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玉葱とクラリオン  作者: 水月一人
グレートジャーニー(玉葱とクラリオン after story)
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日本訪問編⑤

 獣人たちの村の中心には、村長ジュリアが開いた小学校があった。獣人は皆、子育ての経験がなく、子供が生まれてきても勝手が分からないものだから、ずっとリディアで孤児院を経営してきた彼女が、その経験を活かして面倒を見てあげているのだ。


 その孤児院の共同経営者だったアナスタシアは、ここでは学校に併設する診療所を開設して、村唯一の医者として村人たちの健康を管理していた。


 獣人は病気に罹らないが、生まれてくる子供たちはみんな普通の人間だから病気に弱い。この島にはまだ未知の病原菌がウヨウヨいるので、子供たちは度々、たちの悪い病気に罹っており、その度にアナスタシアが魔法を使って治していたのだ。


「求めよ、さらば与えられん。探せよ、さらば見つけられん。叩けよ、さらば開かれん。あなたがたのうちで、パンを求めるものに石を与える者があろうか。魚を求めるのに蛇を与えるものがあろうか……」


 アナスタシアが厳かに聖書の一節を読み上げると、彼女の体が蛍光色にほの明るく輝きだし、続いてその光が伸びるように患者の赤ん坊を優しく包み込んだ。すると、それまで熱で真っ赤になっていた赤ん坊の顔がみるみるうちに平静に戻り、苦しげな呼吸が穏やかな寝息へと変わっていった。


 ティレニアの巫女の家系にのみ伝わる回復魔法である。


 かつて但馬は抗生魔法と呼んでいたが、この光はヒール魔法とは違って傷を塞いでくれはしないが、見えない病原菌やウィルスを退治することに特化しているらしく、どんな病気もたちどころに治してしまうという優れものだった。


 それはさておき、そんな彼女の治療をハラハラしながら見守っていた母親は、穏やかな寝息を立て始めた赤ん坊とは逆にグスグスと泣き出して、アナスタシアの手を熱烈に握りしめた。


「ううぅぅぅーーっ……アナスタシア先生、ありがとう! 先生がいなかったら、赤ちゃんが死んじゃってたよ。先生は命の恩人だよ」

「大げさだよ。また何かあったらいつでも来てね。お大事に」


 アナスタシアは大げさなどと言ってはいるが、実際、それは大げさどころの騒ぎじゃなかった。


 日本へ移住してきてから約3年。この楽園みたいな島で開放的になった獣人たちは、多くの新たな命を育んできたが、もしも彼女がいなければその大半は命を落としていたことだろう。


 彼女は泣いて縋り付く母親を家に帰すと、一応、赤ん坊から採取した唾液を培地に取ってシャーレに乗せた。昔、ハリチにあった微生物研究所の見様見真似で、病原菌を特定しようとしているのだが、今のところうまくいった試しはなかった。


 この診療所にある設備はレムリアから持ち込んだ顕微鏡くらいで、彼女には医学の知識も無く、手持ちの薬も底をついていた。尤も、そんなものが無くても、彼女の魔法があれば何も困らないのだが、こうして何かしていないと落ち着かなかったのだ。


 確かに、アナスタシアはどんな病気でも治してしまえる魔法が使える。しかし、その魔法はいつまで使えるかは、わからないのだ。


 その昔、ティレニアの四賢者から聞いた話では、この世界の太陽は、天空の人工衛星リリィと各地に点在する世界樹によって管理されており、そのメンテナンスのために巫女の力が必要だった。しかし、本物の太陽を取り戻した現在、もう巫女の力は必要なく、世界樹もその機能を停止しているはずなのだ。


 実際に、黄昏戦争後、救出されたアナスタシアは世界樹が停止したという話を聞いた。そのお陰でエトルリア女皇リリィもお役御免となり、今は避暑地でのんびり余生を過ごしているとのことである。


 故に、未だに魔法が使えるのは、これまで世界樹が蓄積してきたマナがまだ大気に残っているからだろうが、その供給が絶たれた今、いつ使えなくなるかはわからないのだ。そしてそうなった時、アナスタシアには、もうこの日本の子供たちを守る術はなく、彼らの免疫力に頼ることしか出来なくなるだろう。


 そうなった時、果たして自分は耐えられるだろうか……?


 魔王討伐成功に浮かれる人類に嫌気が差して、こうして飛び出してきたわけだが、やはり獣人だけで暮らしていくのもそろそろ限界かも知れない。この島はとても住心地が良く、決してあっちに帰りたいとは思わなかったが、せめて技術の交換だけでも、最低限の接触は残しておいた方が良かったかも知れない。


 幸い、この島と獣人のことを知っているレムリア大統領は昔の同僚だし、その政府では義理の弟も働いている。彼らなら真剣に話を聞いてくれるだろうから、一度、自分だけでも相談をしにレムリアに帰ってみようか。


 ただ、そうするとその間、診療所を閉めることになってしまう。島に自分の代わりとなる医者は一人も居ないし、どうしたらいいだろうか……


 アナスタシアがそんな考えに没頭している時だった。バタン!! っと、大きな音を立てて、診療所に娘のアンナが飛び込んできた。


「お母さん!」


 その振動で建付けの悪い診療所がグラグラ揺れて、机の上の顕微鏡が倒れそうになった。慌てて手で押さえつけながら、彼女はムスッと藪睨みしつつ、この無法者の娘を非難した。


「アーニャ! ドアは静かに開け閉めしなさいって、お母さんいつも言ってるよね!?」

「ご、ごめん、お母さん……ちょっと、その、あの、急いでいたもので……」


 アンナは母に怒られてシュンとしている。娘のそんな姿を見てるとアナスタシアも悲しくなってしまうのだが、母として娘の躾は厳しくしなければ……彼女は心を鬼にして、


「アーニャだって、いつか素敵な人と出会って恋をするかも知れないんだよ? その時、そんなはしたない姿を見たら、その人はがっかりするかも知れない。その時になって後悔したって遅いんだよ? 女の子はいつでもお淑やかにしなきゃ」

「あの、お母さん、時代錯誤も甚だしいし、第一、この島でそれはあり得ないから。男なんて無節操のアトラスくらいしか……はっ!?」


 アンナは、大好きな母に叱られて一瞬頭の中の用件が飛びかけてしまったが、すぐに思い直して、


「じゃなくて! 大変なんだってば、お母さん! 言いつけを守らなかったことは謝るから、今は私の話を聞いて?」


 普段は聞き分けのいい娘なのに、どうしたのだろうか。アナスタシアは小首を傾げて、


「ええ? どうしたの、なんだか切羽詰まって見えるけど……そう言えば、さっき広場で誰か騒いでたけど、あれは何だったの? あなた、確かめてくるって出ていったよね」

「うん、だからその話がしたくって……あのね、実は今、浜に船が来てるんだよ! レムリアから来たんだって」

「レムリアから……!?」


 アナスタシアはその言葉を聞いて色めきだった。たった今、なんとかしてレムリアと交渉が出来ないだろうかと考えていたら、まさかその国の船がやって来てるだなんて。まさに、渡りに船とはこのことである。彼女は興奮気味に娘にがぶり寄った。


「それって本当!? 今、レムリアの船が来てるって!」

「ほ、本当だけど……どうしたの急に、お母さん」

「こうしちゃいられない。すぐに話をしに行かなきゃ……あ! まさか、人間たちが来たからって、村の人達みんなで追い返しちゃったりしてないよね?」

「う、うん、村の人達はみんな大歓迎で、今、村長さんが話をしてるとこだけど……」

「え……歓迎してる?」


 人間嫌いの獣人たちがどういうことだろうか……? 困惑していると、そんな母の表情を読み取った娘が言った。


「あのね、最初、船から下りて来たのはリオン博士だったんだよ。博士も獣人だから、みんな警戒しなくて済んで……」

「リオンが来てるの!?」


 まさか、レムリアの中でも特に話しやすい相手が来てくれているなんて……アナスタシアは、自分の幸運に小躍りしたい気分だった。


 今や押しも押されぬレムリアの科学技術長官殿なら、この島の医療問題についても的確にアドバイスしてくれるはずだろう。お願いすれば、定期的な薬品の取引も出来るかも知れない。


 もちろん、旧交を温める気持ちも忘れてはいないが、今はそっちが先決である。早速、交渉をしに行かなければ……アナスタシアはそう考えると、いそいそと出かける準備を始めた。


 アンナは普段はのんびり屋の母の活動的な姿に戸惑って、暫くの間、その様子を呆然と眺めていたが……やがて、娘を置いて飛び出そうとしている母の背中を見て我に返り、


「ちょ、ちょっと待って! お母さん、一人で行かないで!!」

「アーニャもついてくる? なら、リオンに紹介してあげるね」


 しかしアンナはブルブルと大きく首を振って、


「そうじゃなくって……いや、博士に紹介してくれるのは嬉しいけど、そうじゃなくて、来てるのはリオン博士だけじゃないの!」

「うん、それはそうだよね、一人で泳いでくるわけにはいかないし……?」

「そうでもなくて、あーもう……そうじゃなくて魔王が……魔王が……」

「麻黄? 麻黄がどうしたの?」

「……あああああ! もう!! お父さんが来てるんだよ!!」


 そんなアンナの叫び声に気圧されて、アナスタシアは目をパチクリしながら佇んでいたが、


「はあ……え? お……父さん?」


 彼女は最初、娘の言っていることの意味が分からずぽかんとしていたが、段々その意味がわかってきたのか、みるみる内に顔色が変わっていき、突然、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。


「わあっ! お母さん、大丈夫!?」

「お……父さん? お父さんて……あなたのお父さん?」


 アンナが崩れ落ちた母を抱き起こすと、母は娘の顔ではなく虚空に焦点を合わせながら、誰にともなく呟いた。


「でも、お父さんは……死んだよね?」

「そうだけど、でも、生きてたんだよ!」

「生きて……? でも、でも……あれ?」

「もう、お母さん、しっかりして!!」


 アンナが母の肩を掴んで揺さぶると、やがてアナスタシアはそれを嫌がって娘の体を押しのけつつ、ものすごくフラットな表情で、


「ごめん、アーニャ。冗談だったら笑えないんだけど……」

「怖い顔しないでよ! 私だって信じられないんだから……とにかく、百聞は一見にしかずだよ。今はまだ浜辺に居るから、一緒に会いに行こうよ」


 アンナが焦れったそうに腕を引っ張ると、母はさっきまでの活発さが嘘のように、ノロノロと頼りない足取りでついていくのが精一杯のようだった。


 二人は診療所を出ると、村の中央から浜へ降りる道へと向かった。高台にある村からは、すぐ下に広がる入江が見渡せたが、アンナの言う通り、そこに三隻の蒸気船が浮かんでいるのが見えた。前後2本の煙突から黒々とした煙を撒き散らし、遠目には縮尺がいまいち掴めなかったが、普通の客船よりもちょっとブリッジが高く、遠くを見渡せる構造になっている。


 やはりいまいち良く見えなかったが、船上にはためいているその旗は、間違いなく玉葱とクラリオン。その昔、エリオスとフレッドと4人で会社を立ち上げて以来、ずっと使われ続けている懐かしいエンブレムだが、今ではレムリア海軍の所属であることを表す海軍旗となっていた。


 そんな同型艦が三隻、めだかの学校みたいに仲良く泳いでいる湾を見下ろしながら、急いで坂を下っていくと、やがて浜辺に人の輪が出来ているのが見えてきた。


 段々と足がすくんで動かなくなっていく体を、娘にグイグイ引っ張られながら進んでいくと、その人の輪っかの中心の辺りに、黒目黒髪の男が居て、獣人たちに揉みくちゃにされながら苦笑している姿が見えた。


 その瞬間、アナスタシアの心臓はバクバクと鳴り出し、口から飛び出してしまいそうになった。


 何かの間違いではないのか?


 耳たぶまでが熱くなって、血液がバクバクと音を立てている中で、彼女は乾いた唇を唾液で濡らしながら、必死にその姿を細部まで食い入るように凝視した。


 その髪も瞳も整った顔立ちも、何もかもが記憶の中のその人そのものだった。ずっと同じ家で暮らしてきたのだから間違いようがない。


 何故かは分からないが、彼は生きていたのだ。


 但馬波留は生きていた。


 その事実を確認するや否や、アナスタシアの頭の中は真っ白になってしまった。頭の中を駆け巡る情報の量が多すぎて、もうどんな言葉も出せなくなっていた。唇が震え、視界がぼやける。娘の肩を押しのけて、無意識的に進み出る足が、一歩二歩と自然に彼の方へと向かっていく。まるで彼から発する重力に引かれているかのように……それは徐々に加速していき、やがて駆け足になろうとしていた。


 しかし、そんな彼女の足が、ピタリと止まった。


 かつて自分が愛した男が目の前にいる。なのに、彼女はそれ以上一歩も近づくことが、一瞬にしてできなくなってしまった。


 何故なら、その彼の隣に、小柄な金髪女性の姿が見えたからだ。


 ブリジット・ゲーリック。金色のふわふわなショートヘアに青い瞳。腰には不釣り合いなくらい大きな剣をぶら下げていて、いつも恋する乙女のような瞳で、隣に立つ男の顔を見上げていた。


 彼女はあの時も、今も、いつだって、彼の隣にそうして立っていた。その姿を見つけた瞬間、アナスタシアの足は地面に縫い付けられたかのように、まったく動かなくなってしまった。


「どうしたの? お母さん?」


 母の様子が突然おかしくなったことに気づいたアンナが問いかける。


 アナスタシアは、母を気遣う娘の声に答えることが出来ずに、ただ呆然と立ち尽くす……


 と、その時だった。


 獣人たちの輪の中の、但馬の隣に立つその金髪女性が、ふとこちらに気づいた風に視線を上げた。ブリジットは、丘の上に立っているのが誰なのか、すぐに気づいたのだろう、パッと一瞬懐かしそうに顔を輝かせたが、すぐその表情を曇らせてしまった。


 彼女は苦笑するような、困ったような、そんな顔をしたかと思えば、突然、手の甲をこちらへ向けてパッパッと振り払い、それから浜辺の方を指さした。


 その意図は分からなかったが、まるでこっちへ来るなとか、あっちへ行けと言ってるみたいに見えて……いや、そうとしか思えない……それを見た瞬間、アナスタシアの心は完全に挫けてしまった。


 但馬に逢いたい。その一心でここまで来た。その気持ちはどうしようもなく本物だった。でも彼女のことを押しのけてまで、そうすることは出来なかった。


 何故なら、彼女の……ブリジットの幸せを奪ってしまったのは、他ならぬこの自分なのだから。


「……私、行けない」


 突然、アナスタシアはそう言うなり、くるりと踵を返して来た道を戻り始めた。


「え!? なんで??」


 父の姿を見るなり固まってしまった母を、じっと見守っていたアンナは、今度はまた突然、彼には会えないと言い出した母に面食らって問い返した。しかし、彼女は何も語ることなく、黙ってどんどん遠ざかっていく。


 アンナは引き留めようとしてその肩に手をやったが、母はその手を乱暴に振りほどくと、拒絶するような冷たい視線で振り返ってから、すぐまた足早に歩き去っていってしまった。


 アンナのことを睨みつけたその目は、未だかつて見たことのない、どうしようもなく怖いものだった。一人取り残されたアンナは、その場に立ち尽くすことしか出来なかった。なんで、突然、母は心変わりしてしまったのだろうか……?


 振り返ると浜辺では、まだ父を取り囲んで獣人たちが騒いでいる。その父の隣には、まるでそうするのが当たり前のように、見知らぬ金髪女性が付き添っている。


 そう言えばさっき、母が駆け出そうとした瞬間、あの女がおかしなジェスチャーをしていたような……もしかして、母はあの女に気後れして逃げ出してしまったのだろうか?


 だとしたら……許せない!


 二人の間に何があったかは知らないが、もしもあの女が母の幸せを邪魔するというのであれば、自分がなんとかしなければならない。アンナはそう決意すると、肩を怒らせ目に闘志を滾らせて、母のライバルを排除すべく走り出した。


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玉葱とクラリオン・第二巻
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― 新着の感想 ―
[良い点] 以前と違って今のアナスタシアには彼女を思ってグイグイ突撃できるアンナがいるのが頼もしい ブリジットは自分で突撃するし、以前みたいに最悪の結末にはならなそう
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