日本訪問編⑦
ブリジットとアンナが真剣を交えて対峙している真っ最中、まさか娘がそんなことをしているとは露知らず、アナスタシアは行く宛もなく、とぼとぼと海沿いの道を歩いていた。
本当なら、いつ患者が来るかわからないから診療所に帰らなければいけなかったが、上陸した但馬たちが村に来るのも間違いなかったから、帰りづらかったのだ。
もしもブリジットと鉢合わせしたら、一体どんな顔をすればいいのだろうか?
もしも彼女がアナスタシアの不義を責めたら、どう言い訳すれば良いのだろうか?
アンナを身籠った時、但馬はブリジットの婚約者だったのだ。本当なら彼らは今頃、ロディーナ大陸を統べる大帝国を築き上げて、世界平和と人類の発展に多大な貢献をしていたはずなのだ。但馬波瑠という人物にはそれだけの価値があった。そして二人にはそれが出来るだけの行動力もあった。
それを、たった一度きりの過ちで、なにもかも台無しにしてしまったのだ。
そこへと至る様々な事情があったとはいえ、今更、どの面を下げて会えるというのだろうか。
砂浜に立つ彼の姿を見た瞬間の胸の高鳴りは、いつだったか、もう忘れてしまった懐かしい感覚だった。その人の隣にいる女性を見る時の胸の痛みも、ずっと忘れてしまっていた仄暗い感情だった。
かつてはあの場所に収まりたいと思う自分がいた。でも今はもう、本気でそんなことは考えてはいなかった。
但馬の隣には、ブリジットがいるべきなのだ。それは巫女としてティレニアに向かった時から、ずっと自分に言い聞かせている本心だった。
だから、ブリジットにあっちへ行けと手を振られた時、すぐにそうすべきだと従ったのだ。アナスタシアもそれで納得していた。なのに時間が経つに連れて、落ち着くどころか、胸の内にどんどんモヤモヤした物が蓄積してくるのは、何故なのだろうか。
頭ではどう考えていようと、本心では但馬に逢いたかったからだろうか……? その気持ちが全くないわけではない。だが、それで苦しいわけじゃなかった。
そんなことよりも寧ろ、あのブリジットが本当にあんな意地悪をするものだろうか? あっちへ行けと、彼女は本当に自分のことを拒絶していたのだろうか……? 時間が経つに連れて、段々それが疑問に思えてきて、腑に落ちない自分がいたのだ。
しかし、それはありえないだろう。だって虫の良すぎる話ではないか。
自分は間違いなくブリジットに最低のことをした。その彼女が、今ではもう恨むこともなく水に流してくれているだなんて、きっとそう思いたいだけの自分の錯覚だ。
だからやっぱりあの時のあのジェスチャーは、おまえなんかあっちへ行けというつもりで見せたものに違いないだろう。だから自分は、村から離れているのが正解なのだ。
でも、これからどうしたらいいのだろうか……?
彼らはいつまで村に滞在するつもりだろうか?
その間、自分はどこへいけばいいのだろうか?
置いてきてしまったアンナのことも気掛かりだった。まさかブリジットも、娘に父と会うななんて言い出さないだろうが、でももし、彼女が不快に思っていたとしたら……
また、もしアンナが、母の不義理を知ったとしたら……娘は悲しむだろうか? 自分は、嫌われてしまうのだろうか?
頭の中では嫌な想像ばかりがグルグルグルグルと廻り続けている。いつの間にか足元ばかり見つめていた彼女は、ため息混じりに首を振ると、きっと一人でいるから暗い考えばかり浮かんでしまうんだと、自分に言い聞かせるように顔を上げた。
と、その時だった。
いきなり彼女の目の前に、見知らぬ一人の男の姿が飛び込んできた。
こんなところに、どうして知らない人間が!? ……と、一瞬パニックになりかけたが、そう言えばレムリアの船がやって来ているのだから、いてもおかしくはないだろう。彼女はそう思い直して呼吸を整えた。
男は海に面した小高い丘の上にある一本松の下で、双眼鏡に目を当ててじっと富士山の方角を見つめており、こっちに気づく様子はなかった。すごく綺麗な山だから、もしかすると見とれてしまっているのかも知れないが、ところであれは何者なのだろうか?
周囲を見回してみれば、丘のすぐ下の入江に複数のボートが集まっていて、何人かの人間が忙しそうに荷下ろししている姿が見えた。港と言えば聞こえがいいが、そこには村の漁師たちが小舟を停泊させるために作った、粗末な桟橋があった。
獣人たちには技術がないので、自然堤防のある場所に作ったのだが、お陰で村からはちょっと遠かった。歩いて小一時間はかかるはずだが、考え事をしてたら、いつの間にかこんな遠くまで歩いてきてしまったようだ。
彼女は暫くの間、手持ち無沙汰に船員たちの姿を眺めていたが……そう言えばレムリアの船にはリオンが乗っていたとアンナが言っていたことを思い出し、せっかくだから彼に会って薬のことなどを相談してみようと、その姿を探し求めた。と、そんな時だった。
「おい、バカ! てめえ、いつまで呆けてやがんだ!」
突然、乱暴な声が聞こえてきて、びっくりして振り返れば、さっきの双眼鏡の男のところに別の男が現れて、いきなり彼の頭をひっぱたいているのが見えた。
「ぐぉ!? 眼が……眼があぁぁーーーっっ!!」
その瞬間、覗き込んでいた双眼鏡の接眼レンズに両目をぶつけたのであろう、男が右に左に体をよじって悶絶しはじめた。ものすごく痛そうである。しかし、やって来た男はまったく悪びれた様子もなく、彼の双眼鏡を引ったくると、
「俺にまで仕事押し付けやがって、いい加減シャキっとしろよ、シャキッと」
「お、おまえなあ……!! 失明したらどうするの!? 危うくムスカ大佐になりかけたよ!?」
「誰だよ、そいつ。そんなやつ、海軍にいたっけか……?」
「ツイッターを落とした男として名高い大佐を知らんのか? あ、いや、今はエックスだったっけ? マスコミ以外誰もそんなふうには呼んでないという」
「おまえが何を言ってるんだか、俺にはさっぱり分からねえ」
後からやって来た男が、呆れるような、うんざりするような素振りで肩を竦めている。何故かその姿に既視感を覚えたアナスタシアが、じっとその姿を見つめていると、やがてそれが誰だか思い出して驚いた。
それは確かトーという名前の男だった。まだS&H社が発足して間もない頃、銀行からの出向社員として経営に参画していた男である。会社が大きくなった頃、急に姿をくらましてしまったのだが、大分経ってから、実はアナスタシアの親戚だったと聞いて意外に思ったものである。
その男が、なんでこんなところに居るのだろうか? 但馬の関係者ではあるが、それなら彼と行動を共にしていないのは変である……二人はアナスタシアが動向を窺っていることには気づかずに、まるで長年の友のように駄弁っている。トーは双眼鏡の男の顔を覗き込むと、ニヤニヤしながら、
「ああん? おまえ、もしかして泣いてたの?」
「ばっ……ちげえよっ! おまえが引っ叩いたせいで目をぶつけたんだよ!」
「あーそう。別にそういうことにしといてやってもいいけどよ」
「なんだよその上から目線は。ムカつくなあ」
男が不貞腐れると、トーはやれやれと肩を竦めるお決まりのポーズをしながら、遠く富士山を見上げて、
「まあ、印象的な山だってことは認めるがな、そんないつまでも感動する程かねえ。おまえ、こっちに来てから全然仕事が手についてねえじゃねえか」
「富士山は日本人の心なのだよ。おまえにはこの気持ちが分からんのだ」
「俺には故郷なんて、ただ煩わしいだけの場所だったがなあ……」
彼らはそんな会話を続けていたが……と、その時、タバコでも取り出そうとしたのか、トーが不意に横を向いたかと思ったら、そこにいたアナスタシアとバッチリ目が合ってしまった。
その瞬間、まるでマズイものでも見られたかのように、トーの顔がみるみる内に青ざめていく……
別に覗くつもりは無かったのだが、結果的に覗いた格好になってしまったアナスタシアはバツが悪いと思いつつも、さほど仲良くも無かったので話しかけづらかったのだと自分に言い訳をしていると、
「なんだよ、おまえ? 金玉でもひっくり返ったみたいな顔しやがって……」
今度は隣の男がトーの動揺に気づいて、何か見つけたのか? といった感じに、ひょいとこちらへ顔を向けた。
男とアナスタシア。二人の視線が交錯する。
男は暫くの間、石でも見ているかのように無感情のままアナスタシアの顔を見ていたが、やがて驚愕に打ち震えるかのような形相へと変化し、次いで慌てて視線を逸らして背中を向けた。
そのまるで避けるような素振りから察するに、男はアナスタシアのことを知っていそうだったが、しかし彼女の方はその顔にはまったく見覚えがなく、従って男がどうしてそんなに驚いているのかも分からなかった。
もしかして以前、どこかで会ったことでもあるのだろうか? 記憶を辿ってみるが、全く思い出せない。だから勘違いじゃないかと思ったのだが、しかし、そうは思っても何故か引っかかりを覚える自分がいた。
それは彼の顔ではなくて、さっきまでの二人の会話だ。その雰囲気に、どこか既視感というか、懐かしさを感じるというか……
「よう、すげえな、おまえ。よく見つけたな」
アナスタシアが胸の内で引っかかる、モヤモヤとしたものに頭を悩ませていると、珍しいものでも見るような、そんな目つきでトーが話しかけてきた。すごいとはどういう意味だろうか……?
「久しぶりだな、アナスタシア」
「どうも……トーさん。お久しぶり……」
「さん付けはやめろ、さん付けは。俺はおまえのお父さんじゃないんだぞ」
トーはそんなしょうもないことを言ってヘラヘラしてから、ぶっきらぼうに、
「つーか、おまえ。但馬と一緒じゃなかったのか? あいつなら、さっき村の方に行っただろう?」
「うん……」
「入れ違いか何かか? いや、奴が来てるってことは知ってるんだから、それはないな」
「うん……」
「じゃあ、なんでこんなとこに居んだよ、おまえ?」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、アナスタシアは少々バツが悪そうに、
「その……私が居ると……姫様に悪いから……」
「はあ? 何が悪いって……?」
トーは最初、彼女が言っていることの意味が分からず、怪訝そうに首を傾げていたが、
「はっ! ガキまでこさえておきながら、今更何言ってやがんだ……って、痛っ!!」
彼がそう言って軽薄そうに笑い始めると、それまでアナスタシアに背中を向けていた男が、突然振り返り、思いっきりトーの脳天に拳を振り下ろした。
ゴツンと大きな音が鳴って、本気で痛そうである。
「……ってーな! 何しやがる!」
「トー……ところで、さっきから気になってたんだけど。そっちは?」
アナスタシアが尋ねると、頭を抱えて涙目になっていたトーは、ギロリと男のことをひと睨みしてから面倒くさそうに言った。
「ああ、こいつの名はエドワード・ジョンストン。一応、この船団を率いている提督だ」
「提督……?」
「偽名っぽいだろ?」
「おい、余計なこと言うなよ」
アナスタシアをよそに、二人はまたじゃれ合っている。偽名かどうかはともかく、どこかで聞いたことがあるような名前だと思っていたら、
「ほら、リディア海軍のトップにずっとジョンストンってのが居座ってただろう。但馬のせいで国がぶっ壊れてからも、そのままレムリア海軍を指揮していたんだが……こいつはその甥っ子だ」
「あー……」
言われて思い出したが、魔王討伐後、インペリアルタワーで目覚めたアナスタシアはレムリア艦隊に救助されたわけだが、その時の責任者がジョンストンと名乗る初老の男性だった。それくらいしか面識はなかったのだが、獣人たちと日本へ移住する際にも、大統領夫妻共々とても世話をしてくれた男である。
彼はその人の甥と言うことか……アナスタシアは納得しかけたが、しかしすぐに違和感を感じて押し黙ってしまった。
どうしてそんな人とトーが仲良さそうにしているのだろうか? さっきのあの感じだと、二人は古い知り合いのようだが、リディア時代にそんな人物は見たことも聞いたこともなかった。
彼らはいつ知り合ったのだろうか? いや、そもそも、トーはどうしてこの艦隊に参加しているのだろうか?
それに、このジョンストン提督を名乗る男は、さっき双眼鏡で富士山を見ながら涙を流していた。あれは一体、何故だったのか……?
アナスタシアが不審に思っていると、その表情から察したのだろうか、トーはまたいつものやれやれといったポーズをしてから、いきなり提督の背中を思いっきり叩いた。
「いてえっ!! なにしやがるっ!!」
「それはこっちのセリフだっての……つーか、おまえ、どうせ仕事が手につかないんだったら、そこにいるそいつにこの辺の案内でもしてもらえよ」
「はあっ!?」
「おい、アナスタシア。あの山がよく見える絶景スポットとかあるだろ? 適当に、こいつを連れてってやってくれないか?」
「いいけど」
どうせ今はまだ村に帰るつもりはない。ちょうどいい時間つぶしになるとアナスタシアが請け合うと、男は迷惑そうに、
「おい、待てよ、トー。分かってんだろ」
「何がだ? こっちのことは心配するな。仕事なら、全部リオンがやってくれる」
「おまえがやるんじゃないんかいっ! ……っていうか、別に俺も仕事しないとは言ってないだろう? 帰るよ、帰る。仕事大好き」
「はっ! 堂々とサボっといてよく言うぜ。どうせおまえが居たところで役に立たん。さっさとどっか行っちまえ」
「あの……私が嫌なら、他の人に頼んでもいいけど?」
「全然嫌じゃないよ!?」
アナスタシアは、どうも乗り気で無いようだからと、気を利かせたつもりで言ったのだが、男は即座に否定してきた。それじゃあ、なんでそんなに抵抗するんだろうと眉を顰めていると、トーが鼻で笑いながら男の背中をぐいっと押した。
バランスを崩した男がよろけながらアナスタシアの方へと向かってくる。彼女はその体を受け止めようと手を伸ばしたが、男はその寸前で必死の形相で踏ん張って立ち止まった。
目の前に男の顔が迫る。
男は幽霊でも見るような、ギョッとした顔で凍りついている。
どうしてそんな顔をするのかは分からない。何しろ、これだけ間近で見ても、その男の顔に見覚えはまったくなかった。しかし、男は何故かアナスタシアのことを知っていそうな素振りだった。そして自分も、なんだかこの奇妙な男に違和感というか、既視感のような、そんななにかを感じ始めていた。
この感覚は何なんだろう?
彼女が不思議がっていると、そんな二人の姿を見ていたトーがまたぶっきらぼうに、
「じゃあ、後は頼むわ。二時間くらいで終わらせてくれ」
「おい、その具体的な数字はなんだ。やめてくれ」
トーは手をひらひらさせて去っていった。男は暫くの間、その軽薄そうな背中に非難の声を浴びせていたが、やがて諦めると肩をがくりと落として、隣で待ちぼうけているアナスタシアの方を横目でちらりと見た。
二人はそのまま暫くの間、お互いの目を見つめたまま制止していたが、やがてどちらからともなく目を逸らした。
この男は一体何者なのだろう……その答えを求めて、そしてアナスタシアは沈黙を破るように歩き始めた。