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BIOSPHERE 2.1 ②

 リリィに悪気は無かっただろう。ただ彼女は自分を作り出した但馬を神格化していて、自分と同等かそれ以上の力を有していないと都合が悪かったのだ。この時、彼女は自分では決められない決断を、彼に仰ごうとしたのだから尚更だった。


 ただ、そうして彼女が欲したスーパーマンは、人間の枠を越えていた。


 その結果、但馬は人間と言う生物の器には入りきれず、ただ増殖する肉の塊として復活してしまったのである。


 目覚めたら自分が一匹の虫だった……物語の世界なら平気かも知れないが、実際に自分がそうなっていたら、果たして正気でいられるだろうか。ましてや人は人として生まれたからには、人の形で無ければ脳が追いついてこないのだ。


 彼は最初に生まれ落ちた瞬間、即死した。自分の現状を直視すること無く、死んだことすら分からずに。次に再誕生した時は、ちょっとだけ長生きした。だが微々たるものだ。そうして再生と死を繰り返した末に、彼はようやく自分の現状を把握出来る程度にまで、長生きできるようになった。だが、そうなったところで意味はなかった。彼は現実を知った瞬間、絶望して死んだ。


 但馬は意識を取り戻しては絶望して死ぬというサイクルを繰り返した。ティレニアのガブリールたちが言っていた通り、彼は千年もの間、復活しては発狂して死ぬということを、本当に繰り返していたのである。


 彼が何度も生き返ることが出来たのは、それは彼の精神がリリィと同じようにコンピュータ上に形成された物だったからだ。


 リリィは死の間際、但馬の意識をコンピュータ上に再現する時に、自分の領域をそっくりそのまま彼に分け与え、この世から消えてしまった。マナを制御する力も、この世界の人々を管理するシステムも全て明け渡し、但馬にこの世界の命運を託したのである。


 但馬がどんなに苦しんでも、それに気づける存在は、もうこの世には居なかったのだ。故に、彼はたったひとりで、この絶望的な現実を覆さなければならなくなった。


 しかし現実を覆すと言ってもどうすれば良いというのか。


 但馬は自分自身では何も出来ない。傍から見ればただポッドの中で増殖しては崩れ落ちるグロテスクな肉塊に過ぎないのだ。


 だから彼は最初、夢を見始めた。現実をまともに見つめてしまうと頭がおかしくなってしまうから、現実逃避をはじめたのだ。


 この方法は案外うまく行った。


 但馬は肉体があるわけでも、目がついてるわけでもない。だから自分が何なのかと疑問を持たない限りはそれと気づかない。死んでリセットされた直後は自分が何者かはわからないのだから、これは夢だと思いこんでしまえば目が覚めるまでは自由でいられた。


 そして気が付けば、但馬は世界の中でプカプカと浮いているイルカになっていた。イルカは自由気ままに空を飛び、人々の生活の中を縱橫に泳ぎ回る。イルカから人々は見えるが、人々はイルカに気づかない。だから『あ、これは夢だな』と思ったところで、途端に目が覚めて現実を知り、彼は死ぬ。


 そうしてイルカになって、さ迷い始めたある日のことだった。イルカは森のなかで行き倒れていた人間の死体を見つけた。どうせ夢だからとその死体を乗っ取ったイルカは、面白おかしく暮らそうとした。だが、死人が生きているのだからすぐに破綻してしまい、目覚めた彼はやっぱり死んだ。


 けどこの方法はそれほど悪くなかった。他人の人生を乗っ取って気を紛らわせていれば、自分はちゃんと人間だと認識できる。そうして人間だと思いこんでいられる内は、辛い現実を思い出さずに長生きできたのだ。


 こうして死人に乗り移る行為を暫く繰り返している内に、イルカは生きている人間にも乗り移り始めた。他人にそれと気づかれないで済む死体なんてものはそうお目にかかれるものではないし、逆に意外と乗っ取ってもバレない人間ってのは居るものだ。例えば、借金取りから逃げてるとか、殺人犯だとか、人目を避けて暮らしている等など。その内、現状に悲観して死にたがってる人に、彼は好んで乗り移るようになっていった。どうせ死んじゃうなら、その体を貸してちょうだいよと言うわけだ。


 そして他人になりすましている内に、彼は自分が何者かと疑問に思っても、すぐには死ななくなっていった。どういうことかと言えば、自分は体を持って生まれ変わったのだと錯覚し始めたのだ。


 例えば、ある日彼は目覚めたら、見知らぬ場所で一人でぼんやりしている。


『あれ? ここはどこだろ? 俺は何をしていたんだっけ……?』


 と考えても、思い出すのは1万年前の記憶でしかなく、肉体があるから本当の自分に起きていることには気づかない。暫くすると自分にチート能力が沢山あることに気がつく。普通ならそこでおかしいと勘付きそうなものだが、


『まるで小説家になろうみたいだ、うはははは』


 と、異世界転移みたいな荒唐無稽な話に無駄な耐性があるせいで、そこそこ生きてしまえる。


 それでもその内、自分の能力に疑問を持ち、ここが地球であることに気づいたり、ただの異世界転移などではないと気づいたところで、彼は自分がなんであったのかを思い出して……やっぱり発狂して死んだ。


 そんなことを繰り返していたある日、彼はティレニアのシホウ家の後継者の男として目覚めた。


 シホウ家はアクロポリスから去りゆく聖女リリィを慕って、彼女に付き従いティレニアに渡ってきた一族だった。しかし、リリィが居なくなった後、彼ら一族郎党は、エルフが跋扈するティレニアの中で破滅の道を辿っていた。


 但馬はそんな一族の後継者に憑依した。後継者の彼は死の定めしか待っていない一族の長として、絶望しきっていたのだ。


 彼に成り代わった但馬は、


『没落貴族の家に生まれたのか、ありがちだなあ……』


 と思いながら、チート能力を駆使して一族郎党を死の危機から救った。そして一緒にティレニアに渡ってきた人々を導いて、エルフの森を焼き払い、開墾して、技術を授け、みんなが仲良く暮らせる国を作ったのであった。


 しかし、そんな彼はある日、タイタニア山の山頂にリリィが残した聖域を見つける。そして世界樹の遺跡に入った彼は、そこに自分が居ることに気がついてしまったのである。


 いつもなら、そこで発狂して、リセットして、生まれ変わって、終わりのはずだった。


 ところがその時、彼は狂いながらも、なんとか現世に留まっていた。


 もし今、自分が居なくなったら、ティレニアの人たちはどうなる?


 その思いが未練となり、彼は死ぬに死ねなくなったのだ。


 しかし、頭の中では自分が目の前の気持ちの悪い肉の塊だと言うことが分かっている。彼は現実と虚構の区別がつかない中で、必死になってあとに残る人たちのために、最後の悪あがきをした。


 肉塊から自分の分身を作り出し、これからティレニアの人々を導く王にする。そして、太陽を制御する能力をリリィの分身である巫女に、マナの量をコントロールする機能を世界樹に渡し、最後にいずれここを訪れるであろう別の自分が発狂しないように、彼らに役割を持たせることにした。


 こうして生まれたガブリール達は、但馬亡き後のシホウ家と共に五摂家となってティレニアを導いた。途中、世界征服を目論んで、その時の但馬に滅ぼされかけたが、概ね彼の目論見どおりに動いていた。


 そして初代ティレニア皇帝の但馬は死んだのであるが……しかし、オリジナルの但馬波瑠自身はこの地獄のループから抜けることが出来なかった。彼はリリィの力を放棄したことで、これ以上現世に留まる必要はないと考えていたのだが、そうではなかったのだ。


 リリィはこの世界の行く末を、但馬に託したのだ。


 それは他の星系へ旅立っていった人類が帰ってくるか、地球に残った人類が本物の太陽を取り戻し、マナなしでも生きていけるように自立するまで終わらない……


 その役目が残ってる限りは、但馬のループは終わらないのだ。


 リリィは、マナの使いみちを誤ったエルフを見限って、新たな人類を作った。ところがその新たな人類も、マナが無ければエルフと戦えず、怪我や病気を治せなくなるからと、今となってはマナが無くては生きていけなくなっていたのだ。


 そんなの関係ねえ、後のことは知ったことかと、止めてしまえれば良いのだが、ところが但馬には足かせがあった。


 二番目に興り滅亡した文明は、マナの使用に制限を設け、レベル制を敷いていた。誰もが自由に使えてしまうと、あっという間に世界が滅びてしまうからだ。実はこのシステムが残っていて、リリィ自身にも制約がかかっていた。マナを司る彼女は、人類の総意無しではマナの供給をストップすることが出来なかったのだ。


 そりゃそうだろう、機械が勝手に動いたり止まったりしたらたまらない。しかし、これが今の但馬には雁字搦めの鎖となった。人類の総意を得ようなんて、そんなのどうしようもないではないか。出来ることがあるとしたら、それはエルフともども皆殺しにしてしまうくらいだが、彼にはそんなこと出来そうもない。


 それから千年近くもの間、彼はループしていた。


 但馬は生まれ変わったら基本的に何も覚えておらず、ある日突然この世界の誰かとして目覚め、暫く放浪した後に、自分が何者かを思い出して発狂して死ぬ。その繰り返しなのだ。


 もし、1万年前に旅立ってしまった人類が帰ってくるような幸運があれば、それで済む話だろうが、もちろんそんな偶然はあり得なかった。その千年の間には、発狂しながらも自分の意識を残したまま、どうにかこのループから抜け出そうと足掻く但馬も居た。


 だが、そうして彼が自分の本来の役目に気づいたところで、マナを放棄するために人類の総意を得るなんてことは不可能だった。


 そして何の手立てもないまま、彼は死と再生を繰り返し、ついに勇者の番になった。


 勇者もいつも通り、自分が異世界転移した勇者となったのだと勘違いしていた。そしてリディアを建国し、亜人とともにメディアを発見し、この世界が未来の地球だと気がつく。


 この時点で勇者は自分が何者であるかは、まだ気づいていなかった。だから、彼は自分の身に何が起きたのか、世界の秘密を探る旅に出た。アクロポリスの世界樹に潜り込み、アスタクス方伯と戦いを繰り広げ、勇者の名声を轟かせながら、彼は世界中を旅して周った。


 やがてセレスティアに国を作り、そしてティレニアにたどり着いた時、彼はようやく自分が何者であるかを思い出した。そしていつものように発狂して再生が始まるはずだったのだが、ところが、彼は生き延びたのである。


 彼には自分が愛した女と娘が居た。セレスティアには自分を慕う国民と、アスタクスにはライバルが居た。そしてメディアに取り残された亜人と、リディアには今も戦い続ける戦友が居た。その想いと絆が、彼をこの世に踏みとどまらせたのだ。


 こうして狂いそうになりながらも何とか生き残った勇者は、残り少ないであろう自分の余生を人類の自立のために使い始めた。それまで遠慮がちだった科学技術を大胆に開陳し、学校教育を施し、来るべき次代の若者の育成を始めた。そしてマナを無くしても人類が戦っていけるように武器を作り、蒸気機関を作って発電をしようとした。


 ティレニアで、かつての自分の子孫が巫女を連れて逃げ出したのは驚いたが、元々、偽太陽を制御する能力は自分の物だったのだからと、彼女の役目を解いて自分に取り戻した。


 そのせいで体への負担が増え、彼は歳を取るにつれて短気になっていき、それが最終的にクーデターを招く結果となったのだが……これまた天の配剤というべきか、彼は死んだことで返って自由になれたのだ。


 彼はイルカになっていた。


 元々、彼はイルカだったのだ。この世は夢だ幻だと、現実逃避して、世界中をプカプカ浮いて旅していた。その状態を取り戻した彼は、肉体の枷から解き放たれたことで、逆に自由に行動が出来るようになった。


 彼が死んだことで泣いている娘や亜人たちは気の毒だったが、その彼らのためにも次の自分には上手くやって貰わなければと、世界に仕掛けを施して回った。


 そして自分の後継者を探し出し、リディアで自分と同じ道を辿り、いち早くこの世界の秘密にたどり着けるようにしてからこの世を去った。


 こうして、リディアで目覚めた但馬波瑠は、勇者の目論見どおりに目覚めてたった1年でこの世が未来の地球であることに気がついた。勇者の残していたテクノロジーの萌芽を見て、それならばと近代化を推し進めていった彼は、人類に魔法が無くてもエルフと戦える力を授けることに成功する。


 魔法使いは古い時代の兵科となり、彼自身が民衆を導く指導者となって、経済が発展し、貴族制から民主化への流れを加速させ……そしてあのクーデターが起きたのだ。


 メアリーズヒルでその生涯を終えた但馬は、死んだことで自分が何者であるかを思い出した。


 自分はあの時ティレニアで見た肉塊だったのだ。


 そのことに絶望した彼は、間もなく発狂して死を迎えるはずだった。


 ところがその時、勇者の仕掛けが発動した。但馬が愛した女、ブリジットが自分の体を明け渡して、彼の魂を現世に引き止めてしまったのである。


 肉体があろうが無かろうが、自分が何者であるかに気づいた但馬はそう長くは持たないはずだった。だが、今自分が発狂して死んでしまったら、ブリジットはどうなる? 今、但馬の魂はブリジットの中に入っているのだ。


 自分の女を道連れにして死ねるわけがない。その思いが彼を現世に留めた。


 その瞬間、彼の怒りが爆発した。


 自分勝手な理由で反乱を起こしたクーデター軍に、そして自分の女を利用して但馬をこの世に押しとどめた勇者に。しかもそいつは、自分と同じ存在だと言うのだ。こうすれば自分が死ぬことが出来ないと、分かっててやりやがったのだ。


 彼は怒りのままに暴れまわり、クーデター軍の残党を血祭りに上げた。それでも怒りが収まらず、そのままティレニアへ向かい四摂家を襲った。こんな仕組みがあるから悪い。無駄なことだと分かっていたのに、彼らに嘘を教えていた勇者が許せなかった。


 しかし、その怒りの矛先がサリエラまで向いた時、彼はもうひとりの自分が愛した女アナスタシアに止められる。


 そして彼女のお腹の中に、自分の子供が居ると聞かされると、彼の怒りは急速に冷めていき、代わりに猛烈な自己嫌悪に襲われた。


 自分はどこまでこの子達を犠牲にしなければならないのか。


 そして彼は逃げ出した。それを見ていたラン達には、ブリジットがおかしくなったようにしか見えなかった。


 ティレニアの聖域に逃げ帰ってきた但馬は、自分の本体を見上げながら憂鬱な日々を過ごしていた。自分が何者であるかを理解した彼には、絶えず苦痛が襲ってきたが、それすら心地良く感じられるくらい、酷い苦悩に襲われていた。


 これからどうしていいのか分からない。だが、動き出さねば何も始まらない。


 この世界はつまるところ、とっくに袋小路に追い込まれているのだ。もし仮にリリィが新たな人類を作り出さなかったとしたら、エルフが全球凍結をさせてしまっただろうし、仮に今の人類が生き残ったとしても、彼らはマナを手放すことが出来ずに、戦争で滅ぶか、いずれ人工太陽が無くなって滅亡するだろう。


 リリィの決断は、どうせ滅びてしまうなら、あとは但馬に任せようと言うことだった。はっきり言って迷惑この上ない話だったが、彼女の責務は人類の保護だったのだから、ただ滅びるのを座して待つことができなかったのだろう。


 リリィを残し太陽系を出ていった人類は、どうせもう帰ってこない。だからもう太陽のベールを剥がして、元通りにしてもいいはずなのだ。だが、今の人類は本物の太陽があったことを知らず、リリィのことすら覚えていない。そんな彼らの総意を得なければ、但馬は施設を止めることが出来ない。


 そして施設を止めない限り、但馬はこの死のループから抜け出せないのだ。彼は頭を抱えた。


「だったらやるしか無いじゃないか」


 人類にエルフと戦わせて、魔法が無くとも自分たちはやっていけるんだと言う自信をつけさせるのだ。幸いと言っていいかわからないが、ヒール魔法が使えなくなっていることで、話は武力だけになる。そうして魔法など要らないと宣言させ、世界樹を止める。


 そのために、但馬が魔王となって君臨し、エルフの軍団を人類にぶつけるのだ。


 恐らく、多くの犠牲者が出るだろう。史上最悪の殺人だ。そんなことに自分が手を下すなんて考えるだけでも御免だった。だがもう仕方ない。放っておいてもこの世界は滅びるだけなんだから、最後の賭けに出るしか無いだろう。


 こうして彼は魔王となった。


 その姿がブリジットのままだとまずいから、肉塊から新たな体を作り出し、自分の精神をそちらへ定着させた。正直なところ、今の但馬にとって体の有無はどうでもいいことだったが、ブリジットにどうしても生き返って欲しかったのだ。


 しかし但馬が出ていってもブリジットは元に戻らないようだった。いろいろ調べてみたところ、彼女の記憶は第二文明の作り出したアヴァロンなるシステムに残されていたのだが、どうやら但馬が生きていると都合が悪いらしい。


 本当は今すぐ死んでしまいたいのだが、彼女に詫びてその体を保存する。


 怪我の功名と言うべきだろうか、この時に調べたお陰で、但馬はエリオスたちを生き返らせることが出来ると気づくと、リディアに残していた彼らの遺体から新しい体を作って復活させた。


 彼らのことを生き返らせる事が出来ただけでも、自分が生き残ったことに価値がある。そう思うことにして、彼はいよいよ魔王として世界に宣戦布告した。


 ところがこうして追い詰めても、なお人類は変わらず人類同士で争うことをやめなかったのだ。アスタクス方伯が困っているのを見ると、これ幸いとシルミウムでは内戦が勃発し、悪党が亜人を襲い始める。


 危機感を持っているのは但馬の昔の仲間達ばかりで、ウルフが、リーゼロッテが、アナスタシアまでやってきてしまい、彼は心が折れそうになった。特にアナスタシアに説得されると弱くて、この世に留まっていることに支障を来す始末だった。


 それで泣く泣く彼女のことを仮死状態にして、リーゼロッテは恐慌状態に落とし、二人を自分に近づけないようにした。ウルフは普通に撃退した。


 ともあれ、ここまでやっても独り立ちしようとしない人類を前に、彼は万策尽きていた。こんな希望のない状態で、彼はいつまでも現世に留まっていられないのだ。そして今の彼が力尽きてしまえば、もう人類に残されているのは緩慢な死あるのみだ。


 別に今すぐ滅亡するわけじゃない。だが、自分の仲間達が苦労する未来は容易に想像出来、彼はなんとかならないかと足掻いた。イルカになって世界を放浪し、希望の種を探した。


 そして彼はビテュニアに残された自分の娘と出会ったのだ。


 アスタクス方伯に保護されていたアンナは、母を失って孤独に打ち震えていた。彼女は信じていた剣聖に裏切られ、自分の父親が魔王であることを知って、その幼い心をズタズタに引き裂かれていた。


 ショックで口も聞けず、顔面蒼白でご飯も喉を通らず、なのに魔王の娘だからと疎まれて、誰からも相手にされない。そんな自分の娘を見つけて、但馬はとんでもないことをしたと痛感した。


 自分がこの子をここまで傷つけたのだ。


 宮殿で孤立し、望まれて生まれた子供じゃないと馬鹿にされ、助けてくれる母はもう居ない。アナスタシアは生きていると、今すぐ教えてあげたかった。駆け寄っていって抱きしめたかった。だが、彼にはもうそんな資格はない。


 もし、この上、自分が失敗したら、彼女はどうなってしまうのだろうか。彼女の未来は暗闇に閉ざされて、滅びゆく世界の中で、次々死んでいく人たちを眺めているしか出来ない。そんな絶望的な未来なんかを、彼女には見せたくない。


 そして彼は彼女にしか見えないイルカとなって、彼女の前に現れた。娘が辛い思いをしているなら助けてあげたい、その一心で彼女に色んな力を授けた。一人で生きていく方法、お金を稼ぐ方法、そしてエルフと戦う方法。


 世界は相変わらず紛争だらけで、人類はちっとも独り立ちしようとはしない。何度も挫けそうになったけれど、娘の成長だけが彼を正気に留まらせた。アンナはドンドン成長し、やがて前線でエースと呼ばれるようになっていった。


 彼はいつしか夢を見るようになった、成長した娘が希望となって人々を導き、魔王を倒して英雄になることを。


 彼女にはとんでもない苦労をさせた。あの小さかった女の子が、死と隣り合わせの戦場で生きて、きっと怖かっただろう、泣き出したかっただろう。なのに、そんなことを自分がやらせたのだ。だからせめて最後は、彼女の手にかかって死のう。


 そしてその夢が、今、現実になろうとしていた。


************************************


「キュリオ……キュリオがお父さんだったの!?」


 インペリアルタワー15階の謁見の間で、アンナは母の細剣を魔王を突き立てていた。物理攻撃が効かないはずの彼はそれであっさり貫かれると、そのまま謎の肉塊の入ったポッドにぶつかり、それが割れると部屋中を覆っていた肉塊がジュウジュウと音を立てて焼け落ちてくる。


 その、グロテスクな肉塊こそが、魔王の本体だったのだ。


 そして現れたイルカにそのことを告げられたアンナは、このイルカが、目の前の男が、そしてこの焼け落ちる肉塊の全てが、同じ人間だったと知った。


「待って……ちょっと待ってよ……!」


 彼女は魔王に突き立てた細剣を引き抜くと、そのまま崩れ落ちた彼の腹部に開いた穴を必死になって塞ごうとした。しかし背中まで貫通した傷を塞ぐすべはなく、必死な彼女をあざ笑うかのように、血液が地面を濡らしていった。その血は真っ青で、もう彼が人間で無いことを明確に表していた。


 アンナはフルフルと首を振った。彼女の脳裏にこの五年間が走馬灯のように駆け抜ける。魔王の娘と蔑まれ、宮殿で孤立していた時、彼女を助けてくれたのがイルカだった。幼い子どもが一人で生きていくことも出来ず、途方に暮れていた彼女に生きるすべを教えてくれたものイルカだった。その彼が戦い方を教えてくれたから、いつか母の仇を討ってやると魔王を恨むことで、今日まで挫けずやってこれたんじゃないか。


 彼女が辛い時、寂しい時、いつも一緒に居てくれたのはこのイルカだったのだ。父は、ずっとアンナと一緒に居てくれたのだ。


「嫌だ……嫌だ、お父さん死なないでっ!! どうすればいい? どうすれば元に戻せるの!?」


 魔王は言った。


「良いんだ。これで良い……俺は死にたかっただけなんだ。こんなわけの分からない姿で15年も生きていて、もう頭の中身はぐちゃぐちゃだったんだ。だからこれで良いんだよ。アーニャちゃん。君はこの絶望的な日々から、俺のことを救ってくれた。これは君にしか出来ないことだったんだ」

「嫌だ……嫌だあああああぁぁぁ~~~~!!!!」

「産まれてくれてありがとう。一緒に居てくれてありがとう。君が居てくれたから、俺は気が狂うこともなく、頑張ってこれたんだよ」


 アンナは泣き崩れて魔王に取りすがった。しかし、彼はもう自分の体がどこにあるのか、何だったのかもよく分からなかった。


 ただ、最後に娘が自分のために泣いてくれたことが、嬉しかった。


「アンナ。もう、その男を楽にしてやれ……」


 泣き崩れるアンナの後ろから、ボロボロになったアーサーがびっこを引きながら近づいてきた。彼はひどい傷を負いながらも、決して死にゆく男に背を向けること無く、彼の隣に跪くと、その手を握りしめながら言った。


「この男がどれほど人類に貢献してくれたのか。貴様にそれが分からないはずがないだろう。辛かっただろう。苦しかっただろう。その苦しみに耐え抜き、どんなに長い時間を生き抜いてきたというのか……それでも見知らぬ俺達のために、最後まで希望を捨てずに頑張ってきてくれたのだ。そんな男の最後の望みなんだから、笑って聞き届けてあげようじゃないか」


 すると魔王はうっすらとした笑みを浮かべながら、


「ありがとう、陛下……こんなことになってしまいましたが、俺は最後までこの王国の臣下たる矜持を忘れることはありませんでした。それが俺の誇りだったのです」

「この街の様子を見ればそれがわかる。そんなことより、最後にして欲しいことはないか。なんでも言ってくれていい。あなたが居なくなった後、俺達はどうすればいい?」

「はい。陛下はその剣を掲げ、もう魔法は使わないと宣言してください」

「……それだけでいいのか?」

「はい。気づいてないかも知れませんが、今、あなたに世界の注目が集まっています。第二文明のレベル制とは、簡単に言えば人々の想いの強さ。魔王を倒したあなたが、もう魔法は要らないと言えば、それが人類の総意となるでしょう」


 アーサーはエクスカリバーを掲げると、天に向かって宣言した。


「……この力は人を不幸にする。こんなもの俺たちには必要ない。二度と人類が使えないように、無くなってしまえばいい」


 するとその瞬間、周囲が暗闇に包まれた。日没だったわけじゃない。アーサーが突然の出来事に戸惑っていると、


「今は夜時間なんですよ……暫くすれば夜が明けるでしょう」


 魔王はそう呟くと、もう喋るのも辛いと言った感じに目を瞑った。


「お父さんっ!!」


 アンナが彼のことを呼ぶ。


 魔王はそんな彼女の声がもう聞こえないのか、それとも返事する余裕もないのか。ただ、目を瞑ったまま唇だけを吊り上げて、彼女のために笑みを浮かべると、


「今にして思えば、この千年間は……夢みたいで、あっという間の出来事だった」


 それが魔王の最後の言葉だった。


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[良い点] 辛すぎるけど綺麗な決着だった……これまで頑張ってきた先生が報われて欲しかったけど先生にとっては死ぬことこそが救済だったのか…… [一言] つらすぎる
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