BIOSPHERE 2.1 ①
西暦20XX年。有人火星探査船キュリオシティ01は、人類初のミッションのまさに最後の段階で、ベテルギウスの超新星爆発による事故に見舞われた。パルサーと化したベテルギウスから発するガンマ線の直撃を受けた探査船は、計器類の故障のために火星~地球パーキング軌道上から離脱したことも分からず、数年間も広い宇宙を彷徨うことになったのだ。
地球との連絡も取れず、計器の故障で自分たちの位置も分からない。無限の暗闇の中を彷徨う探査船。しかし、片道3年、往復8年かかるこのミッションには、始めから船内に自給自足のための施設BIOSPHERE2.0が作られており、この絶望的な状況の中でも彼らは辛うじて生きながらえることが出来た。
だが、こうして生き残れたことは、本当に幸運だったのだろうか。
寧ろ彼らは、最初の電磁波で死んでしまっていた方がマシだったかも知れない。
地球との連絡が途絶え、帰還の目処が立たず、乗組員たちは徐々に精神を蝕まれていった。当初の予定ではとっくに地球の重力圏へと復帰している期日を過ぎても、なお暗闇の中を当てもなくさ迷い続けている探査船の中は、絶望に支配されていた。
やがてその絶望に耐えきれなくなった乗組員の中から自殺者が出てくると、船内で派閥を作り協力を拒むもの、他の乗組員の生命維持のために英雄的な死を選ぶもの、些細ないざこざから殺し合いが始まって処刑されるものなどが出てきて、一人また一人と船内からは人が居なくなっていった。
そしてそんな逃げ場がない地獄のような日々の中で、最後まで生き残ったのが、この火星往還ミッションの最年少クルーであった、宇宙飛行士・但馬波瑠であったのだ。
全てのクルーが死んだ後、孤独に押しつぶされそうになった彼は、どんどんおかしくなっていった。宇宙船は相変わらず暗闇の中を飛び続け、地球に帰れる保証は無い。いや、既にこの時点で数年が経過しており、とっくに諦めていた彼は、だから何度も自ら命を絶とうと試みた。
だが、その度に、自分のために死んでいった仲間たちのことを思い出し……この閉鎖空間の中で、循環する生態系の一部となった彼らが、自分の体を作ってる意味を考えるととても死にきれず……彼は歯を食いしばって立ち上がると、最後の悪あがきを始めるのだった。
地球の位置は分からない、だが必ずどこかにあるはずだ。だからもう、ランダムに救難信号を送りまくって、偶然見つけてもらうことを期待しよう。彼はそう考えた。
誰もが思いつきそうなことではあったが、この広大な宇宙空間で、それは太平洋に浮かんだ小さな木の葉に放り投げた小石がぶつかるような確率に過ぎず、はっきり言って上手くいくとは到底思えなかった。
だが、追い詰められたこの状況では、彼にはもう他にやれることはなく、来る日も来る日も彼は何もない空間に向かって救難信号を送り続けては、その無駄な行為に時に絶望し、死にたくなっては仲間のことを思い出し、苦しみながらも自分で命を断つことだけは絶対にせず、その絶望的な日々を必死になって生き抜いていたのである。
だからもう、それは本当に、神の奇跡にしか思えないような出来事だった。
彼が救難信号を送り続けてから数年が過ぎたある日、事件は起こった。彼自身、とっくに諦めていた悪あがきに、返信が返ってきたのだ。
あまりの出来事に放心状態になった彼は、暫し身動きが取れなかった。そして徐々に沸き上がってくる喜びに打ち震えながら、貪るようにその返信を読み解こうとした。だが、送られてきた信号はただの乱数表のような数字の羅列で、意味が分からなかったのだ。
地球から送られてきた人類のメッセージでは無いのだろうか?
悩んだ彼は探査船に積まれていたデータベースを駆使して、その乱数表の解読を試みた。キュリオシティ01には何らかの事情で地球との交信が途絶えたときでも、乗組員の判断で生き残るために、イントラネット上にハイパーテキスト化されたあらゆる知識が残されていたのである。
それによって乱数表のようなものを解読した彼は、それが人間が送ってきたものでないことに気がついた。
それは21世紀初頭に打ち上げられた小惑星探査機プロスペクターからの信号だったのである。
その開閉式の放熱板の形状からリリィの愛称で呼ばれた探査機は、莫大な予算をかけた政治家たちが失敗を恐れたために、あらゆる緊急事態を想定した大艦巨砲主義的な設計がされており、打ち上げから数十年が経過した今も、あの絶望的なガンマ線の嵐の中でも生き残り、交信の途絶えた地球に向けてずっと信号を送り続けていたのだ。
なんてことはない。この状況下で他にやることが無かった但馬は、当てずっぽうに救難信号を送り続け、それを同じように地球を見失って信号を送っていた探査機に拾われただけだったのだ。
しかしガッカリすることはなかった。リリィとの交信を始めた彼はその能力に驚かされた。あらゆる想定外の事態を考慮して、様々な仕掛けを施されていたその探査機には、地球との交信が出来なくなった場合を想定して、自律的な行動を目論んだAIが搭載されていたのである。
その記憶領域は非常に広大で、キュリオシティ01のデータベースをも凌駕し、そのプログラムが旧式で無かったら本当にリリィは自分で考えて自分で行動し、地球へと帰還することが出来る可能性を秘めていたのだ。
その事に気づいた彼は、リリィのプログラムの更新を始めて、彼女の機能を使って地球の場所を割り出そうと試みた。やがてその甲斐あってリリィは人間には出来ないような複雑な計算を行えるようになっていき、ついに搭載されていた機能を使って、地球の重力圏を再発見したのである。
しかし、そうしてようやく見つけた故郷は、あまりにも遠い場所にあった。キュリオシティ01は、あの事故で帰還軌道を離れてしまったこの数年で、もう地球へ帰ることが出来ないところまで飛んできてしまっていたのである。
だが、但馬はそれを知っても、不思議と悲しむことはなかった。彼はこの数年の漂流生活で、とっくに諦めがついており、地球に帰れない事実を確認したことで、ずっと胸の中に燻っていたものが晴れ、これでようやく死ねるんだと、寧ろホッとしてさえ居たのである。
代わりに、リリィの位置からなら地球に帰れることが分かった彼は、彼女にキュリオシティ01のデータを全て託すことにした。
人類が初めて火星に到達した記録、その時に採集したあらゆるデータ、それから、キュリオシティ01のデータベースに残された、クルーたちの思い出。この広い宇宙の中で最後まで諦めずに戦おうとした人たちの記録を、リリィに持ち帰ってもらおうと、彼は考えたのだ。
但馬はリリィのAIを書き換え、探査機としての機能を外し、このあらゆるデータを地球に持ち帰るためのメッセンジャーへと改造した。他にやることが無かったから、来る日も来る日もリリィのプログラムをいじり続け、そして数年間の学習の末に、リリィは人類すらも超える、超AIへと進化していったのである。
『マスター、おはようございます。オリオン座は今日も晴れですよ』
そしてリリィはまるで人間のように自分で考え、話し、行動するようになった。それはもう何年も人との会話に飢えていた但馬の心を癒やした。彼女はとても聡明で、一度おしゃべりを始めたら、何時間でも夢中で会話し続けるくらいに楽しかった。なにしろその頭脳には、人類が今までに獲得してきた知識の集大成が詰め込まれており、文字通り打てば響くような代物なのだ。
そんなリリィはやがて訪れる但馬との別れをとても寂しがった。地球に帰れるのは彼女だけ、その通信機能はまだ交信の途絶えている地球に向けられるべきなのだ。だからリリィが地球へ帰る時、それが但馬との最後の会話になる。リリィは機械だと言うのに、それを本当に残念がったのだ。
意識してそうしたつもりは無かったのだが、それはもしかしたら但馬の寂しさが生み出した人格だったのかも知れない。もしくは本当に、彼女もこの数年間、宇宙空間をさ迷い続けた孤独から、シンパシーを感じていたのかも知れない。
それは良くわからないが、ただ言えることは、確かにその最後の日が来るまでは、二人はこの広い宇宙空間で、たった二人きりだったのだ。
『せめて、マスターがお亡くなりになるまで、一緒に居ることはいけませんか?』
だが別れを渋るリリィに但馬は言った。
「俺が死ぬまでまだ何十年もかかるから、その前におまえが一人で地球へ帰って、助けを呼んできてくれないか。それは俺が生きてるうちに間に合わないかも知れないが、せめてこの細胞が朽ち果てる前に、地球に連れ帰って埋葬して欲しい」
リリィが地球へ帰るには今でも数十年の年月が必要だった。そんな無駄な時間は過ごしてほしくない。それに、人はやっぱり一人で生きては行けない。年を取れば、自分はどんどん弱くなり、おかしくもなっていくだろうから、そんな姿をリリィに見られたくは無かった。
そんな但馬の気持ちを察したのか、リリィは旅立ちの日までの数日間、もう渋ることはなくなった。その代わりによく歌を聞かせてくれとねだられた。但馬はリリィが学習している最中、よくギターを弾いていた。こんな何も無い空間でも、歌を歌っていると不思議と心が落ち着くのだ。
それをリリィがどんな風に感じていたかは分からない。何しろ彼女は機械だし、歌なんてものは突き詰めれば空気の振動に過ぎないのだ。宇宙空間に空気はない。だからその歌が伝わることはない。だけどリリィはよく歌をねだった。それはもしかしたら、去りゆく彼女が但馬を不安がらせないように思って言ったのかも知れない。
最後の日、但馬はリリィを歌で見送った。別れの歌を口ずさむと、自然と涙が溢れてきたが、悪い気はしなかった。リリィは機械だったかも知れないが、それでも彼にとっては始めての大事な娘であった。
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数十年後、地球帰還軌道に乗ったリリィは、ついに懐かしの故郷へと帰ってきた。その間、彼女は但馬の言いつけを破って何度かキュリオシティ01へ交信を行ってみたが、返事が返ってくることはついぞ無かった。彼が最後どうなったのかは、リリィには分からなかった。
地球の重力圏に入ったリリィは、やがて人類との接触を果たし、そして彼女は人類の希望となった。
その頃、人類は不規則に回転しはじめた地球から逃げ出し、衛星軌道上に即席のコロニーを作り暮らしていた。しかし、逃げるまでは良かったが、それを維持していくための資源も足りず、また地球に降りられなくなってしまったことからインターネットを失い、それまで人類が連綿と蓄え続けてきた知識を失いかけていたのだ。
そんな時、宇宙の彼方から帰還したリリィは人類の救世主となったのだ。彼女の記憶領域にはキュリオシティ01から受け取ったあらゆるデータが記録されており、そこにはこれまでに人類が獲得した科学技術の全てが記されていたのである。
こうして、滅びかけていた人類は最悪の時期を脱した。ペストの大流行の反動がルネッサンスを生み出したように、この時の人類の飛躍も凄まじく、瞬く間に過去の栄光を取り戻すことに成功した。
数百年後、太陽系全域に活動範囲を広げた人類は、リリィの記録からキュリオシティ01の位置を特定した。サルベージされた船体の中を調べた人類は、減圧室の中で今も眠るように氷漬けになっていた但馬波瑠を見つけた。彼はリリィと別れた直後に命を断っていたのだ。
彼が居なければ、リリィは地球へ帰ることもなく、人類は滅亡していたことだろう。その遺体は地球へと運ばれ、丁寧に埋葬された。但馬波瑠とキュリオシティ01のクルー達は、こうして人類の歴史に英雄として刻まれた。
しかし自由に惑星間を移動することが出来るようになった人類であったが、相変わらず故郷の惑星に帰ることは出来なかったのだ。太陽系は未だにベテルギウスの発するガンマ線の影響下にあり、いつ飛来するか分からないそれのせいで地球に降り立つことが出来ない。
いや、降りることは出来るのだが、ガンマ線の影響を受けないコロニーやドームの中でしか暮らすことが出来ないのだ。大地を自由に駆け回ることは出来ず、生き物は死滅して、あれほど美しかった地球は死の星となっていた。
これを元通りにすることは出来ないか、長らく議論がなされていた。
CPNがあれば人間は大概のことは出来たが、いつ飛んで来るか分からないガンマ線なんかはどうしようもない。それで考えられたのは、地球をガンマ線を弾くシールドで覆うか、ガンマ線が飛んでこない場所まで運んでしまおうと言うことだった。
しかし、これは上手く行かなかった。恒常的にシールドを展開しておくにも、地球を動かそうにも、一体どこからそのエネルギーを持ってくれば良いのだろうか。
だが考え方自体は悪くなかったのだ。この方法は地球を動かすという点では失敗だったかも知れないが、太陽を動かすのであれば非常に有効だったのである。
かつて20世紀の物理学者フリーマン・ダイソンは、恒星を卵の殻のように覆ってしまう人口建造物、ダイソン球と言うものを考案した。
恒星は常に光を発しているが、光はそれ自体がエネルギーなので、卵の殻のようなもので覆ってしまえば、そのエネルギーを余すこと無く利用できる。言うまでもなく、そうして生み出される電力は、人類が考えられ得る限り、最大の発電力を誇ることになるだろう。
なら、その電力を推進力にしたらどうだろうか?
太陽を黒体で覆い、生み出した電力で、その太陽の周囲に電流を流す。すると太陽自体が発する磁場と影響しあい、電気と磁気が交差する鉛直方向に力が生じる。そして太陽が動き出すというわけだ。
太陽が動き出せば、その重力に引っ張られている惑星も全て動き出すだろう。やがてガンマ線の影響から出た時点で太陽の移動を止めれば、万事解決と言うわけだ。
問題は、黒体で覆ってしまうので、今利用している太陽エネルギーが、まったく使えなくなってしまうことだ。地球は死の星となっていたが、そんな状態でも生命活動を続けるプランクトンや植物はあった。光合成エネルギーを利用して繁殖するこれらが死滅すると、地球は始生代へ逆戻りだ。
だからなんとか光エネルギーを確保しようと、苦肉の策として、人類は地球と火星の間に擬似太陽を浮かべた。これは地球の公転軌道と同期しており、常に一定量の光エネルギーを地上へと供給した。
そうして最低限の生物の生命維持を確保した人類は、太陽系が移動し切るまで、自分たちは他の恒星系へと移住していった。彼らが居ない間、月面に地球を管理する施設を作り、人工知能リリィをその管理者として残し、あとは地球を離れたくないと言う物好きな人間だけを残して、人類は別の太陽を求めて旅立っていったのである。
ベテルギウスの影響がほぼ無くなる場所まで太陽が移動するには、およそ1000年の時間がかかる概算が出ていた。人類はその間、別の星系で過ごし、また戻ってくるはずだった。
ところが1000年経っても、2000年経っても、人類が戻ってくることはなかった。それは恒星を巡る旅の途中で滅亡したのか、それとも移住先の星系が気に入って、もう太陽系のことなど忘れてしまったのか……それは分からないが、とにかく帰ってくるはずの人類が一向に帰ってこないせいで、リリィは途方に暮れていた。
地球に残った人類は、やがてベテルギウスの影響下から脱すると、ドームから出て地上を自由に動き回るようになっていた。しかし、そうやって徐々に人口が増えてくると、マナを巡ってあちこちで争いが起きはじめ、ついに大戦争が勃発して、あっという間に滅びてしまったのである。
リリィはそれをただ黙って見ているしか無かった。管理者として残された自分が、人類のやることに口出しすることは出来なかったのだ。
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一万年後。人類は文明の発展と衰退を繰り返しながら、地上で細々と暮らしていた。
マナがある限り、人類はそれに依存する。怪我をしてもすぐに治るから他人の痛みに無頓着になり、一人ひとりが核兵器を持ってるような物なのだから、ちょっとした争いが、すぐに取り返しのつかないことになってしまうのだ。
このままマナを使い続けていては、人類は滅亡を繰り返すだけだ。マナの使用を巡った議論はいつの時代でも紛糾し、一度はその使用を禁じるところまでいった文明もあったが、結局それも滅んでしまった。人間は一度楽を覚えたら、もうそれをやめることが難しくなってしまうのである。
そして最終的に人類はエルフとなる道を選んだ。他者と関わらなければ戦争が起こることもない。それならマナを利用していてもかまわないだろう。果たしてそれが文明と呼べるか分からなかったが、こうして彼らは森の木々のような生活を始め、やがてマナの影響で魔物化し、人間性が失われていったのである。
セレスティアに残されていた人工知能リリィは、この事態に際し、衰退していく人類の対応に苦慮していた。彼女の任務は地球の管理……太陽系を出ていった人類が戻ってくるまで地球を、そして人類を守ることだった。
ところがこの頃の人類は人間性を失い、かつてこの星から旅立っていった同胞のことも、ダイソン球から漏れ出す光が双子星のように見えることも、マナがどうやって生み出されたものなのかすら覚えていないのだ。
そしてただ漫然と日々を過ごし、他者と関わろうとせず、ついにはリリィの存在すら忘れ去ってしまった。大量のマナを生産するために無計画に世界樹を増やし、このままいけば全球凍結してしまうと言うのに、その危機を知るよしもなかったのだ。
太陽系を出ていった人類は帰ってくる気配がない。
人工太陽はあと千年もつかどうか。
リリィは決断を下すしかなかった。もはやエルフは人類としての役目を終えた。かくなる上は彼らを切り捨てて、新たな人類を地球上に再生しなければならないと……
彼女は自分のアバターを作り、そして地上に降り立った彼女による反攻作戦が始まったのである。
セレスティアに降りた彼女は、まずそこに新たな世界樹を作り、エルフの代わりとなる人類を生み出し始めた。生まれたばかりでぼんやりしていた人類は、彼女に導かれるまま大陸を渡り、セレスティアからアクロポリスへ向けて進撃した。
エルフは人類よりも強かったが、管理者であるリリィ相手では為す術がなかった。彼女は人類を凌駕する知能を持ったAIであり、マナを司る施設の管理者なのだ。その力はこの世界の神に匹敵した。
こうしてリリィに導かれた人類は、連戦連勝を重ねて、やがて北エトルリアのエルフを駆逐し、アスタクス北部オクシデント地方へと侵入する。しかし、破竹の勢いで突き進んだ彼らも、アクロポリスに到着した辺りで停滞する。そこでリリィが活動限界を迎えてしまったのだ。
リリィは元がただの人工知能で、肉体が無い代わりに人類より遥かに優れた頭脳を持っていた。ところが肉体を得た彼女は万能の存在じゃなくなってしまった。
彼女は肉体の死に直面し、迷いが生じた。精神は肉体に宿ると言うが、彼女は体が弱ってきたことで、心も弱ってしまったのだ。
彼女は世界を救うために地上へ降りてきてエルフを殺した。
だが本当にこれで良かったのだろうか?
エルフは元々、彼女にとっては守るべき存在のはずだった。本物の人類だったのだ。彼女が作り出したこの新たな人類こそ、本当に人類と呼べるのだろうか。
彼女が衰えてきたことに気づいた人類は、次世代の主導権争いを始めた。自分が皇王となり魔法の力を独占し、人類の王として君臨しようと躍起になった。仕方なくリリィが自分の後継者を作り出したら、今度はその出来損ないを巡って争いを始める始末。
人類の……いや、生物の本能とは争いにあるのだから、結局エルフが人類に入れ替わったとしても、マナがある限り同じことを繰り返すのではないのだろうか。それじゃあ、彼女がやったことに、果たして意味はあったのだろうか。
そもそも、リリィは人間ではない。なのに、人類の行く末を勝手に決めてよかったのだろうか。そりゃ、放っておいたら全球凍結が起こり、世界はそのままオジャンになってしまう。だからそれを食い止めるまでは良かっただろう。だが、此処から先は果たして、エルフを滅亡に追いやっても良いのだろうか?
こうして先に進めなくなった彼女は、最後の手段に出た。
人類のことは人類に決めてもらうしか無い。人ではない自分が決めるのではなく、彼女が絶対に信頼している人に決めてもらえばいいだろう。
『マスター。助けてください。あなたの決断が必要なのです』
そして彼女は赤道直下ティレニアに向かった。
そこに世界樹の遺跡を建てて、月面セレスティアの施設を最大限利用して、そうして作り出したのは、彼女のクローンではなくて……
但馬波瑠だったのだ。
かつて不完全だった彼女に、彼はなんでも教えてくれた。彼女にとって彼は創造主であり、絶対の存在だった。聡明で万能である今の彼女に迷いは生じない。しかし初期の彼女は分からないことだらけであり、その都度誰かに教えてもらうと言う、その絶対の基準が但馬だったのだ。
こうして彼女は、かつてキュリオシティ01で共に過ごした記憶と、そこから回収された但馬波瑠のDNAを元に、彼を復活させた。
しかし、それはとんでもない失敗作だったのである。
彼女は、自分の創造主として生まれ変わる但馬波瑠に万能を求めた。不完全な人間の器を破り、自分と同じ記憶領域を持ち、世界中の人々を管理するだけの魔力を持ち、彼女と同じだけの演算力を持つ。そんな人間を作ろうとしたのである。
だが彼女がおかしくなってしまったように、元々人間と言うものは不完全な存在なのだ。完璧を求めて作られた彼はもはや人間では居られない。
こうしてティレニアの世界樹で1万年ぶりに目覚めた但馬は、自分がポッドの中で増殖を繰り返すただの肉塊であることに気がついた。
人間の精神は人間の肉体にしか宿らない。仮に脳みそを取り出して鳥獣に移植したとしても、すぐに拒絶反応を起して死んでしまうだけだろう。しかし万能を求められた彼は死ぬことも許されない。
彼は生まれ落ちた瞬間に発狂した。
発狂してはまた再生を繰り返す。
生き地獄が始まったのである。