方針確認
「何って……先生。あれは魔素だよ?」
訳ありの同居人アナスタシアの口から出てきた言葉に、但馬は呆然と立ち尽くした。
「……先生にも、知らないことってあるんだね」
呆れるようにそう言った彼女は、今はソファで丸くなって小さな寝息を立てていた。
世界中の誰もが眠ってしまったかのような静寂の中、遠くの方からさざ波の音が聞こえてきた。まるで神様が粘土をこねて創りだしたかのような、整った彼女の顔にアルコールランプの心細い灯りが落ちて、眉間の部分だけやけに深い陰影を作っていた。
窓から差し込む2つの月の青い光が、但馬の作業机の上に置かれたビーカーに反射してキラリと光る。しかしその光は月明かりだけではなく、ビーカーの中にある物質そのものの放つ光も混じっているのだった。
また、ボコっとエタノールの中から気泡が弾ける音がして、ふわりと蛍のような光が飛び出した。それは自由気ままに空中を飛び回ると、やがて音もなくかき消えて見えなくなった。
……魔素とは、大気中に散布されたCPNのことなのではなかろうか?
異世界に来て3ヶ月と少し。まさかこんな形で、元の世界の手がかりが見つかるとは思っても見なかった。だが、かつて自分の目で見た現象と、今目の前で起こってる現象とを見比べてみると、どうやらこの世界には、但馬の住んでいた地球に通ずる何かがあるらしい。
マナとCPNはよく似ている。条件が合致する。
あの面接会場で責任者らしき男が得意気に語ったCPNの特徴は、植物由来の肉眼では見えない分子であり、特定状況下で緑色の光を放ち、自己修復機能のために植物に潜伏してその光合成エネルギーを利用する。
大気中に網目状のネットワークを構築し、電子を中継する媒体として機能し、電荷を持ったCPNは、将来的にはそのエネルギーを使って発電をしたり、外部に直接働きかける機能も作ろうとしていたようだ。
そしてマウスを使った実験では、マウスの脳内に直接チップを埋め込むことで、空気中のCPNネットワークに直接アクセスすることまでが実現されていた……
但馬は自分のこめかみをトントンと叩いた。
『但馬 波留
ALV016/HP118/MP031
出身地:千葉・日本 血液型:ABO
身長:177 体重:62 年齢:19
所持金:金××銀○○……』
すると半透明のメニュー画面らしきものが、視界に被さるように展開される。
右のコラムには、ステータス、魔法、所持品などの項目があり、それを指先で突くと、更にサブウィンドウのようなものが開く。これを使って但馬は魔法を行使したり、レーダーマップを見て、人間の位置情報を確認したりしていた。大体周囲1キロくらいまでなら、隠れている生体反応だって見つけられる。
よくあるアニメ的な手法だったから、ただ便利だなと思うくらいで、気にも留めなかった。だが、よくよく考えても見れば、一体自分は何を見ているのだろうか?
このメニュー画面は他人には見えない。但馬の目にだけ映るのだ。
しかし、彼はメガネのようなものもかけていないから、ヘッドマウントディスプレイのように、何かに映しだされた映像を見ているとは思えない。とすると、網膜に直接投影されているか、もしくは脳内の第一視覚野なりなんなりの脳波に働きかけて、見えているように疑似体験させていると考えられる。
そして、それを行っているのは、恐らくは大気中に形成された目には見えないCPNネットワークと……
脳内に埋め込まれたチップか何かだ。
「クソっ……」
但馬が舌打ちし悪態を吐くと、ソファのアナスタシアが寝苦しそうに唸り声を上げて寝返りを打った。彼は下唇を噛んで口を真一文字にし、彼女が起きてしまわないように、じっと息を潜めた。
寝返りを打った時にはだけたのか、薄手のシャツの裾からアナスタシアの真っ白なお腹が覗いた。但馬はソファから滑り落ちたタオルケットを拾うと、意識しないように心がけながら、彼女にそれをかけた。
但馬は作業机の椅子に戻ると、首を振るって深呼吸した。
まだ、結論付けるのは早計だ……もしも自分の最悪な想像通りに、オルフェウスが自分の脳みそを外科的に弄くったのだとしたら、その痕跡があるはずだ。だがそんなのは、この三ヶ月間まったく気づかなかったし、誰からも指摘されなかった。
温泉入浴が一般的なこの国で、但馬はほぼ毎日頭を洗っていた。しかし、触ってみても頭蓋骨と頭皮の間に変なコブがあったりしなかった。もしも脳に直接埋め込むとするなら、頭蓋骨に穴を開けるしかない。流石にそんなことをされて全く痕跡が無いなんてありえないだろう。
大体、脳にチップを埋めるとか、そんなことを疑う前に考えるべきことは他にある。一体この世界は何なのか? どこにあるんだ?
ここは明らかに地球上ではない。どこか別の惑星だ。果たして、但馬が寝ている間に脳みそにチップを埋め込んで、ロケットに乗せて見知らぬ惑星に飛ばしたとでも言うのだろうか。その惑星はテラフォーミングがされており、ナノマシンが大気中に満遍なく散布されて、神の奇跡みたいな魔法をインスタントに使うことが出来るのだ。
そして夜空を見上げれば2つの月が浮かんでいて、中世ヨーロッパ程度の未発達な文明があり、そこに人間と動物が掛け合わされたような亜人が居たり、魔物が潜んでいたり、界王神様みたいな謎の人型生命体まで存在するのだ。
バカバカしいにもほどがあるだろう。
オルフェウスという企業は確かに凄い科学技術を持ったコングロマリットだった。しかし、だからといって、こんな世界を作り出せるほどじゃない。いや、オルフェウスどころか、NASAにだって作れないだろうし、世界中のありとあらゆる企業や団体が結集しても、そんなことは不可能だ。
ところが……こうして今、植物のクロロフィルから、あの日見たナノマシンらしきものが出てきてしまったのだから、何らかの関係があることだけは確かなのだ。信じたくはないのだが……ここは現実世界の延長線上にある世界に違いないのだ。
「ああ……わけわかんねえ」
但馬は独りごちた。どうやって自分はこの世界にやってきたのだろうか? あの会場から、リディアの浜辺にポツンと立ち尽くしていたところまで、何があったのか全く記憶が無い。しかし、先に述べたとおり、その記憶のない間に、飛行機やロケットのような乗り物に乗せられて飛ばされたとは考えにくい。
じゃあ、ここは現実世界ではなくて、現実を模したバーチャル世界だとしたら辻褄があうだろうか? 例えばVRMMOなんて都合のいいゲーム世界のように。もの凄いコンピュータか何かに、現実を模した世界を用意し、何らかの方法で疑似体験させる。あとはそこにCPNと言うナノマシンの概念を投入するというわけだ……
しかし、地球上のあらゆる自然現象をシミュレートするのは、少なくとも但馬の居た現代では、どんなスーパーコンピュータを使っても不可能だった。色々な制限を設ければ、それっぽく見せることは出来るだろう。だが、そんな見せかけの世界では、どうしたってラグドール物理学のような嘘っぽさが出て来てしまうはずだろう。
なのに、この世界では植物がフィブリル化してセルロースになるし、電磁誘導の法則も成り立てば、電気分解も行える。脂肪酸をアルカリで鹸化すれば石鹸になるし、クロロフィルはエタノールに可溶であるが、CPNは不溶だったりと、いちいち設定が細かすぎる。そのエタノールを作るために酒造にお邪魔したが、酵母らしきものまで育てていたのだ。こんな微生物なんてものまでシミュレートしておきながら、嘘っぽさが全く出ない世界を作り上げるなんてことは、少なくとも現実世界では不可能だろう。
そして別次元に存在する異世界と言うのも、こうなってくると中々考えにくい。この世界は、但馬の居た世界の物理法則に従っている。ならば、仮に何百光年離れていたとしても、少なくとも同じ宇宙の中に存在している惑星だと考えた方が無難だろう。そもそも何故自分なんかがそんな不思議体験に巻き込まれたのか? という疑問もさることながら、どうしてそんな世界にCPNが存在してるのか? という疑問がさらに追い打ちをかけるからだ。
何しろCPNはオルフェウスの開発したナノマシンなのだ。
不思議世界の魔法分子ではない。
もちろん、マナとCPNはやはり別物だったと言うのなら、他次元の異世界という可能性も捨てきれないだろう……だが、今更そう考えてしまうのは、都合が悪いことから目を背けることに等しい。この世界は現実の延長線上の世界。マナとCPNが似ている以上、どんなに都合が悪かろうが、その2つが同等のものという可能性を考えていくしかない。
「それに気になるのは……」
但馬はメッセージウィンドウに未だにログが残されている『実績解除』の文字列を見つめた。
初めてこれを見た時は、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、それ以上は考えずにすぐに受け入れてしまった。だが、今となっては、これには何者かの思惑を感じざるを得ない。
但馬はこのメッセージを見て、即座にこの世界はゲームの世界だと思ってしまった。ラノベなんかでよくある手法だったからだ。更に、その直後にキュリオなるチュートリアルの案内キャラが出てきたものだから、ますますその考えが正しいと思ってしまった。極めつけはあの魔法だ。夢じゃないなら、ゲームだと錯覚しても仕方ないではないか。
こうして但馬は、この世界はゲームの世界、もしくは別次元にあるファンタジーな異世界か何かだと考えてしまったわけだ。だが、実際にはこの世界はそんな単純なものでは無さそうだ。
どうやら自分は何者かに誘導されていたようである。一体誰が、何のために? と言われると、思いつく限りでは、オルフェウスくらいしか思い浮かばないのだが……しかし、その理由がさっぱりわからない。
……それにしても、あのキュリオという謎のキャラクター……あれは自分に何をさせようとしていたのか。
もしも、あの時、あいつの言うことに従って、ブリジットたちを殺していたら、一体今頃どうなっていたことか……
但馬はブルブルと身震いした。
シモンはあの山で死ぬことは無かっただろう……他ならぬ但馬に殺されたせいで。そして自分はリディアのお尋ね者になり、アナスタシアや他のみんなと出会うこともなかったはずだ。森に逃げ込んでエルフに殺されていたか、ところかまわず魔法をぶっ放して、リディアを滅亡させていた可能性もある。想像するだけでも頭が痛い……返り討ちにあって自分が死ぬのが一番マシな結果である。
とまれ、なんにせよ、何者かの意志が働いているとするのなら、もう遠慮することはないだろう。あのアルバイトの面接会場には、自分の他にも100人以上の人たちが居た。もしかしたら、あの時の人達が同じようにこの世界に居るかも知れないのだし、これからはもっと目立っていってもいいだろう。
と言うか、居るのだろうか? この世界に来て3ヶ月以上。S&Hもあるし、少なくとも但馬はリディアの有名人だ。誰か居るならそろそろ接触してきてもおかしくないのだが……
「そういやあ……あのリリィって姫様」
そんな時、真っ先に思いついたのは、リディアに来た初日に出会った、エトルリア皇女と言う少女のことだった。
彼女のそのステータスは異様なくらいに高レベルなものが並んでおり、やけに訳知り顔をしていた。彼女は何かを知ってそうな予感がする。少なくとも、それに準ずる何かを持ってるはずだ。なにしろ、あのステータスなのだから。
ずっと気になっていたALVと言う数字、先ほどの実績解除の際に判明した事実によれば、これはどうやらアクセスレベルのことらしい……何にアクセスするのかは分からないが、それがレベル99もある彼女が何者であるのか、今となっては非常に気になるところだ。
しかし、彼女はクリスマス休戦の調印が済んだら、さっさとエトルリアに帰ってしまった。もう3ヶ月以上も前、去年の話になる。
どうにか彼女と接触する方法は無いだろうか? またリディアに来る用事でもないか、ブリジット辺りに聞いてみよう。もしくは、エトルリアに行ってみようか……
チュンチュンと、小鳥のさえずる声が聞こえてきた。
気がつけば夜が明けて、空が白み始めていた。どうやら、考え事に夢中になるあまり、時間を忘れていたらしい。但馬は腰掛けていた椅子から立ち上がると、グッと背伸びをして大あくびをかました。
他にもまだまだいくらでも気になることがある。
前人未到のガッリアの地、森の中は一体どうなっているのだろうか。かつての勇者が渡って来たとされる、外洋に浮かぶ島のことも気になる。実際に南に島はあるのだろうか。確か、イルカも南の島がどうこう言っていた記憶がある。あのイルカは邪悪だったかも知れないが、考えても見れば嘘は一つも吐いてない。なら、これも考慮に入れておいた方が良いだろう。
そしてエルフ。あの生命体は一体何なのか……
リディアとメディアの戦争はこれからどうなるのか……
自分と同姓同名の勇者のことも気になる……
その勇者が北の大陸で何をしてたのか……
S&Hのことも放ってはおけない……
アナスタシアのことは……
一体、何から手を付ければいいものやら……
そんなとりとめのない事を考えながら、但馬はアナスタシアの眠る工房から出て寝室へ向かい、そのまま着替えもせずにベッドにダイブした。
やらなきゃいけないことは他にもいくらでもあるのだ。休めるときに休んでおかねばなるまい。新しい生活は、まだ始まったばかりなのだ。
そして彼は微睡みもなく深い眠りに落ちていった。