日本訪問編②
雲ひとつ無い快晴の空に、鳶が舞っていた。中天に燦然と輝く太陽を廻るように、弧を描いている。そいつがピーヒョロと鳴く度に、男の耳はピクピク動いた。
忌々しい鳥め……今朝、釣り糸を垂れてから、ずっと上空を旋回し続けている。狙いは言うまでもない、彼の釣り上げる魚であった。
この浜で漁をしている男は、いつも釣果を浜辺の生け簀に放り込んでいた。ところが先日、そこに獲物があることに気づいた鳶が攫って以来、味をしめてしまったのだ。
鳶はそれからも、男が釣りをしている時を狙って、生け簀の魚を奪いにやって来ていた。一度やられたのなら二度とやられないように、網を張るなりなんなりして対策をすればよかったろうに、男はそうはせずに今日も無防備に釣りを続けていた。
何故そんなことをしているのかと言えば、それは彼のプライドが許さなかったからだ。
彼にとって、獲物を奪われることは、屈辱以外のなにものでもなかった。汚辱は晴らさねばならない。そして盗人には罰を与えねばならない。仮に相手が鳥だって同じことだ。いや、寧ろ、鳥だからこそ許しがたい。獲物に獲物を獲られただなんて、恥ずかしくて仲間の誰にも言えやしないじゃないか!
彼はカッカする自分に冷静になれと言い聞かせながら、まだ上空の鳶に気づいていない素振りで、じっと釣り糸を垂れ続けていた。こうして油断しているフリをして、いざ鳶が獲物を奪いに来た瞬間、返り討ちにしてやろうと誘っていたのだ。
そう……彼は釣り糸を海に垂れることで、上空の鳶を釣ろうとしていたのである。
しかし、いくら鳥だと言っても相手は猛禽類だ。ものすごい速さで音もなく飛来し、あの鋭い爪で獲物をかっ攫っていく。そう簡単に、捕まえることが出来るだろうか?
普通の人間なら、そう思って躊躇しただろう。せめて罠を張ろうと考えるはずだ。だが、男には勝算があった。
何しろ彼には、鳥の微かな羽ばたきさえも聞き分ける、大きな猫耳があった。そして一度食い込んだら獲物を決して離さない、鋭利な爪があった……
そう、彼は獣人だったのだ。
リディアを席巻していた魔王が倒されたあと、メディアの地でひっそりと暮らしていた獣人たちは旅に出た。魔王を積極的に支持していたわけじゃないが、また差別的な人間たちとやっていく気には到底なれなかったからだ。
幸い、彼らを導く女王ジュリアにはプランがあって、実は予め魔王から、彼が倒れた後も平和に暮らせる土地を教えてもらっていたのだ。
そして旅に出た彼らは、満帆に風を受けてひたすら西を目指し、ここ日本の地へとやってきたのである。
大航海の末、大きな山の麓に上陸した彼らは、そこに村を作り、それから思い思いに散っていった。
前人未到の過酷な外の世界なのだから、みんなで協力しなければ生きていけないと思っていたが、別にそんなことはなかった。
何しろこの日本という島は、獣人にとっては楽園みたいなところだったのだ。
土地が肥沃で、種を植えておけば特に何もしなくてもその内勝手に生えてくるし、肥料も無いのに収穫時には実がびっしり生っていた。やせ細ったメディアの地では考えられないことだった。
そもそも農業などしなくても、島の木々にはすぐ食べられる栄養豊富な実が生っていて、それを食べている野生動物もたくさん棲息しており、何しろ人間がいないから、動物たちは警戒心が薄くて狩り放題だった。
川の流れが嘘みたいに速いことには驚いたが、その分、水が澄んでいて、そのまま口をつけて飲んでも平気である。水産物も豊富で、海では巨大な回遊魚が、川では身の引き締まったトラウトがいっぱい穫れた。
一日中寝て過ごしていても、食うには困らないという信じられない土地なのだ。
ただしその分、狩りの駆け引きという点では楽しみが少ないので、男としてはちょっと物足りなかったが、陸の動物と違って海の生物はまだ楽しめるから、こっちに来てから男は漁師の真似事を始めたというわけである。
そんな考え事をしていると、ピーヒョロロロロ……っと、上空でまた鳶が鳴いた。
魚がなかなか釣れないものだから、飽きてきてしまったのだろうか?
男は焦った。今日こそは、あの忌々しい鳥に一泡吹かせて、鍋にして食ってやろうと心に決めていたので、今更どこかに行かれては困る……
彼は釣り針をいったん引き上げると、目では海の中の魚を追い、耳では上空の鳶を気にしながら、歩き回っては釣り糸を何度も投げ続けた。しかし魚は一向に釣れそうもない。
次第に焦りが募ってくる。すると、また上空からピーヒョロと鳶の鳴き声が聞こえた。急かされてるみたいで癪に触るが、それにしても今日はなんだか騒がしすぎるような気もする。
上空から何か気になるものでも見つけたのだろうか? 確認したくとも、上を見上げて鳶に気づかれてしまっては計画がパーである。仕方ないので、男は大きな耳を更にピコピコ動かして、一生懸命空の様子を窺っていた。
と、その時だった。
じっと耳を澄ませていると、どこか遠くの方からボーーーッと長くて重厚な音が聞こえてきた。まるで法螺貝みたいな音だった。
もしかして、仲間の誰かのいたずらだろうか? その音を警戒して、鳶がどこかに行ってしまったら困るぞ……と思ってよく聞いてみれば、その音は陸ではなく、海の方から聞こえてくる。
海の方から音が聞こえてくるなんて、おかしいぞ? 男がそう思って顔を上げると、また沖の方からボーッという音が響いてきた。
そして、それに呼応するように、上空の鳶がまた甲高い鳴き声を上げて、どこかへ飛んでいってしまった。
男はチッと舌打ちしてから、逃げてしまった鳶の姿を目で追った。
鳶はあの大きな山、富士山の方へ向かっている。多分、今日はもう諦めて、巣に帰ってしまったのだろう。
一体全体、どいつが邪魔をしてくれたのだろうか……男はムスッとしながら海の方へと振り返った。するとまた、あの重厚な低音がどこからともなく聞こえてきて、何の音だろうと様子を窺っていると、薄っすらと沖合に黒煙が上がっているような、そんな気がしてきた。
しかし海から煙が上がるなんて普通に考えればありえない。
海底火山でも爆発したのだろうか?
男はなんだか怖くなってきてしまい、逃げようかどうしようか迷っていたが……
そうしている間にも煙の色はどんどん濃くなってきて、彼の目にもはっきりそれと分かるようになってきた。怖いもの見たさから、煙をじっと見続けていたら、それは段々とこちらへ近づいてきているように見えた。やがて遠い水平線の向こう側から、ニョキッと煙突のようなものが見えてきて、そのどこかで見たことがあるような形に、男はまさかと声を上げた。
そしてついに、それが全貌を露わにした時、彼は自分の目を疑った。
「あわわわわわ……早くみんなに知らせなければ!!」
それがかつてリディアの海を行き交う姿を、男は何度も見たことがあった。
海の向こう側から現れた煙とは、巨大な蒸気船が吐き出す煙突の煙だったのだ。
男は釣り糸を回収すると、海に背を向け一目散に走り出した。この緊急事態を早く村人たちに知らせねばならない。ここ、日本の地に近代的な船が来る理由なんて、他には考えられない。
人間たちが、攻めてきたのだ!