分の故郷の山々に似てるってだけの話ですよ!?」
「そうなの? あなたの故郷ってどの辺なの?」
「えーっと……セレスティアの……」
「セレスティアの?」
「や、山の辺りです。山の辺り」
「ふーん……山の辺り。ふーん……」
それってどこら辺だろうか? 気にはなったが、はっきりした場所がわかったところでアナスタシアには確認しようもないので、彼女は黙って話題を変えようとしたが、ふと思いついて、
「あれ? でもあなたはジョンストン提督の甥なんでしょう? 私の両親もセレスティア出身だったけど、提督が住んでたなんて話は聞いたことなかったけども……」
「つい最近、引っ越してきたんですよ! 引退後、叔父が総督として彼の地に赴任したんです」
「あ、そうだったんだ。ふーん……でも、それってせいぜい数年前の話でしょう? そんな泣くほど懐かしく感じるものなの?」
「誰も泣いてなんかいませんですしっ!! いや、それに、故郷を思う気持ちに年月は関係ありませんよ。そうでしょう!?」
「う、うん……そうかも」
その切羽詰まった形相に、アナスタシアは強引に納得させられた。多分、男は嘘を吐いているのだろうが、指摘したところで言いくるめられるのが落ちだと思った。
それに、男は別に悪口を言ってるわけでもないのだ。彼はあの山を気に入っている。その彼があの山を見て懐かしいと言うのであれば、それはそれでいいではないか。彼女はそう思うことにした。
それにしても……懐かしいと言えば、さっきから男と話していると、アナスタシアも何故だか懐かしい気持ちがするような気がして、落ち着かなかった。頭の隅にモヤモヤしたものがずっと引っかかってるというか、いつか同じことがあったような既視感というか、そんなものを感じてならないのだ。
しかし、目を血走らせているその男の顔を見ても、アナスタシアは一向に懐かしさは感じなかったし、いくら思い出そうとしてもこれまでにその顔を見た覚えもなかった。
目の前の男とは、間違いなく初対面のはずだ。なのに、どうしてこんな妙な気持ちになるのだろうか……?
彼女は不可解に思いながら、相変わらずそんな彼女の視線を避けるようにして挙動不審になってる男に聞いてみた。
「そのカメラ……」
「え?」
「とても高い物なんでしょう? そんなにたくさん撮っちゃって、平気なの?」
「あー……」
男は空中を見上げて思い出すような感じに、
「いや、これくらいの物なら、今のレムリアでは安価に出回ってるんですよ。フィルムも一昔前とは違って使い捨てられますし」
「そうなの? ……知らない内に随分変わったんだね。10年くらい寝てたからなあ」
「うっ……す、すみません」
「どうして謝るの?」
アナスタシアが不思議に思ってると、男はトンボみたいに目玉をグルグルしながら、
「そ、それにこれ、自分で買ったもんじゃないんで。必要経費で落としたものなんで」
「必要経費? 写真を撮るのが仕事なの?」
「ええ、そうなんですよ」
男はこくりと頷いてから、
「写真を撮ると言うか、ロディーナ大陸とレムリア大陸以外の土地にある動植物を記録しているんですよ。撮った写真を随時現像して整理しながら、世界一周してる最中なんです」
「世界一周!? あなたたち、そんなことをしていたの?」
そう言えば、彼らの来訪の目的はまだ聞いていなかった。アナスタシアが目を丸くしていると、男はおやっとした表情を見せてから、
「リオン……博士から聞いていないんですか? 我々は入植地を探して航海しているんですが」
「ううん、リオンとはまだ話してないの……他のみんなともだけど……」
「そう……でしたか……」
アナスタシアが辛そうな表情で目を伏せる。男はその顔をちらりと横目で見てから、ふと、それまでのドギマギした表情から真剣な表情に変わり、
「あなたはティレニアの巫女でしたね。なら、知ってると思いますが、かつてこの世界にあった太陽は偽物で、地球の環境は世界樹によって管理されていたって……」
アナスタシアは頷いた。その偽物の太陽のメンテナンスを定期的に行うために、自分が居たのだ。ところが、アンナを身籠ったことで、その資格は娘に受け継がれてしまった。そして魔王が誕生し、世界は暗闇に閉ざされかけた……
「その世界樹のお陰で赤道近辺の気候は温暖だったのですが、実は全体的に昔の地球は気温が低かったんですよ。ところがそんな時、魔王が倒されたことによって、太陽を覆っていたダイソン球が破棄され、我々人類は本物の太陽を取り戻した……その結果、魔王討伐以前と比較して、現在の地球は平均気温が高くなってしまってるんですよ。多分、あなたも実感があるんじゃないでしょうか? 年々、海岸線が内陸部に上がってきていることを」
アナスタシアはまた何度も頷いた。彼の言う通り、初めてこの島にやって来てから、波打ち際はどんどん村に近づいてきている。それは気の所為ではなかったらしい。
「困ったことに、この傾向は今後数十年続くことになるでしょう。具体的には、最大で100メートルくらい海岸線が上がってしまう可能性がある。だから、今のうちに村を高台に移動することをお勧めしますよ」
「……100メートル!? それってホントなの?」
「あくまで最大でですけど……ええ、でも本当です」
「どうして、あなたに、そんなことが断言できるの?」
アナスタシアが当然の疑問を呈すると、彼は一瞬、ウッと気まずそうに息を呑んで、また挙動不審に目玉をくるくる回転させながら、
「ええと……リオン博士がセレスティアの世界樹を調べていて発見したんですよ」
「リオンが……?」
「ええ、それによると、今までの地球の気候は氷河期のそれと同等で、海岸線はずっと低かったと考えられる。それがいきなり間氷期の気温へと変化してしまったから、今現在、世界中の大陸を覆っていた雪が溶けて、大量の水が海に流れ出してきていると考えられるんです。この雪解け水が、これから数十年の間続いて、海面が上昇するというわけです」
「それが本当だとしたら、私たちの村だけじゃないよ。リディアやエトルリアだって、沈んじゃうんじゃない?」
「ええ。だからこうして、我々は船団を率いてここにいるわけです」
男はその当時を思い出すような遠い眼差しで、富士山の方角をじっと見つめていた。アナスタシアはその目を見た瞬間、それまでにない強烈な既視感を感じていた。
間違いない。彼とはどこかで会ったことがある……正確には、彼ではない別の誰かなのだが、それが本物かどうか確かめるには、まだ決め手にかけている。
そんなアナスタシアのもどかしさをよそに、男はぼんやりとした瞳で淡々と話し続けた。
「……魔王討伐後、私はセレスティアの地に居りました。その当時の私はちょっと色々ありまして、人と関わり合うのが嫌になってしまい、隠居するつもりでいたんです。
獣人が去った後のセレスティアには人が全くおらず、昔と違って気候も穏やかで過ごしやすくなっており、その環境が私の心を癒やしてくれました。そうして私は少しずつ活力を取り戻していき、狩猟をしたり、家庭菜園を作ったりして日々をのんびりと過ごしていたのです。
異変が起きたのは目覚めてから1年後のことでした。南のロディーナ大陸が干ばつに見舞われ、凶作続きで俄に騒がしくなり、それが私の耳にも届いてきたのです。大陸を超えて、この隠遁生活者にまで聞こえてくるのですから、相当なものでしょう。
幸い、各国には備蓄があり、一年は保つと思われましたが、折しも魔王討伐後のベビーブームで人口が増加しており、それに伴い物価が上昇してしまい、比較的裕福な家庭はともかく、そうでない家では食い扶持を減らさねば生きていけない緊急事態に見舞われてしまったのです。
更には、南のイオニア地方では続く高潮の影響で多くの家々が被害を受け、避難民が溢れている始末。いくつかの港が閉鎖された影響で流通網まで混乱し始め、国境線を巡っては、アスタクスと一触即発の事態に発展していました。
私はそれらの出来事を聞いて、ピンときました。もしやこれは、本物の太陽を取り戻した影響が出てるんじゃないかと。イオニアの高潮は海面上昇の影響で、干ばつは気候変動のせいなんじゃないかと。
ほんの数年前まで、アスタクス地方はロディーナ大陸きっての穀倉地帯で、主に小麦を生産していました。しかし、それは昔の寒い地球ならではの話で、本物の太陽を取り戻した今のアスタクスは、サバンナ気候になってしまっており、小麦の生産にはもう全然適していないんですよ。
おまけに、以前なら北の山脈に蓄えられた雪解け水が一年を通じて利用できたのに、今の気温では春には殆ど溶け出してしまって、夏にはもう残っていない。それが干ばつの正体でした。
これを避けるには新たなダムを建設し、灌漑を見直し、気候に適した作物に転作を促さなければならないのですが、ビテュニア大公が崩御された現在のアスタクスにはリーダーが不在で、宮中は後継者争いに明け暮れ、聞く耳を持ちません。
このままでは一年も保たないぞ……と危惧した私は頭を悩ませました。
そこでハッと気づいたんです。
かつてのセレスティアは雪に閉ざされた大陸でしたが、実はさらに大昔、古代文明が存在した当時は、パンパと呼ばれる世界有数の大穀倉地帯だったんですよ。
太陽を取り戻し、穏やかな気候を取り戻した今のセレスティアには、肥沃な大地が広がっている……地表が90度回転してしまった今の地球でも、かの地は小麦生産にはうってつけの土地だったんです。
これはビジネスチャンスだぞ!? と思った私はレムリアからマン兄さんを呼び寄せ……あー、マン兄さんと言うにはロス前大統領の従兄弟なんですけどね……当時レムリア海軍を引退したばかりの叔父から退職金を巻き上げ、商会を設立、プランテーションを開始して翌年に備えたんです。
ドンピシャでしたね。
まさか二年連続、干ばつに見舞われるとは思っていなかったロディーナ大陸では、そのまさかの事態に大混乱が起きかけていましたが、そこへ我々が格安の小麦を提供することで事態は沈静化しました。
こうして叔父は名を上げ、私の懐もうっはうは。叔父はその後、政界に転身し、ロス大統領との熾烈な一騎打ちを制して、第二代レムリア大統領に就任しました。
落選して悔しがる前大統領を囲んで祝杯をあげた我々でしたが、しかし喜びもつかの間、実は干ばつ被害に遭っていたのはアスタクスのみならず、レムリアも似たようなものだったんですよ。
レムリアは元々、大陸性気候の影響で内陸部が砂漠化していて、あまり農業には適していませんでした。広大な大陸ですから、耕作に適した土地もたくさんありますが、輸出でやっていけるほどではない。地産地消が原則だったんです。
ところが、先も言いましたが、世界は魔王討伐後の雪解けムードでベビーブームが到来しており、人口は爆発的に増え続けている。このままでは、いずれレムリアも食料危機に見舞われるぞと危惧した新大統領は、そこで私に相談を持ちかけてきたのです。
穀物のプランテーションを増やしたいけど、どこかいい土地を知らないか? と……」
そうやって嬉々として長広舌を振るう男の顔を、アナスタシアはポカンとしながら見つめていた。
今更、彼が何者か? だなんて、もったいぶるつもりもない。この感覚には嫌になるほど身に覚えがあった。
まだ自分が少女だった時、保護してくれた男が毎日のように語って聞かせてくれた夢のような話を。
かつての自分も今と同じように、ぽかんとその顔を見上げながら、じっと聞いていたものである。
彼女は腕組みで頬杖をつきながら、呆れるような口調で合いの手を入れた。
「それで、先生はどうしたの?」
「そりゃ私だって、なんでも知ってるわけじゃありませんよ。そんなこと言われても、そう都合よくポンポンアイディアは浮かばないって、最初は断ったんですけどね……割りとすぐ思いついちゃったんですよねえ……
太古の地球にはパンパに匹敵する穀倉地帯が二つあったんです。
一つは東欧ウクライナに広がるチェルノーゼム。そしてもう一つは北米大陸のプレーリー。これらの大穀倉地帯から収穫された穀物は、当時、全世界を流通するおよそ7割を占めていたと言われている……
当時、70億人口の約7割ですよ? そのおよそ50億を支えたと言われる大地を手に入れれば、現在の地球人口を養うくらいわけないですよ。こんな美味しい話に飛びつかないで、どうするっていうんですか。
……問題はその二大穀倉地帯が、今は地球の裏側にあると言うことでした。人類の版図は未だ旧南極大陸……いわゆるロディーナ大陸周辺までしか広がっておらず、その先がどうなっているかはまだ未知数だ。
そこで、どうせこの先も人口が増え続けるなら、いずれ新たな入植先も必要になるだろうからと、これを機会に世界を一周して入植地の目処をつけておこうと大統領が言い出し……レムリアの予算から探検船の建造費を分捕って、この私がまんまと提督に就任したというわけです。ハッハッハ!
ええ、ええ、もちろん、約束通り、入植先の目処をつけたらレムリアに情報提供はしますよ。でも、この極めて危険な航海に当たって、発見した土地の利用法は、まず当社に優先権があるという条件を議会からもぎ取りました。
探検航海は過酷を極めるでしょうが、これを乗り越えれば我が社は世界唯一の穀物メジャーとして、この世界に君臨することになるでしょう……このビッグチャンスをものにするために、そして私はヴィクトリア港を発ち、ポートモレスビーから針路を南西に向けて、まずはインドネシアから東南アジアへと入り、長江周辺を調査して、奄美諸島からここ日本に……あっ」
目をランランと輝かせ、口角に唾を飛ばしながら嬉々として語っていた男は、その瞬間、自分が何をしにここまでやって来たのか。そして何故正体を隠そうとしていたのかを思い出したかのように、固まった。
目の前ではアナスタシアが、じっと彼の目を覗き込むようにして見つめている。彼は視線をぷいっと逸らすと、
「まあ、そんなわけで我々は地球の裏側を目指して航海中なわけですが……」
「先生……先生なんでしょう?」
「なんのことかな?」
しらばっくれてはいるが、もう間違いないだろう。トーと漫才をしているところで気づいても良かったくらいだ。
目の前にいるこの男、エドワード・ジョンストン提督とは仮の姿で、その中身は但馬波瑠、その人に違いなかった。
しかし、トーがあれだけわかりやすくその正体を示唆していたというのに、アナスタシアは今の今まで彼の正体に気づくことは出来なかった。
それは、目の前の人物が、自分の記憶の中の但馬とはまったく似ても似つかない別人に変わってしまっており、おまけに、さっき村の浜辺でその記憶の中の但馬の姿を見てしまったからだった。
だが、アナスタシアの予想が正しいのであれば、さっきの彼と目の前の男の中身は入れ替わっている。
どうしてそんなことになっているのか……?
彼女はどうにかして、目の前の男からそれを聞き出そうと、獲物を狙う猫のような目つきを彼の方へと向けた。